自覚

おはようございます。

昨日はローカル線(とは言っても山陽本線さすが本線です。JR宇治線は単線ですが、複線でした、しかし乗客数は下関〜新山口間だけを見れば宇治線の勝利かな?。二駅ほど無人駅もありのんびりと往復乗ってきました。)で下関から約一時間で新山口、そこからバスに20分ゆられ「山口運輸支局」へ、寺の駐車場に長年放置された車を撤去するため持ち主を調べに。
寺の敷地でも人様の車を勝手に撤去できないので持ち主を調べに、良い勉強をさせていただきました。これも留守を多くしている結果、どこにも文句を言っていくところはなし。自分の物であって自分の物など何一つないということを改め知りました。これから又内容証明を出し、相手から何の返事もなく、又撤去しなければこちらが裁判所へ公示の手続きをして公示後に数日経てからこちらで撤去できるという何とも情けなくなる話です。
人任せは後で大変になるといういい見本です。皆さんも管理をしっかり致しましょう。
閑話休題、何か大層なことを書くようですが、「命とは出会い」です。喜怒哀楽を感じるのは全て出会いから始まるからです。昨日も書きましたが、「継続するのが命」。継続しようとする気持ちは命令されたからではなく、「自覚から」です。
「自覚すれば」。
私は「自覚し分を知ったから」こそ日々楽しく在ります。お仕えする、一隅を照らすことを自覚。比叡山開祖の伝教大師最澄上人は「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、一隅を照らす者、国の宝なり」と行動の道を示してくだされた言葉に感動しました。
皆さん自覚する、分を知るということは可能性がないというのではありませんので誤解しませんように、「今できることで生きる」ということです。だからこそ「それを起点としていろいろな機会を与えていただいた」のです。
与えられた「場」と「所」にお仕えする一隅を照らす道を今日まで歩み続けています。これからも歩み続けます。それが「私の命、使命だと」思うからです。伝教大師様は私のことなど知りもしません、私が自覚、思っているだけです。
与えられた場所が私の「人生のステージ」淡々と精一杯行動しておりましたらいつしか道連れの方が多くできたのです。これを果報と言わずして何を以て果報、喜びというのでしょうか。
手を動かすだけ、足を運んだだけでいろいろな場面を与えられました。それだけでこんなに沢山の喜びに出会えたのです。両親にそしてお大師様に感謝して余りあります。今夜も「にんげん学」小倉講座で沢山の皆さんと出会えます。会場でお待ちしております。
ある人は一人の人を少ないという方もおります、このような人は一人の尊さ、自分の尊さを知らない寂しい人ではないかと思うのです。一人から始まって千、万と数は始まるのです。老子は一は二を三は万物を生ずと。ありがたい言葉であり勇気と希望を与えられる大変な言葉です。自覚は楽しいのです。
自覚を基本として暮らせば楽しいことばかり。基本はそれ以上以下でもなく、基本だからです。日々祈り、日々笑い、日々学び、日々動くのです。それ以上は天からのご褒美です。ありがたいだけです。
人は基本が大事と言いながら欲を掻き「己の心の安心を外に求め苦しむのです」、それは基本を忘れた苦しみです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。