清水正の『浮雲』放浪記(連載153)

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批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=jU7_XFtK7Ew ドストエフスキー『悪霊』と林芙美子浮雲』を語る(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=xM0F93Fr6Pw シリーズ漫画を語る(1)「原作と作画(1)」【清水正チャンネル】 清水正日野日出志犬木加奈子

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の深層(1)【清水正チャンネル】


清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


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 清水正の『浮雲』放浪記(連載153)
 平成☆年2月12日



 それでは『浮雲』ではどうなっているのか。ゆき子は伊庭の家に下宿して神田のタイピスト学校に通っているが、下宿代や授業料は報告されない。農林省タイピストとして就職するがその給金、ダラットまでの旅費や山林事務所での給金などまったく報告されない。ニウと別れるとき、富岡がどのくらいの手切れ金を渡したのか、邦子に生活費をどのくらい送っていたのかも報告されない。具体的に報告されるのは、富岡がゆき子に送金した金額(生活費や堕胎後の見舞金五千円)や、富岡が向井に売った腕時計の値段(一万円)、ゆき子は篠原春子の紹介で高田馬場の錻力屋の二階の部屋を借りることになるが、その敷金なしの部屋代(千円)、大日向教が買い取った建坪八十坪、邸内五百坪の銀行家の家の値段(三百五十万円)、伊庭が堕胎費用としてゆき子に置いていった金(一万円)、『富岡が邦子の葬式代をゆき子に無心した金額(二万円)、富岡の原稿料、ゆき子が大日向教の金庫から盗み出した金額(六十万円)などである。
 『罪と罰』も『浮雲』も長編小説には違いないが、省略された事柄は膨大である。『罪と罰』でソーニャはきわめて重要な役割をはたしているが、彼女の生みの母親に関してドストエフスキーはいっさい報告しない。ロジオンの妹ドゥーニャはスヴィドリガイロフの子供の家庭教師であったが、その子供たちが紹介されることはなかった。そのほか、ドストエフスキーはソーニャの処女喪失の場面や淫売稼業の実態をまったく描写しなかった。『浮雲』ではゆき子が伊庭に犯された場面は簡単に報告されるが、伊庭の妻とゆき子の関係は無視される。同じ家に住んでいて、三年間も自分の夫と若い下宿人の関係に気づかない、そんな鈍感な妻は世界中のどこを探しても見つからないだろう。林芙美子はゆき子と富岡の関係に関してはそれなりに丁寧な描写を重ねていくが、富岡と妻邦子、富岡とおせいの関係は関しては具体的な描写を重なることはなかった。スポットライトからはずれた人物たちに注意深いまなざしを注がなければ、彼女たちは初めから存在していなかったようにさえ見なされてしまうだろう。富岡はの友人であった小泉と結婚していた邦子は、その小泉と別れて富岡と結婚している。そして富岡が軍属として三年間ダラットに赴任していたとき、富岡の父と母に仕えていたのである。もし、林芙美子が富岡と邦子の関係を丁寧に描けば、ゆき子と富岡の関係に対する読者の印象はだいぶ異なったであろう。
 林芙美子はゆき子とジョオの性的関係を具体的に描かなかった。読者はその場面の細部を想像して再現するほかはない。なぜ、ゆき子はジョオと関係を持ってまでも富岡と別れることができなかったのか。天窓を明けて、ゆき子と富岡の腐れ縁の隠喩である部屋中に渦巻いていた煙をきれいに外へと追い出したジョオであったはずなのに、なぜジョオは富岡の存在を越えることができなかったのか。一つのヒントはジョオの脚が長くて炬燵に入れきれなかったことにある。炬燵をゆき子の膣の隠喩と見れば、二人の性的相性が合わなかったことを示している。性的に一致した男女は、年齢差や民族や宗教さえ越えて結ばれる可能性を持っている。大陸的な豊穣さをもった優しい青年であったジョオは、富岡の性的魅力を越えることはできなかった。『浮雲』を何度読み返しても、富岡の人間としての魅力を感じることはない。富岡から離れられないゆき子は、その魅力を感覚と躯で知っていたのだろうが、一読者としてはそんなことは知るよしもない。ただ経験から言えるのは、ゆき子のような女にとって富岡のような優柔不断な嘘つき男も執着を断ち切れない魅力があったということだ。
 さて、ゆき子が大日向教団を訪ねて行く場面を読んで連想するのは、マルメラードフの当てのない借金の話をロジオンにする場面である。マルメラードフは相手が絶対に金を貸してくれないことが分かっていても、それでも出かけていくのだと話す。なぜ? と訊くロジオン向かってマルメラードフは答える。人間はどこかに出かけていかなければならない、そういう場合があるのだ、と。まさにゆき子の場合がそうであった。待てど暮らせど恋する富岡は訪ねてこない。にっちもさっちもいかなくなったゆき子は大日向教団を訪ねることにした。もちろん新興宗教で成功した伊庭を訪ねれば、ゆき子一人の面倒をみることなどたやすいことであったろう。しかし、打算で生きている伊庭が〈同情〉でゆき子の世話をするわけはない。まさにここには、マルメラードフがレベジャートニコフの言葉を借りて口にした「同情などというものは、今日、学問上ですら禁じられている」という功利主義が支配している。伊庭がゆき子の世話をするということは、その代償としてゆき子は肉体を提供するということに他ならない。しかし、すでに指摘したように、こういった功利主義的な利害関係は伊庭がゆき子を強姦してから三年間、二人の間で暗黙のうちに続いていたはずである。ゆき子は下宿代とタイヒスト学校の月謝を伊庭に出させることで肉体を提供していたのである。ゆき子はそれを積極的に望んだわけではなかろうが、そういった打算がまったくなかったとは言えまい。女とはそういった暗黙の契約を結んでおきながら、わたしの若い躯をもてあそんだ、などと非難したり抗議したりもするのである。スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係をプリヘーリヤの手紙の表層だけを読んで判断することほど危険なことはない。
 ロジオンはК橋の方へ向かって、何か思い惑いながら、のろのろと歩いていく。林芙美子はゆき子がどのような足取りで、どんな思いを抱いて大日向教団へ向かっていたのかを描いていない。描いてはいないが、ものに感じる心を持っている読者ならば明確にわかろう。ゆき子は富岡を断念していないままに伊庭の方へ向かっている。ということはロジオンのように思い惑っていることになる。目的地へ向かって断固とした姿勢で早足で歩くゆき子の歩く姿を想像することはできない。ロジオンが〈革命か神か〉と思い惑っていたように、ゆき子もまた未だ〈富岡か伊庭か〉で思い惑っているのである。ゆき子は迷い悩める魂の救いを求めて大日向教団へと向かっているのではない。伊庭が実質上権力を握っている大日向教が一種の〈商売〉でしかないことをゆき子は明確に認識している。面白いことに、ゆき子の眼差しが天上の絶対神に向けられることはまったくなかった。ゆき子のまなざしは、極端に言えば、眼前に存在する富岡にのみ向けられている。ゆき子の眼差しは天上にも地下にも向けられることはない。ゆき子のまなざしは、同じく地上の世界に生きてのたうち回っている富岡に水平的に向けられており、彼を蔑み罵るときでさえその方向性を崩すことはない。ゆき子は上からも、下からも富岡を見ることはない。富岡が卑劣であれば、彼女もまた卑劣であるという思いがあり、二人の関係性を倫理や道徳で裁く視点は見事にない。男と女の三角関係や腐れ縁や嫉妬や確執のごたごたを法で裁いてもらおうなどと思った時点で、男は女を、女は男を売ったということである。優柔不断で嘘つきな富岡は、それでも一度としてゆき子をストーカーとして官憲に引き渡そうとしたことはなかった。もちろん当時ストーカーなどという言葉さえなかったが、倫理、道徳、法律につけ入る隙をあたえなかったという意味では、富岡とゆき子の関係は、ある種、感動的な性愛のドラマとなっており、最終的には性愛を超越した〈腐れ縁〉ともなったと言えよう。だからこそ、世界の地上にとどまり、決して天空に飛翔せず、地下に落下せず、徹底して〈生温き〉生にとどまった二人の主人公の生死にわたしはこだわりぬくのである。
 大日向教団へと向かうゆき子の内心の世界に林芙美子はまなざしを注がない。人物の心理を、作者が人物に代わって代弁することもないし、人物自身が長々と吐露することもない。人物も作者もストイックに内心の揺れ動きを処理して、ただ眼前の光景に目を据える。読者はゆき子が目にする光景をそのまま目にすることになる。まずは大日向教団がその本拠地とした〈銀行家の家邸〉が水平的な俯瞰でとらえられ、続いて〈御影石の門柱〉〈鉄格子の扉〉〈玄関まで敷きつめてある砂利〉〈手入れが行きとどいた庭樹〉〈新しいトタン葺きの自動車小屋〉が次々ととらえられる。ここまではカメラはきゆき子の両目に張り付いているが、次にゆき子が耳門から邸内へ入っていく姿は外部のカメラに切り替えられ、そして再びカメラはゆき子の両目に張り付き、まずは〈大麦藁帽子をかぶって、庭の草むしりをしていた痩せる細った中年の女〉をとらえる。続いてゆき子のまなざしは〈玄関の軒下〉、そこに置かれた〈大きな桧の一枚〉、そこに書かれた〈緑色の点晴という文字〉をとらえる。歩くゆき子のまなざしは次に〈開かれた硝子戸〉を、さらに〈タイルの床にずらりと並んでいるたくさんの下駄〉を〈玄関の正面にある龍を描いた新しい大衝立〉を、〈衝立の陰で机に向っている大津しも〉をとらえる。ゆき子のまなざしは大津しもの白粉をこってりつけていることや、紺の上着に紺の袴をはいていること、何か書きものをしていることなどを伝える。まさに映画制作における移動するカメラがとらえる光景であり、クローズアップである。読者は、まさにゆき子の歩みに同調し、ゆき子のまなざしと化して大日向教団へと一歩一歩踏み込んで行くことになる。さりげない描写に見えながら、実は映画的な臨場感に満ちた光景を作り出す巧妙な描法が駆使されている。