第50回UTalkに参加しました。

UTalkに参加してきました

UTalkは月に一度、東京大学の研究者の方を招いて、研究内容について話をしてもらうという小規模な公開講座のようなものです。公開講座といっても、研究者の方は毎月変わることと1時間という時間なので、テーマに興味があれば気軽に申し込むことができます。天気が良い日は屋外で開催されるようです。参加者は15人という少人数で、参加者がオーバーした場合は抽選になるようです。

今回が丁度50回目のUTalkでした。テーマは「電話について。」
お話はメディア論をテーマにされている水越伸先生です。また、進行役としてこのイベントを主催している森玲奈先生もいらっしゃいました。

●イントロダクション
今となっては当たり前のように使われている電話であるが、発明されてしばらくは、コミュニケーションをする方法というよりも、一方的に何かを伝える手段として用いられた。(当時の様子を先生が持参された本で確認)
コンサートの演奏や、読み聞かせといった、いわゆるラジオの役割を果たしていた。(ラジオが発明されるのは電話よりも40年ほど後になる)

●黒電話
 日本に電話が導入されたのは明治時代だけれど、普及したのは戦後に入ってからだという。一般家庭や職場に設置されていた一般的な電話として黒電話があった。今回の参加者のうち約半数がこの黒電話を見たり、使っていたりしていた。当時東京大学で使用されていた黒電話が紹介され、参加者の間で回覧された。

私の家にもこの黒電話はあった。とはいっても小学生低学年くらいまでこの黒電話だったと記憶している。この時期には電話をかけることはなかったと思うが、離れて暮らしている祖父母と話をするときに重みのある黒い受話器を持ち、話をしていたのだと思う。呼び鈴が良く響き、電話が鳴るたび「うるさいなー」と思っていたのを思い出す。新しい電話にして良かったことの1つに呼び鈴がうるさくなくてすむということだった。
今回久しぶりに黒電話をみて、電話をもった時の重量感と黒く塗られ光沢を帯びた電話は、それだけで存在感があった。ダイヤルを回すと、ジーという低い音をしながらもとの位置に戻ろうとする。警察を呼ぶための119番はダイヤル式電話でかけた時に、ダイヤルの9がまわりきるまでに落ち着いて用件を伝えられるようにこの番号となったという話を聞いたことがある。プッシュ式となった今では電話をかける時に番号を押すのにはダイヤル式の場合と比べて圧倒的に早くなったけれども、早くつながらないと焦りを感じてしまう今とはまた別の時間が流れていたのだと感じる。いうまでもなくポケットに忍ばせている軽く、小さく、薄いスマートフォンと同じものには見えなかった。

●電話のプロトコル(手順)
電話応対を学ぶ機会はあまりない。あるとすれば新入社員研修のころだ。しかし、今となっては多くの人が携帯電話をもっているし、当たり前のように使っている。社会人になるまでに電話の受け答えを習ったという記憶はほとんど無い。

電話の終わり方は各国によって異なるようだ。水越先生によると、韓国人が電話をかける場合はあらかじめどういうネットワークでつながっているのか分かっているので、電話は前置きなく、用件が終わったらあっさりと切るようだ(日本人にとっては終わりのやり取りが無く急に切れてしまうので、もやもや感が残る。水越先生によると、日本人は用件が終わってから電話を切るまでの時間が長いという。)

これについては私も経験がある。ある大学で海外留学や外国人留学生を取りまとめる部署で働いていた時のこと。学内の手続きで、学生から直接この部署に電話がかかってくることがあった。全ての留学生がそうではなかったけれど、いきなり用件から切り出して説明する。電話を受け取る側はいきなり用件をいわれてもわからないのだけれど、たどたどしい日本語から留学生と判断し、対応できそうな担当に電話をつなぐ。ただ単に電話のプロトコルを知らないのかもしれないが、この話を聞いて少し納得した。


●技術と普及
携帯電話に新しい技術がついてから普及するためにはタイムラグがある。例えば携帯にカメラがついたのが2000年頃、写メールが普及したのが2003年。そのうち動画を添付することも可能になったし、カメラでお互いの電話を確認しながら電話することもで来るようになった。過去の自分を振り返ってみても、カメラという機能がついても最初はそのカメラで写真を撮るという習慣は全くなかった。むしろ抵抗があった。カメラ付き携帯で写真を撮られることに抵抗を感じる人もいた。(私もその一人だった)
カメラという機能に何の魅力も感じていなかったが、キスのポーズをして写真を撮り、恋人にメールするというCMをみて、こういう使い方もあるのか、と思わず納得した。おそらくその時見ていたCMがこれ。(久しぶりに見て思ったのだけれど、まだその時カメラが背側しかなく、自分が画面に映っているのか分からずにあの写真を撮るのは至難の業だったろうな)

今はスマートフォンが普及し始めている。いつの間にか携帯電話には複数の機能が備わっていて、電話という機能よりもその他の機能が主になり始めている。通話よりもメールのやり取りが多く、Twitterfacebookのようなアプリケーションが当たり前のように入っているし、若い人は当たり前のように使いこなしている。しかし、短いサイクルで技術が更新されつづけると、技術についていけなくなる人もでてくる。携帯電話はどう発展していくのだろう。電話という機能が主用途ではなく、それとは別のものが主になっている携帯電話はもはや電話ではなくなりつつある。けれど、それで本当に良いのか?というのが水越先生の意見でした。

水越先生が所属している情報学環の調査では、最終学歴が高く、年収が高いほど新しいサービス(facebookなど)を使いこなしているという傾向があるという。私の知り合いでもTwitterfacebookの存在を知っていても、あえて手を出さない人もいる。私の場合ではTwitterでフォローしている人のなかでよく目にするサービスが一般的な認知度とは異なることも経験した。少し前のことだけれども、2010年にfacebookを題材とした映画「social network」が封切られた時に、メディア業界で働いている方から「日本にもgoogleを知らない人が一定数いる」という話を聞いた。もちろんそれを聞いたときは驚いた。日常的にインターネットに触れている私からは想像できないが、全く必要としない人もいるのかもしれない。
Digital Divideという言葉の分類では地理的な問題で情報格差が生まれるとあるが、それとは別に、その存在を知りながら、使わないことを選択した結果、得られる情報に差がでることも今後増えてくるのだろう。そして、今はどうにかついていけるものの、ついていけない人がでてきたり、ついていこうと思っても、既に遠いところにあって入れないということもあるだろうか。いくら技術が進歩しても使う人間には変わりはない。誰もが当たり前に使えていたものがいつの間にか一握りの人しか扱えない。それはおこらないで欲しい。

最後に気になるまとめがあったので紹介。
都市生活者でないとソーシャルメディア的な機能を求めないのではないか、という仮説

信じられるデザイン展

六本木ミッドタウンのデザインHubで行われている「信じられるデザイン展」をみてきた。

「信じられるデザインとは何か?そのデザインはなぜ信用できるのでしょうか?」について約50人のデザイナー(グラフィック・プロダクトなど)が答えとその理由を書いている。

50通りの答えと理由があって面白かった。気になったものをいくつか紹介する前に「信用」という言葉について少し考えてみたい。というのも、昨年の大震災以降この「信用」という言葉をよく目にするからだ。では、信用とは何なのだろうか。最近当たり前のように使っていると共にその意味についてはわざわざ調べるまでもないかもしれないが、あえて調べてみる。普段使っている言葉でこそ、その意味を問われると説明に窮するものもあるからだ。(左右、上下など)

大辞林で「信用」を調べると、
・人の言動や物事を間違いないとして,受け入れること。 「彼の言葉を−する」
・ 間違いないとして受け入れられる,人や物事のもつ価値や評判。
とでてくる。

ちなみに、信用とともに頻繁に使われている「信頼」については、
・ある人や物を高く評価して,すべて任せられるという気持ちをいだくこと。
〔類義の語に 「信用」 があるが, 「信用」 はうそや偽りがなく確かだと信じて疑わない意を表す。それに対して 「信頼」 は対象を高く評価し,任せられるという気持ちをいだく意を表す〕
とかかれている。

信用は信頼に比べ、(信用する)対象と(信用する)と判断を下す側が信頼のそれより近い距離にあると考えられる。

最近読んだ「私たちはどうつながっているのか」には、信用と信頼の違いについて興味深い引用があった。

信用と信頼の違いを北大の山岸俊男は「信頼の解き放ち理論」において、信頼は「赤の他人を信頼できるかどうか」という尺度で定義した。(これは一般的信頼といわれている)・・・(略)・・・日本人が身近な人を信用するには一般的信頼ではなく「安心」と定義される。また、信頼と安心は対極にあり、信用という言葉は曖昧に定義されている。


信用を安心と置き換え考えてみると、汚染の恐れのある食物の信用を取り戻すために厳密な検査が行われているとというニュースはよく耳にする。それは、消費者が食べても体に害の無い安心な食べものだからだ。(厳密にいうと害のない食べ物はないという考えもできるが、それはここでは考えない)

信じられるデザインを安心できるデザインと読み替えてみると、例えばはじめて手に取ったものでも、取扱説明書の必要の無い直感的に手になじんで使うことができるデザインであったり、間違って使っても怪我をしないデザインといった設計に直接関することから、そのデザインがあるだけで心が落ち着くような精神的に訴える部分も考えられるだろう。

信じられる(信用できる)デザインを辞書どおり捕らえると、間違いないと受け入れられるものとは、既に自分が長年愛用しているものだったり、もしくはだれがデザインしたのかは分からないものの、形を変えずに社会一般に流通しているデザイン(アノニマスデザイン)というのもあるだろう。

50通りの答えはいくつか回答が類似しているものもあったけれども、大方様々で楽しめた。

印象に残っているものとしては
・一人の消費者として選んだMUJIのマグカップ(毎日使っていてその使い心地が信じられる):永井一史さん
・目盛りのあがり方で熱がの有無が直ぐにわかる水銀温度計(体温の情報が視覚的に伝わりやすい、水銀は環境にはよくないが):佐々木千穂さん
・個の哲学思想に基づき具現化された作品として選んだめし茶碗:平野敬子さん(ちなみに、原研哉さんも茶碗でした)
だった。

5月27日まで開催中。
自分の信じられるデザインは何か?を考えながら見ていくと楽しめる展示だと思う。

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

2つの本で描かれていた家族というコミュニティの捉え方の違い

最近読んだ本(ライトノベル?)「偽物語」と「輪るピングドラム」では、主人公が家族というコミュニティの捉え方が異なっているのが興味深かった。

偽物語化物語シリーズ)では主人公の阿良々木暦と妹2人、そして両親の5人で暮らしている。本の中では、両親との接点はほとんど無く、兄妹の話が中心になる。話の中で、主人公は祈祷師から妹の一人が人間ではなく、生まれた時から不死身の怪異であると告げられる。しかし、主人公は「妹の存在は怪異ではなく家族だ」と主張する。

一方、輪るピングドラムの主人公である高倉晶馬は兄の冠葉、妹の陽毬と3人で生活している。両親はいない。建前上では3人兄弟ということにはなっている。けれども、実際は3人とも別々の家族から死別したり孤児院のような所から引き取られて兄弟という形をとっているが、物語の終盤には3人はばらばらになる。
3人兄弟という家族が分断されるようになった原因が彼らの両親が10年以上前に大規模なテロを起こした犯人であるという設定だ。犯罪者の子供である晶馬は、直接犯罪に手を染めたわけではないにもかかわらず、そのぬぐえ切れない事実に罪の意識を感じている。

偽物語における主人公と妹の関係とピングドラムにおける3兄弟はどちらも血のつながりはないという点において共通している。

偽物語の主人公にとっては「例え血がつながっていなくても長年一緒に生活している事実に変わりは無く、妹は家族の一員である。」主人公には「家族は大切にすべきコミュニティだ」という前提があった。だから、たとえ妹が偽者でも家族であることには変わりはない。主人公の視線は家の中(内)を向いている。

他方、ピングドラムの主人公にとっての家族では両親が起した犯罪という重い十字架を背負っており、世間の目からは注目されないでひっそりと生活することを望んだ。3人で分担して生活してきてなんとかうまくやっていたけれど、結局こじれてしまった。もともと血がつながっていなかったのだから仕方がない。家族ごっこはもう終わりだ。こちらの主人公には家族を世間(外)にとってどのような存在なのかという事に意識が向けられている。


輪るピングドラムの監督を務めた幾原邦彦氏は物語をつくるにあたり、インタビューでこのような事を言っていた。

アメリカのドキュメントで、刑務所に入った家族に毎年会いに行って、みんなで集合写真を撮るという話をみたことがあった。日本だと問題を起した小さなコミュニティを許そうとしないムードがあるでしょう。ムラ社会的な装置が、そんな家族にフタをしようとする。でもアメリカは逆で「周りがどういおうが、自分達のコミュニティが大事である」と思うみたいなんだよね。面白いなぁと思ってね。日本もそのうち、そうなるんじゃないかな。「自分にとって最も大切なコミュニティは何かを誰もが自覚する日はそう遠くないと思う。

一般化することは少し暴力的かもしれないが、上の引用に当てはめるのであれば、偽物語の主人公はアメリカ的で、少なくとも彼の家族内では頼れる兄としてみられるだろう。ピングドラムの主人公はどちらかというと日本的で彼は頼りない存在に見えるかもしれない。そしてそんな彼の事を私達は遠めで見て「情けないなぁ」という印象をもつこともあるけれど、はたして彼と同様の境遇にあったときに、偽物語の主人公と同じ態度を取れるだろうか。

今回取り上げた2つの話は「家族」という型をとっていた。そしてこれまでは「家族」こそが最も強いコミュニティだと考えられていて、震災を経てからもよく取り上げられるけれども、大切なコミュニティが家族とはまた別の「なにか」がそろそろ出はじめてもいいのではないかと考えている。

ワークショップとファシリテーター育成

2/18に福武ホールで行われた「ワークショップとファシリテーター育成」というシンポジウムに行ってきました。

このシンポジウムに行った理由のひとつは、Twitterでフォローしている森玲奈(@Reina_mori)さんの研究が気になっていたからです。

ファシリテーターという立場は、会議やミーティングなどで双方の意見を取りまとめながら、相互理解を促す調整役のことで、ハーバード白熱教室で話題になったサンデル教授の役割といえばわかりやすいでしょうか。

ただ、今回のシンポジウムで語られるファシリテーターという立場は、子供の情操教育として開かれているワークショップにおいて、小グループに分かれた子供達を見守りながら、与えられた課題の解決方法(アイデア)を導き出す手伝いをする役割をする人のことを指します。

福武ホールのHPからファシリテーター育成に関する研究成果を見ることができます。

今回のシンポジウムでは、森さんが中間層育成のためのワークショップをの形をつくって”「あたふた」ワークショップ”という名前で発表されました。その背景として、ファシリテーターの初心者を育てる方法は既にいくつかあるものの、ミドル層のファシリテーターを育成するプログラムはまだ少ないことが挙げられます。

シンポジウムでは実際に目の前で実演していただき、雰囲気をつかむことができました。

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あたふたワークショップ

参加者(標準):中堅ファシリテーター(以下中堅)6名 ベテランファシリテーター(以下ベテラン)2名で一組。

●ワークショップ
I.中堅:さいころを振る

II.中堅:出た目に該当する項目について話す

1.(ファシリテーターをしていて 以下2〜6にも文頭につく)困ったこと
2.印象に残っていること
3.もやもやしていること
4.うまくいったこと
5.笑ったこと
6.楽しかったこと

III.ベテラン:並べてあるカード(このカードは中堅ファシリテーターに必要な項目が書かれており、全てばらばらの項目が書かれている)
から1枚選び、カード解決法を話す。その後、カードを中堅にプレゼントをする。(ベテラン1名につき1枚のカードを選択→アドバイス→プレゼントの過程があるので、中堅は2枚のカードをもらうことになる)
5、6の目が出たときにはベテランはカードは引かない

会場には実際に使用されているカードを見ることができた。ちなみに、このカードはパワーポイントで作成し、厚紙に印刷して切り分ければつくることができる。カードに書かれている文章を挙げると、
「こどもに対し、表情豊かに接する」
「こどもは大人と違うスピードで成長している」
「危険な道具や場所に対して確認し、配慮ある対応をする」
・・・といったものでした。

ここまでで一つの流れが終わり、I.にもどり、別の中堅がさいころを投げる。
一通り終わったら:ベテラン抜きで話し合う。ベテランはお茶の用意
ベテラン抜きで話し合うのは、中堅だけで解決できる問題もあるのではないか、という意識から。

その後、ベテランを交えて再度話す。
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ワークショップの説明が終わった後のパネルディスカッションなどで話された事柄

●大学の授業への導入
大学の授業の一環としてファシリテーターとしてWSの手伝いをしてもらった学生がどのような感想をいだいているかの紹介がありました。
そこでは、「待つこと」の大切さを実感している学生が多いことが紹介されました。

ファシリテーターにおける初心者(ノービス)と中堅(ミドル)の違い
初心者は何をやっても新鮮に感じる。ミドルは基本的なスキル・ネットワークは身についているが、それらの使い方の場面に迷い・もやもやがある。ある研究結果では3年という期間が出ているが、教師のように毎日行うものではないので、尺度は難しい。

ファシリテーターと教師の違い
教科書:教師は有る/ファシリーテーターにはない。
テーマとゴール:テーマは両者にある。ゴールは教師にあるが、ファシリテーターにはない。
立場:教師は生徒の立場をはっきり分ける。/ファシリテーターは分けない。
評価(テスト):教師はある/ファシリテーターにはない
計画性:教師は長いスパン(数ヶ月単位)で一定の範囲を教える必要があるので、長期的に計画を立てる必要がある。/ファシリテーターはその場(数時間)で1つのことが終わってしまうので、長期的な計画性は身につきにくいかもしれない。

●継続的に学生にボランティアに来てもらうためには
定期的に声をかけて参加を促す/気軽に雑談・相談(フォロー)できる場所であること

●よいワークショップとは
参加者が楽しめるもの/終わった後に、じゃあ次はどうするかを考える/問題を持ち帰る。
主催者側として:余白を意識する。準備までに完成させない。当日完成させる。

●よいファシリテーターとは。
何が起こるかが予想できる/状況に応じて柔軟に考えられる

:その場が心地よいことであること。その人にとってメリットがあること。一度目いい体験ができた。けど、二度目の時にはダメ(一度目よりもよくなかった)だった。ダメだった人のフォローができるところ。

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以下感想など
◎あたふたワークショップについて

 ●あたふたの意味
このワークショップの名前に入っている「あたふた」する部分は中堅にとってはさいころを投げる部分で、さいころの目が出ればその話をしなければならない(もし話しにくい話題になっても、話すことになる)という面を持っているけれど、その一方でさいころを振らなければあまり話題にしにくいことも、さいころに該当するテーマで話さなければならない、というルールであれば自然と話ができる。
また、ベテランにとっては中堅に渡すごとにカードが少なくなっていくので、カードが少なくなるにつれて、いいたいこととカードを上手く結びつけながら話す必要が出てくるのでその部分があたふたする部分になっててくるんだろう。

 ●カードの数について
30〜40枚くらいあるカードを使う、という話を聞いて、会場で机の上に並べられたカードを見て、少し多いのではないか。と感じたので、シンポジウム後にTwitter上で森さんに質問した。すると、
カードの数は少ない、多いの両方の意見がある。
カードはあくまで雑談を誘発するための手段の一つ
WSが進むにつれてカードは少なくなっていくけれど、その状態でベテランがどう中堅に伝えたいこじつけるような難しさも出てくるけれど、脱線がうまれればいい。
とのお返事をいただいた。

対象となるファシリテーターが6人いて一人に対してベテランから2枚のカードが渡される。1周した時点で最大でなくなるカードは12枚だ。ベテランによって引かれるカードはさいころを投げた人にプレゼントされる。既に書かれている具体的な事柄について話したあと、雑談に持ち込む動線については森さん自信もまだ改善の余地があるようです。
私の考えは、カードにかかれたことが既に具体的なものであるが故に、ベテランが解決策をいった時点で完結してしまうのではないか、なんて思ったのだった。

 ●ごきげんようとあたふたWS
フジテレビの平日午後1:00〜1:30に小堺一機さんがホストを努めるごきげんようという番組がある。
その番組では毎日3名のゲストが出て、このあたふたWSと同じように、さいころで出た目によって話す内容が紹介され、ゲストはその目に従ったお題について話す。
その時には、基本的にさいころを振ったゲストが主役ではあって、小堺さんや他の2名のゲストは聞いているだけなのだけれど、ホストの小堺さんや聞く側のゲストは相槌は打つものの、基本的には話しているゲストに最後まで話をさせる。そして、話が終わると。小堺さんはそれまで聞いていたゲストに話を振るのだけれど、そこから「私も似たようなことがありました」などの雑談が生まれる。あたふたWSに置き換えるならば、小堺さんのような役割を一人おいて、ベテランのアドバイスが終わった後に、他の中堅に「●さんと似たようなことがなかったか」、「自分だったらどういうアドバイスが出来るか」などを聞いたら雑談が増えるかもしれない。

◎待つこと、について。
これはワークショップに限らずあることだと思う。私の経験でかくと、家庭教師で生徒に勉強を教えている時のことだ。生徒に問題を解かせた時に「どこから解けばいいのかわからない」という。
その時に、最後まで教えるのではなく、「ここに線を引いてみたらどう」などの助言をして、生徒が自力で解けるまで「待つ」
また、勉強の集中力が途切れてしまった時に、少しの時間休憩して一緒に遊ぶ、雑談するなどして、生徒がまた勉強に取り掛かれるまで「待つ」だったり。
私はこのような子供を相手にしたワークショップのファシリテーター役の経験はないので、あくまで想像だが、もし自分がこの立場になったら、家庭教師のようなやる問題が決まっていることよりも、どうなるかわからないことへの不安がある。

◎その他
今回のシンポジウムに参加して、直接はここで話題になっているファシリテーターの役割は私の普段の業務とはほぼ関係のないことだったけれど、いくつも考えさせられることがあった。教師とファシリテーターは「待つ」だったり「テーマ」があることは似通っているが、教師のような先生が生徒に教えるという上下関係がある。一方ファシリテーターのように、できるだけ参加者と同じ目線で(ただし介入し過ぎない程度に)みんなをゴールへと導く。
このような差はあれど、例えば一般企業ではどちらか片方のタイプだけでは成り立ったず、両者が上手くかみ合わさることによって、まわっていくのではないだろうか。
会社全体では社長がビジョンを語り、そこに社員がついていくという教師役を務める。(社長は教師のように全てのゴールが見えているわけではないけれども、社員にこの会社はこういうことをしていくという指針ははっきり出したほうがいいと思っている)
個々の業務についていくつかのグループで進めていく作業はリーダーがファシリテーター役となり、グループ全体でよい成果を目指すタイプが適切かもしれない。

また、これまでTwitter上でぼんやりしかしらなかった森さんがどのような研究をされているのかを具体的に知ることができてよい機会だった。意見を聞いていて、空間という場の雰囲気についてとても考えている方なのだろうなと思う。終わった後に少しだけご挨拶させていただいたのだけれども、機会があったらお話してみたい。とても有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございます。

Pattern Language & Presentation Pattern Language Workshop

先日六本木ミッドタウンで行われたセミナー兼ワークショップにいってきました。

新しい時代における「創造的な学び」 というタイトルでSFCの井庭先生によるPattern Language やPresentation Languageを用いた話でした。


Pattern LanguageやPresentation Pattern Languageは元々建築分野の設計計画の手法から始まり、Programingなどにも応用されています。

参考 Pattern Language Wikipedia

井庭先生は教育分野でもこのPattern Languageが使えるのではないかと考え、考え方のPattern LanguageとプレゼンテーションのPattern languageを公開しています。順番としては、Pattern Languageが井庭先生と研究室の学生によって2009年に作られ、Presentation Patternは今年の秋に作られて、先月行われたORF2011(SFCの公開研究発表会)で発表されました。その後、Gigazineに紹介されているので、ご存知の方も多いのではないかと思います。
このLearning Pattern が生まれた背景として、井庭先生は社会の動きが
Consumption(過去)→Communication(現在)→Creation(将来)
に変化していくと考えているようです。Creation SocietyとはCommunication Societyで生まれた無数のコミュニティーの中から新しいものが生まれてくる社会を意味します。
創造社会にとって必要なもの、それは「あらゆる人達が自分達の新しい認識、モノ、仕組みをつくっていく」こと。
新しいものを学習していく時に Pattern Languageを応用できないか、という思いからこのLearning Patternが生まれたそうです。

●Workshopの進め方
1.テーマに沿い、Learning Pattern とPresentation Patternから該当する項目をピックアップする。
今回のテーマでは海外留学や海外で働くことをテーマにしていました。そのテーマに基づき井庭先生がLearning Patternの中から18項目Presentation Patternの中から12項目 計30個の項目をピックアップします。(Learning PatternとPresentation Patternについてはそれぞれダウンロードできます。それぞれの項目の詳細についてはそれぞれのPatternを参照してください。)
以下セミナーで取り上げた全30個です。
Learning Pattern18個
No.1 学びのチャンス
No.4 学びの竜巻
No.5  知のワクワク!
No.7 まずはつかる
No.8 「まねぶ」ことから
No.10 身体で覚える
No.12 言語のシャワー
No.13 アウトプットから始まる学び
No.19 フロンティアアンテナ
No.22 右脳と左脳のスイッチ
No.23 鳥の眼と虫の眼
No.27 捨てる勇気
No.29 「はなす」ことでわかる
No.32 外国語の普段使い
No.34 魅せる力
No.35 「書き上げた」は道半ば
No.37 セルフプロデュース
No.38 断固たる決意
No.39 突き抜ける

Presentation Pattern 12個
1. メインメッセージ
2. 心に響くプレゼント
3. 成功のイメージ
4. ストーリーライン
5. ことば探し
6. 図のチカラ
8. 驚きの展開
17. 表現のいいとこどり
24. 自信感の構築
26. 最善努力
31. 独自性の追求
33. 生き方の創造

3.体験の判断
井庭先生がピックアップした項目について、具体的にどういうことなのか説明があります。
それを踏まえて、自分がそれを体験しており、人に話せるな、と思うものは○、
そうでないものには×をつけます。
3.体験の共有
○×をつけたら、周りの人(3人以上)と集まって、自分が×で相手が○の項目があれば、どういう経験かを話してもらいます。逆の立場であれば、相手に自分の体験を話す。1つのグループ内で全てを終わらせるのではなく、ある程度時間が経ったらまた別のグループに行って、同じように話し合う

これはSFCの授業でも行っているそうですが、いつも好評のようです。今回参加した自分でもはじめて会う人達と実体験を共有しあいましたが、とても充実した時間を過ごせました。今回の参加者は20名ほどでしたが、50名位いるともっと良いWorkshopになるようです。

このようなWorkshopの良い所は、未経験のものがあれば、相手からの体験を聞くことで、こういう経験をすればよいのか、ということがわかります。勿論、完璧に同じことは出来るわけではありませんが、自分の今のキャリアでやるとしたらどうすればよいのだろう。と云うことを考えることが出来ます。
一方、自分が既に経験したものであっても、他の人のこういう経験もあるのだな、という刺激を受けますし、もし相手が持っていないものであれば、相手が理解できるように分かりやすく説明しようという意識が働きます。そして、なにより自分と他者がお互いの経験を共有し、補い合えるので、参加者も能動的に進められる点が良いなという印象を持ちました。

●その他気になったこと(井庭先生からのメッセージ)

・Learning Pattern &Presentation Pattern は教典ではなくあくまで「きっかけ」ととらえて欲しい。(数年後同じように作っても違うものになるだろう)

サバティカルでMITに留学して、英語で伝えることの難しさを実感した。そして、発音(アクセント、イントネーション)の重要さに気づいた。発音については人によっては気にしなくてもいいという意見があるが、出来たほうが会話がスムーズに進む。

モテキ

モテキ(映画)を見てきた。

ドラマは見ていなかったけれど、丁度ドラマが話題になっていた時に原作の漫画を読んでいたので、おおよその内容は想像がついていたけれど、楽しめる映画だった。

以下感想(ネタバレあり)

みゆき(長澤まさみ)に初めてときめいた。これまで何回か彼女が出演している映像を見ていたとおもうのだけど、今まで自分が見てきたものが真面目な役のものばかりだったせいなのか、特に好きでも嫌いでもない俳優だったけれど、映画の演技を見て好きになった。

明るくて、幸世のサブカル話に盛り上がれて、かわいい。基本いつもにこにこして愛想がいいから自然と誰にでも好かれるタイプ。

幸世はみゆきの事を彼氏がいる⇒同棲している⇒その相手は妻帯者 という流れで知っていくわけだけど、
相手の事を知るたびに獲得するためのハードルがあがっていくのに、それでも最後まであきらめなかった幸世の執念の勝利なのかしら。

るみ子(麻生久美子)が幸世を好きになるのが最初良くわからなかったけれど、自分の仕事に興味を持ってもらえた事と趣味(一人カラオケ)の共通項があったから好きになったんだと思っている。
意外にもるみ子の行動は積極的で、幸世に「重いよ」と言わせてしまった。けれど、幸世に振られて、でもあきらめ切れなくて押し倒した上に泣きながら「時分の好きな人の話題についていけるように頑張る」というのって男性(頼られるのが好きな人)によっては、「じゃあ一緒に勉強しようか」と泣きじゃくるるみ子の頭を撫でて、ちゃんと付き合い始める→ハッピーエンドという流れもあるかもしれない。

周りが知らないサブカル話で盛り上がれることに一種のステータスを感じている幸世にはそこまでの余裕はなかったんだろうけれど。

素子(真木よう子)は幸世の上司役で、映画では幸世の頭の中の独白が彼の挙動不審な行動を理解するのに役に立っているけれど、彼女の場合は思いついた側から、歯に衣着せぬ口調もしくはとび蹴りで「現実」を幸世に浴びせる。

愛(仲理依紗)は登場時間は短かったけれど、店での派手な化粧と、仕事外のそれの落差に驚いたけれど、ONでもOFFでも着飾らない話し方(距離を置きすぎず、なれなれしすぎず)が好きだった。

幸世を振り回す女性陣の演技が上手かったのもあるだろうし(幸世を演じた森山未来の演技は言うまでもなく)、4人の女性をそれぞれ引き立てるための撮り方をした監督
の手腕もあると思う。

特に印象に残っているシーン

るみ子とアクシデント的に幸世が一夜を過ごした後に、ライブ会場でるみ子とみゆきに会い、少し言葉を交わして呼び止めた後に振り向いたるみ子とみゆきの表情に2人の温度差がはっきりと映し出されていたことだ。幸代の声に反応して振り返った二人の顔はどちらかというとみゆきのほうに焦点が合っていて(だけど、その表情は敵意に近い)、遅れて振り返ったるみ子は表情はぼやけている(けれど口角は僅かに上がって微笑んでいるように見える)
その比較がはっきりと分かったし、それと同時にこれまで見せなかった嫌悪の表情が恐ろしかった。

終わり方にはもやもやが残っているので、これでよかったのかなと思う部分はあるけれど(と書いてみたものの、終わり方として今のところ他の方法が見当たらない)

欠点がない人よりも影のある人のほうが魅力的に見える、という言葉があるけれど、
影(サブカルクソ野郎&セカンド童貞)の幸世がほんの少しだけ前に進むことを見届けた充実した約2時間だった。

映画を見てから、初めて映画の公式HPを見たけれど、あまりにシンプルでびっくりした。
公式HP上にある情報は僅かで、twitterfacebookのページにコンテンツを分散されている。映画の中身だけではなくて、あらかじめBUZZがうまれるように計画されていた。HPもまた映画を見に行きたいとおもわせる人を刺激する重要なコンテンツだし、ドラマの映画化だけど周到に計画された企画だと感心した。

藤子・F・ミュージアム

先日藤子・F・ミュージアムに行ってきました。簡単に感想を書いてみます。
http://fujiko-museum.com/pc.php

展示の内容についても触れるので、ご了承ください。

藤子ミュージアムジブリ美術館と同様、時間指定定員が決まっています。
今回私は10時に入場しました。

・駅から入館まで
行きは向ヶ丘遊園駅から歩いていきました。HPに掲載されていた地図をみていた道筋と、所々案内板が出ているので
迷わずにつきました。駅からは大体1kmくらいです。

美術館に着くと(9:40)、既に30mくらいの長い列が出来ていました。列に並ぶ前にガイドの方にチケットを見せ、ミュージアムのしおりをもらいます。
開始10分前には30名ずつエントランスホールに入り、ガイドの方から美術館についての簡単な説明があります。
内容:受付カウンターでチケットを見せて、シアター(3階にある)入場券と音声ガイドをもらう。音声ガイドの聞き方は、音声ガイドの数字が書かれている場所でその数字を押すと、説明が流れる(子供用と大人用では押す数字が違うところもあります)3階で音声ガイドは返却する。(先にミュージアムショップに行きたい人はカウンターで申し出ること(音声ガイドは持って入れないため))
館内での写真撮影と録画は禁止。ただし、屋外ではOK
説明が終わると、カウンター(3列になっており、各列に並ぶ)でシアター入場券と音声ガイドが渡されます。音声ガイドは大人用と子供用があります。

・館内
館内は天井が高く、広々としていました。1,2Fは原画の展示が中心です。音声ガイドを聞きながら原画を見たり、藤子さんの経歴を知ることが出来ます。
3Fのシアターは10分のショートシネマが見られます。20分おきに上映のようです。入口でチケットと引き換えに渡された入場券が必要になるので、無くさないように。

同じく3Fから屋外に出ることが出来、カフェも営業していますが、11時の時点で50分待ちでした。次回の入場時間12時までにどれくらい解消されているかは分かりませんが、先にカフェに行きたい方は入口のカウンターで一言言えば考慮していただけるようです。

以下感想
行く前に、どのような展示がされているのかは知っていたのだけれど、その時に違和感があった。それが行くまでは何か分からなかったのだけど、行ってきて気づいた。

このミュージアムを作るにあたって、ジブリ美術館を参考にしたということだった。時間指定があり、そこでしか見られないアニメがある。展示されているものもそれほどかけ離れているわけではない。

けれど、美術館というよりは資料館の雰囲気が強いと感じた。もちろん、キャラクターと触れ合えるスペースはあるのだが、ジブリ美術館ジブリという世界観の中にあるのに比べて、藤子ミュージアムはその世界観があまり感じられなかったのが残念だった。漫画と読者は近いものにあるのだと思っているのだけれど、展示の仕方は藤子さんの作品たちを読者から(あえて?)距離をとっているように見えた。

ミュージアムがどのようなプロセスであのような形になったのかは分からないけれど、まわってみた感想は、最初にあの形があって、それから各々のスペースを割り振って行ったと考えている。最初にこういうものを入れたいという思いがあってからミュージアムを作ったら、ジブリと変わらない大きさでこじんまりとした作りだけど、濃密な空間がある場所に出来たんじゃないだろうか。

不満ばかり書いてしまったので、よかった部分を。

エントランスやミュージアム内にいたガイドの方々は気配りのできる方ばかりでしたので、子供をつれていく方は安心していけると思います。