イラクから始める。

seijotcp2004-04-10

こんにちわ、chikiです。リファーしていただいている皆さんの内、何人かの方にまずは謝罪です。非常に紛らわしくて申し訳ないのですが、chikiのidは「chiki」ではありません。「id:chiki」さんは、まったく別の方です。idは、「id:seijotcp」でお願いします。





さて、昨日のイラク拉致問題についての議論、意見交換の呼びかけにたくさんのコメント、リファーをいただき、本当にありがとうございます。




日を挟むので、議論の方針を暫定的に決めさせてください。
①まず、昨日のコメント欄での議論は、継続させていただきます。
②この本文中では、当サイトへ言及していただいた方への反論や批判、吟味を行わせていただきますので、10日分のコメント欄はその批判等に利用いただければと思います。
③ニュース等の新たな情報が入り次第、9日分に貼らせていただきます。




引き続き、より多くの方の議論への参加を呼びかけさせていただきます。よろしくお願いします。





以下、リファーへの返信・批判等を書き込ませていただきます。

リファーへの返信(議論の展開に必要なものを選ばせていただいています)

http://d.hatena.ne.jp/Mitsuhiko/20040409
②の件については、9日のコメント欄に言及させていただきましたので、それを返信と代えさせていただきます。少しだけ加えれば、個人の覚悟の問題と「自業自得」と言うことは別問題です。そして、今回のような個人の行動は容認されなければなりません。そのような承認がない限り、健全な国家は成立しません。



③の件については、現状指摘とプロパガンダの相違が見られますが、撤退してはいけない、という考えにとりあえずは同意です。



④「結果的に迷惑」…ここにchikiとの大きな相違があります。そこで、id:Mitsuhikoさんの「あまりに迷惑」という意見に対し、あまりに自己中心的であり、国益中心主義的な意見であると批判します。この考え方への根幹的な批判として、id:Mitsuhikoさんがベンサムの「最大多数の最大幸福」の概念を掲げておりましたので、そのことについて。



chikiが批判するまでもなく、ベンサムのこの思想には多くの批判が寄せられているでしょう。現代の社会を語るにはほとんど有効な概念とは言えないからです。功利主義への批判、そのあまりに大雑把な社会のとらえ方への批判、定式化への批判等。「最大多数の最大幸福」のためには、例えばマイノリティは差別されてもいい、と結果的に肯定するロジックです。「多数決」が即民主的な方法だ、と考えているのであればあまりに牧歌的です。例えば、ファシズムも国家として「最大多数の最大幸福」ではなかったでしょうか?この論理を日本に当てはめることは出来ません。その点を指摘することで、id:Mitsuhikoさんの根幹にある考え方を批判させていただきます。



http://d.hatena.ne.jp/MASH/20040409
②に関して、「自業自得」という人があまりに多いことに驚きましたが、そのことが何を意味するのか。それは、id:Mitsuhikoさんのように、個人を抑圧し「最大多数」を称えることです。この考え方はいずれファシズムに傾倒します。繰り返しになりますが、「予測可能」(=覚悟)と「自業自得」の問題は全く別です。



③に関しては、ポリティクスの問題に深く関わってきますね。chikiは、方針を再考出来ればもう少しいてもいいと思います(出来るのならば、ですが)。但し、今の不透明な「目的」を鮮明にすることが絶対に必要な最低条件です。



④ここでの「自業自得」については保留しますが、国家は最大限保障するべきです。犯人グループの要求は呑めませんが、対話は続けなくてはなりません。



⑤すみません、chikiの書いた文の意味が分かりづらかったと思います。chikiが懸念しているのは、どのような「結末」を迎えたとしても、そのことで議論が風化してしまうのではないか、または「邦人だから」と特権化して、感情的な判断をしてしまうことを恐れていたのです。




http://d.hatena.ne.jp/radiopress/20040412
同じく②について言及していただいております。「自業自得」という言葉の「本来の意味」を指摘していますが、しかし記号学的に全く無意味であるだけでなく、議論としても意味がありません。「現代的意味でも自業自得」ともあるので、あくまで字義通りに捉えたいのでしょうが、全くのナンセンスです。この手の指摘が今後もあるかもしれないので、念のために理由を述べます。①言葉は辞書や目録のように、記号表現と記号内容が1対1で対応しているものではなく恣意的なものであり、その繋がりは時代、文化、様々なコンテクストによって変化し、場面によって様々なコノテーションを持ちます。言うまでもなく、現在の議論で使われている「自業自得」という言葉は、「自分で招いた種」「自己責任」等が含意されています。そのうえで②chikiは、「自業自得」とは言いませんし、思いません。理由は既に論じており、クリシェになるので省略します。「仏教的(どの宗派かは知りませんが)には自業自得」という信条を貫きたいのであれば、否定はいたしません。


※と、この文章を掲載したところ、本文が変わっていてビックリ。
chikiが批判した際に参照した部分だけを以下に引用します。


自業自得ってのは本来仏教語で「自分の行為(業、カルマ)の結果(業報)は自分に返ってくる(自分の行為の結果が他人に返ることもない。他人の行為の結果が自分に返ることもない。自分の行為の結果が自分に返らないということもあり得ない)」という意味。
そして、この世の中には自業自得でないものはないとします。だから、イラクで誘拐された、被害者三人も当然「自業自得」です。
現代日本語みたいに「自業自得」には、「ザマー見ろ」とか「お前のせいだからおれらはしらねー」とか「悪いことしたんだから、悪い結果になったんだ、あーあー気の毒(プ)」という意味は、本来はないです。
だから、id:seijotcp:20040409 氏の「②言うまでもなく「自業自得」ではありません。「死を覚悟してたんでしょ」「自分で行ったんでしょ」という揶揄は全くの無意味であり、単なる思考停止です。」というご発言は意味が私にはよくわからない。(いや意味はわかるが、ピンとこない。揶揄は無意味で思考停止だというところはわかるのだが、三人の被害者は仏教語的な意味で「自業自得」であるのと同時に、現代語的意味でも「自業自得」だと思うのだが。


ちなみに、新たに加えられた「ざまーみろとかほっとけとか言う意味じゃなくて、「危険な地域に、それを認識していったのだから、危険な目に遭ったのは、ある意味自然なことである」という意味でね。もちろん自国民保護は近代国家の重要な責務なので、それをする必要はないとか言う暴論は論外です」という表現には、概ね同意です。但し、「危険な場所だから起こりうることだった」という意味でです。




上記応答への返信があったので掲載します。
この返信へのコメントも下記で募集します。

id:MASHさんへのレス

出来るだけ簡潔にレスします。


今回の件で「自業自得」というロジックを採用すると、日本という社会システムが矛盾を抱えることになります。そのように主張することは、個人の自由を国に揚棄することを意味します。そのことをまずはご理解いただきたい。その上で、改めてid:MASHさんの考え方を正面から批判させていただきます。まずは前者の問題の説明から入らせていただきます。


日本は思想信条の自由を個人に承認している国家です。そして、その上で国民に対して保障を行っている。しかし、「自業自得」というロジックは、実は思想信条の自由を侵犯するもであることを理解していない方が多すぎます。それは、「国の意向に反するから保障しない」という考え方だからです。


また、「自業自得」と主張する際に、「退避勧告が出されている<にもかかわらず>行った→犯罪に捲き込まれた→自業自得」と単線的に繋いでいる自体が問題です。このように考えることが「現実的」とか「責任を取る」と思っている方が本当に多いのですが、id:MASHさんの文章も同様に「→」を繋ぐ論理が実は不透明なのです。そして、「責任を取れ」という言葉は単に感情的なものであり、論理的なものではない。そのことを「ジョーシキ」だと思っている人が多くいる、ただそれだけのことです。一部では「雪山遭難」の比喩同様(この比喩はchikiが好むものではないのですが、「自業自得」を主張したがる方が好んで使われるようなので、便宜的に使用させていただいております)、「被害総額を払え」等という人もいるようですが、程度の差はあっても内容としてはその程度のものです(遭難したものを保障しなくて良い、という考えは全くのナンセンスです)。その思想が「国体的」であり、自己保身的だと改めて批判します。これは、<にもかかわらず>の部分への批判にもなりますが、「国の命令に従わなければ死んでも構わない」ということは言うまでもなく「国益」中心主義であり、「国益」のためなら犠牲者が出ても構わないという論理です。これは、実は本末転倒です。先ほど申しましたように、そのことは日本というシステムのためにとるべき行動ではありません。そのような社会は、歴史を見ましても必ず崩壊してきましたし、システムとして不健全です。むしろ、ボランティアが大勢いるほうが長期的に考えてみても「国益」になると思いますし、システムとして正常です。



今回、彼等の行動を批判する際に持ち出される「国益」。この場合の「国」とは何か?id:MASHさんが功利主義的な立場に立っているのかどうかは分かりませんが、「多数決主義」が「民主的」であるという考え方は、ベンサムの時代ならいざしらず、今は(一部の国意外)通用しなくなっているのではないかと思います。理由は①「数」の暴力によって成り立っており、そのことで②「他者」の排除を行いながら③「全くの他者」を考慮に入れていない、等が考えられます。ベンサムの言う意味での「最大多数」などは存在しません。そこにはもちろん個人の承認もなければ、社会システムを正常に保つロジックが存在しません。むしろ、矛盾を抱えてシステムが内破してしまいます。


id:MASHさんの意見は、「3馬鹿トリオに同情を寄せているのがマイノリティであるという現実」を「曇りのない目で見」れば「自業自得」であり「殺されたとしてもしょうがない」と「普通」の「日本人」は納得すると。そして「多数意見を尊重するのが民主主義の基本」であり「例え民主主義がヒトラーを生み出した歴史があったとしても」そのような「民主主義」を肯定するというものです。この意見は、実に多くの問題を抱えています。「普通/普通ではない」という考え方、多数決によって少数派があぶれるのは「民主的」という考え方(一体これのどこが「民主的」なのだろうか…)、そして「マイノリティ」は「目が曇っている」と言わんばかりの文脈。これらは単なる差別です。個人の信条としては構いませんが、そのような考え方を人質になっている方々に適応することは出来ません。理由は、①既に指摘したように、差別に他ならない。②「そのことで日本というシステムが保たれるのだ」という考え方は間違っており、今回は先の理由でむしろ逆であるからです(もっとも、日本には「忘却」という装置があるのですが…)。「社会システムが正常ならば殺人はむしろ正常」という方もいらっしゃいますが、その場合でも今回「自業自得」と言うことはシステムを正常に保つ道として当てはまる選択ではありません。



さて、「行くことについてはみんな容認してると思う」というid:MASHさんは最後におっしゃいましたが、chikiには全くそう思えませんでしたし(容認している人間が「氏ね」「焼肉パーティー」「英雄気取るな」などと言うとは思えません)、id:MASHさんもまた「容認」しているようには思えません。「勝手に行けば?」と言う場合の「容認」は、単に「行ってもいい。但し、死んでも関係ないよ」というレベルでしかありません。グローバルレベルでの発想が欠けていることはもちろん、id:MASHさんやchikiのような人間も無視される可能性があります。chikiは、id:MASHさんの論理で言えば確実に「普通ではない」人であり、マイノリティであり、「殺されてもしょうがない人」になるでしょう。chikiは自分の信条を守るために死ぬことは構いませんが、それは他人の論理を押し付けられたくないからです。他人の論理で死ぬのはchikiは御免です。




長くなりました。返信を終わります。議論の停滞や水掛け論を防ぐため、もしこれ以上「自業自得」にこだわる方がいらっしゃれば、最低①論理的根拠②今後の展望③「国家」の定義と現代における意義を明らかにして下さい。






http://d.hatena.ne.jp/MASH/20040416#p4
返信を頂きました。後日分で申し上げましたように、 このような「感覚」を持つことは日本人(=大衆)にとって「当然」の反応だとは思っています。そのことを認めていただき、そして議論に長々とお付き合い頂きありがとうございました。chikiとしてはこのような「感覚」にとらわれて思考停止にならないように気をつけたいと思います。






id:MASHさんとの議論はここまでで「終了」になるようです。このやり取りが少しでも皆様が考える際の参考になれば幸いです。

日記?blog?

はてなは「日記」なので、議論は期待していない、という意見がありました。これは実に重要な指摘だと思います。以前、エイプリルフールに合わせ、「はてなダイアリー」が「はてなブログ」に一日だけ変わりました。そこで書き込まれた「日本人にはブログより日記かもしれません」というコメントが実に象徴的です。(参照



はてなは日記だから議論は他のblogでやれ、ということでは流石にないとは思いますが、しかし基本的に「日記」と考えている人が多く、議論もそれほど多くは発生していない(相対的に、割合的に、ですが)。ネットがパブリックか否かの議論にもつながるので、いつか「戯言」したいと思いますが、この点についてもいつかコメントをいただけるとありがたいです。