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2010-02-17

文章の職人芸/『言語表現法講義』加藤典洋


 知的興奮を掻き立てられること間違いなし。文章を書いている人も、書く予定のない人も読むべきだ。人間は表現せずにはいられない動物である。何をどう表現するかは感性によるところが大きいと思われるが、やはりそれなりの技術も必要だ。そうでないと、単なる独りよがりで終わってしまいかねない。


 明治学院大学国際学部での講義を編集し直したものだが、いやはや凄い。まるで食肉解体の現場に立ち会っているような気分になる。学生の文章に対する講評が実に鮮やか。


 加藤は講義に先立って、こう述べている──


【講義のねらい】言葉を書くというのはどういう経験だろうか。私はこれを、考えていることを上手に表現する技法の問題だとは考えていない。むしろよりよく考えるための、つまり自分と向かいあうための一つの経験の場なのだと考えている。


【『言語表現法講義』加藤典洋岩波書店、1996年)以下同】


 書くという営みはスピードは劣るものの、身体性は高い。「書く」は「掻く」に通じる。文字は引っ掻き傷のようなものだ。そして畑を耕す行為にも通じている。ご存じのようにカルチャーの語源はcultivate(耕す)である。


 書かれた文字は自分の内側から出てきたものだが、時として手が勝手に動く場合がある。書く妙味といっては大袈裟になるが、身体的な直観のようなものは話す時よりも書く時の方が発揮されるように思う。


 なぜ書くのか。書く白い紙。その向うに、誰かがいるからじゃないんでしょうか。紙というのは透き通っていない。それはお風呂屋さんの男湯と女湯の間のガラスが曇っているように、不透明です。この不透明、これが大事なんですね。お風呂場の場合と同じくらい大事です。その向こうに誰かがいる、と思わなくて、またそう思えなくて、誰がそのガラスを指で濡らそうとするでしょうか。


 ため息が出るような絶妙な例え。参りました。降参。白旗。山田君、座布団10枚。


 私は誰に対して書いているのだろう? 全く考えたことがない。時折、感想メールが寄せられるが、「あ、読んでくれる人がいるんだ」とかえってこちらが驚いてしまう。なぜ書くのか? 書かずにはいられない心の振幅があるからだ、と言う他ない。


 皆さんの文章、いつも、終わり近くになると改行になるんです。気がついているかどうか、原稿が規定の枚数に近づくと、終了モードに入る。そして、最後、だいたい、「こういう世の中は、早く変えられないといけないと思う」か、「明るい明日を信じて、なんとかやっていきたいものだ」か、「そんなことを思って暮らしている今日この頃である」かで終わる。

 そして、この「まとめ」が、たとえそれまで個人の声を伝えようとしていても、それを台無しにしてしまう。

 いいですか。ここで言うことは大学では学べないことですから、よく聞いて下さい。このまとめの気分こそ、皆さんが大学で無意識に学んでいることです。でも、それがすべてをダメにする。このまとめの気分、終わりの美辞麗句、それがすべてをダメにする。学問をすら、ダメにします。

 皆さんは、小川です。誰もが小川です。小川は小川のせせらぎの声で何かを考えようとし、その頼りない自分だけの流れ、自分だけの呼吸で何かを語ろうとするんです。

 それが、なぜ、最後に大河の、大ざっぱな現代社会批判に流れ込むのか。Aのせせらぎが、なぜ最後にBの声に自分から呑み込まれるのか。

 たとえば、流れが大河に入ってむなしさを感じたら、そのむなしさで終わってもいいんです。まだしも、そのほうが、いい。


 これは頭が痛い(笑)。加藤が言っているのは「自分の感動を手放すな」ということである。自分の言葉を見失って社会に迎合してしまえば、自分の感動すら雲散霧消してしまう。心で感じたことを表現する努力を放棄すれば、心はどんどん鈍感になってゆく。関係性とは、感じて応じることだ。借り物の言葉、他人からの受け売り、剽窃(ひょうせつ)、口真似は心を死なせている証拠といえる。


 本書を読んでからというもの、文章を書くことが躊躇(ためら)われて仕方がない。

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

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