「オンナノコ関係」と2つのゲストルーム

id:Ririka:20031013さんより(引用の引用になってしまいますが)。

逆に会話が盛り上がってしまうと、 「女の子なのにこんなに話せるなんてなんて素敵なんだ」みたいなふうに思われて、いきなり恋に落ちられたりするので注意が必要です。

私自身にとっては面白い意義のある話(うわべだけでない込み入った話)のできる男の子、というのはたくさんいて、男女の差抜きで話をしたいと思う人は多くて、でもそれにはいろいろと難しさを感じていて(好きになられたりして困るとかも含めて)、なんでなんだろう。

逆に、男の子はそういう問題でなやんだりしないのかな?

恋人を作れなくて悩んでる人(「女の子を喜ばせるような他愛のない話」ができなくて悩んでる人)は多くても、女の子と意味のある会話ができなくて悩んでるという人ってそんなに聞かない。

また個人的な話になりますが(というか個人的な話ばかりなんですが)、こないだカウンセラーの人と話した時に僕自身の、女性側のジェンダーに寄り気味のままに女性と(あるいは男性とも)付き合ってしまうという性質(id:sayuk:20030927#p1とかに書いてあるけど)について話していて、その時訊かれて詰まってしまったのが「じゃあ恋愛感情を持った場合どうするの?」という素朴な質問。(不適当かもしれないけど)僕が一時レズビアンを自称していたのは多分そういうことで、ただそうなるとレズビアンの恋愛感情と男性の恋愛感情は(あるいは全ての恋愛感情は)同一なのか?という問題になってくる。
異性間の友情は成立するか?なんて話はもう世界で何兆件も繰り返されているのに、そもそも異性間の愛情は本当に「異性間的」なのか?という確認はあまりなされることはない。それは反転すると、異性間の友情はなぜ「異性間」とされるのかという問題で、つまりは異性間の友情は異性間であることを規定した瞬間に成立しなくなるのではないか。id:sayuk:20030927#p1でした「シスプリの気持ち悪さ」みたいな話にも繋がるのだけど、「男女の差抜き」と「同性間」の間にはわたしたちがあまり認識してこなかった深い溝があるのではないか。似ているようで全く違う2つのゲストルームがそこにはあって、僕がかつて「男の子なのにこんなに話せるなんて」と言われたのも結局は同性間と違うゲストルームに過ぎなくて、「いいひと」宣言ではないにしてもそこに不安定感を抱いたのもそういう理由なのかもしれない。いったん消したはずの「男性性」が「恋愛感情を持った場合どうするの?」と訊かれた瞬間に取り戻さざるを得ない(異性間の愛情は異性間的に演じられなくてはいけない)のと同じように、その瞬間に僕は「無性」という別の男性性を押しつけられたのだ。
id:sayuk:20030921#p2やid:sayuk:20031010#p2で僕が取り上げていた*1「男性オタクは一般の男性性(の愚かさ)を捨てられるの?(そもそも女性オタクにも女性的な厭らしさがあるのでは?)」みたいな話に、id:tskmryさんは
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*1:もともとの話はid:tskmry:20030914#p2さん

(続き)「性差抜き」/「同性のような」、恋愛と友情

id:kaolu4s:20031017#p13さんで取り上げられていたので引用します。

女性は恋愛市場から降りられないってだけの話じゃないのかしら。にもかかわらず、女性にはオンナノコ同士は、そこから降りた純粋な真実の関係を結んでいるという幻想があって、だから、「好きになられたら」=恋愛市場にいまだとどまっている事を突きつけられると「困る」。その幻想を共有できる範囲が、多分オンナノコにとっての「同性」。

「恋愛市場から降りたオタク男女」のはずが「オンナノコ同士は恋愛と近似した様相の友情関係を結んでいる」というのは突き詰めれば確かにkaolu4sさんの言うようなことで、オンナノコ関係への気持ち悪さというのはそういう「裏切り」への感覚なのかもしれません。
ただ、上で自分が書いたことは半日経って考えてみるとやはりちょっと間違っていて、男性側からオンナノコ関係に介入しようとする一方的な視点で書かれてますが、オンナノコがオンナノコ関係的なものを捨てられないようにやっぱりオトコノコもホモソーシャルな関係から脱け出せないのだと思います。たまたまホモソーシャルな関係から脱け出してる(と自分では思っている)僕自身の視点だから上のような話になっちゃってますが。
コメント欄でも同じようなことを書いてますが、上の問題意識は簡潔に言うと「性差抜きの関係と同性のような関係は厳密には全く別のものじゃないの?」ってことなのでしょう。「同性のように付き合える」という場合は実際には前者で、本当に同性と付き合っているようには付き合ってないのではないか。例えば自身でもオトコノコと付き合う方が気がねないと感じるオンナノコがいて、相手からも「男同士みたいな付き合いだな」と言われて喜んでたとする。でも実際に相手が他のオトコノコと付き合ってるのを見るとどこか疎外感があるわけです。結局ホモソーシャルな関係と「男同士みたいな」(=性差抜きの関係、「無性という性」を押しつけられた関係)は決して重なり合わなくて、でもそもそもオンナノコも別にホモソーシャルな関係に入りたいわけじゃない。それでも「『同性のような』と見られる戦略」を取ろうとする(取らざるを得ない)オンナノコは一定数いて、それに対してオトコノコ側から「男同士みたいな」と規定するその手付きは何というか「都合のよい利用」に終始してはいないか。上で取り上げてる「オンナノコ関係からの疎外感」を反転させるとそういう話になって、だから問題はオンナノコが恋愛市場を捨てられないとかそういう一方的な話では片付かないのではないかというのを新たな印象として持ちました。
あとkagamiさんのコメントから、吉野朔実『恋愛的瞬間』の「恋愛と友情の違いについて」の講義を思い出したので引用(2巻より)。

…恋愛は あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力
友情は 相思相愛でありながら 抵抗によって達成できない擬似恋愛関係
同性であるとか既婚者であるとか恋人がいるとか 顔は好みだが性格が気に入らない 性格はいいが肉体的に受けつけない等々 逆を言えば 抵抗があるにもかかわらず気持ちのベクトルが向き合っている 人間関係と言ってもいい
(中略)抵抗を克服すれば 恋愛になる可能性は極めて高いと言える

今日の日記は日記タイトル(close/cross; confusion is sex)にめちゃめちゃフィットした内容で個人的に大好きです(自画自賛)。

(おまけ)異性間の友情は〜

id:mitty:20031017#p2さんで、id:system:20031017#p3さん(かみさま)の話と関連してる、と指摘を戴いたので、いにしえより何兆件も繰り返された「異性間の友情は成立するか?」という問いに自分なりに答えてみようかと^^。
そもそも「異性間の友情」と言った時に想定される理想の行く先は「性差のない友情」だと思います。しかしそれに対して参照される現実的な友情は同性間のもの、つまり「同性的な友情」(オンナノコ関係やホモソーシャル的な)なわけです。そのため理想される「異性間の友情」は決して現実的なものに対応する形で成立しません(もし同性的な友情として構築されたとしても、結局はどちらかが「男性的な女性(女性的な男性)」という新たに規定された性を押し付けられてはいないでしょうか)。そもそもそれ以前に(前者の設問で理想される「性差のない友情」として)同性間の友情は成立しているのでしょうか?
上の考えをそのまま援用しているのですが、つまりは「友情」に付与される「性差のない」と「同性のような」という2つの属性を混同したままこういう設問をしても意味がないのではないかという意識なのでしょう。その辺りに気付きつつ、「異性的な友情」という概念を新たな形で構築すればそれは成立するのかもしれないです。
追記。大元のid:Ririkaさんの所でもコメント戴きました(id:Ririka:20031017)。僕が上の理論で考えていたのは理想気体のような、双方が完全に「男女の差抜きの友情」を目指している場合でもそれは同性間の友情のようには行かないのではないか、ということなのだけど、そこに至る以前にやっぱり(「男女の差抜き」を理想していながら)異性愛的なものを予感して防衛機制が働いてしまうということでしょうか。「異性間の友情は〜」話のほとんどもこれと同じような結論に帰着していると思います。
考え直してみたんですが、やっぱり「異性間の友情は〜」みたいな一般的な話にしてしまうと違う気がします。上の記事はあくまで「トランスジェンダー的な意識をもつ1人のオトコノコ」にとってどうなのか、という非常に個人的な話(初めからそう言っていますが)だと捉えていただければ幸いです。