2010-02-09
■[本]いただきもの 
中山智香子『経済戦争の理論 大戦間期ウィーンとゲーム理論』(勁草書房)
- 作者: 中山智香子
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- メディア: 単行本
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ありがとうございます。
2010-02-08
■[本]読書中 
民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実
- 作者: ポール・コリアー,甘糟智子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2010/01/14
- メディア: 単行本
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診断は適切だが処方は如何。
- 作者: Quentin Skinner,クエンティンスキナー,門間都喜郎
- 出版社/メーカー: 春風社
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
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あー。ひたすら勉強になる。「人文主義」ってとらえどころがないよね。
日本思想大系〈55〉渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内 (1971年)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971
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ずいぶん前に買って横井小楠だけ読んだ。今回は佐久間象山の全然反省していないことで有名な反省文を読んでます。
無理しないで中公『日本の名著』の現代語訳で読んだ方がよいのか。
2010-02-03
■[本][雑]風の噂ではございますが 
私はこの目で見るまでは信じませんが。
A Theory of Justice: Original Edition
- 作者: John Rawls
- 出版社/メーカー: Belknap Press of Harvard University Press
- 発売日: 2005/03/31
- メディア: ペーパーバック
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2010-01-30
2010-01-29
■[講義][メモ]東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 
今日でおしまい。後でなんかまとめを書くかも。
(承前)
このように個人−自然人ではなくむしろ法人まで含めた主体−身体一般に照準する統治として新自由主義が捉えられているとしたら、それは自然人や家族に照準する古典的自由主義に比べてもなお一層、人を主体(ホモ・エコノミクス)へと規律訓練する権力であるというよりは、すでにホモ・エコノミクスである主体を馴致し操作しようとする権力として捉えられるべきであろう。
*フーコー権力論の「現在」
ところで、十年ほど前、フーコーの講義についての情報がまだ断片的にしかなかった頃、つまりは主として公刊された著作を念頭において、ぼくはこう書いたことがある。
フーコーの権力概念が人を惹きつける理由のひとつは、不可視の、意識されず、了解されないままに作動するものとしての権力、(中略)「語られざる禁止」の水準をとらえようとしているところにある。しかしそのような、隠れたものとしての権力、なる観念自体は別にオリジナルなものでも何でもなく、ことに20世紀後半においてはありふれたものである。全体主義の経験の中から得られた政治的プロパガンダや洗脳についての教訓、あるいは大衆消費社会における消費者の欲望の広告を通じた操作、等々、人に自ら選択したという錯覚を与えつつ、選びうる選択肢自体の予めの設定や、更には選択への欲望自体の喚起という形で人の行為を誘導する技法の大々的な登場が、20世紀的な意味での「権力」への関心をかきたてた当の経験である。このような問題についての研究はフーコーの登場以前から広く社会科学的な関心を集め、理論的・実証的に多くの研究成果を生み出している。更にその背後にさかのぼるならば、マルクスの土台−上部構造論、イデオロギー論、ジグムント・フロイトの無意識の概念などを見いだすことができる。
しかしながら実はこれら多くの「不可視の権力」論とフーコーのそれとの間には無視できない相違がある。(中略)「不可視の権力」論の最大の意義は、「語られざる禁止」の水準、権力として意識されていない出来事を「権力」と名指すことによって明るみに出すところにある。それゆえ「不可視の権力」論は成功することによって自ら解体する運命にある。それがある出来事を「権力」として問題化し、人々の意識に上らせることに成功すれば、その当の対象はもはや「不可視の権力」ではない普通の権力、私のいう意味での権力、制度を支える力、に過ぎないのだから。
この点に無自覚なままに「不可視の権力」論を展開することはしばしば滑稽なことになる。自らがその存在を暴いたはずの当の対象をいつまでも「不可視の権力」と呼ぶことは、逆にその対象を神秘化し、その不可視性を温存しようとする所作に他ならない。つまりそれは当の権力を批判し告発するつもりで、逆にそれに荷担することになりかねないのである。
フーコーを大半の「不可視の権力」論者から分かつのは、この問題に対する自覚、デリカシーである。通常理解されるところでは、フーコーの新しさは、権力を単に主体の行為を外側から型にはめたり操作したりするものとしてではなく、主体そのものを成形し、生産しているものとしてとらえられているところである。フーコー以前の「不可視の権力」論は、大体においてマルクス主義の用語で言えば「イデオロギー」あるいは「虚偽意識」なる概念の引力圏内にあった。それらは欲望そのものが他者によって操作される可能性を認めつつも、介入され操作される以前の本来の真の欲望、主体性といったものを想定していた。そしてそのような想定を行う分析者自身は当然、このような真の主体性に覚醒している、とされる。フーコーはこのような本来の、真の主体性といったものを想定しない。
このようなフーコーの権力概念は、権力への批判と抵抗の拠点としての個人的主体性を洗い流しかねないものと批判された。更に、実際にはフーコー自身も権力を論じつつそれへの抵抗について語り、更に晩年には自分で自分の生を私的に、個人的に、自律的に形作る技法について論じていたのだから、フーコーの議論は不整合である、とも時に指弾された。
しかしながらこのような批判はツボをはずしている。フーコーの権力論が正しい、すなわち、権力が、単に主体を騙してその真の利益、真の自己に背いた行動をとらせているというのではなく、真の意味での主体性をまさに作り出している、としてみよう。それならば、それに批判的に対峙するフーコー(的権力論)の主体も例外ではない。つまりフーコー的権力論は権力の効果、権力の作動の一環に他ならないことになる。更に言うまでもなく、フーコー的権力論が正しいとしたら、このコメントはフーコーに対してのみならず権力論一般にも当てはまってしまう。抵抗の拠点としての本来の主体性を権力の外側に確保し、自身もそこに立ちたい論者にとって、フーコーの権力論が認めがたいのはこのような事情による。
だがフーコーの権力論の主眼は権力の一般理論とか、社会全体を動かしている「権力」の原理論の構築にではなく、具体的な状況における特定の「不可視の権力」の解析とその可視化にある。そのような具体的な作業は当然、一定の成果を挙げられれば終了する。その研究成果が公表され、公衆の間に一定の関心を呼び覚ましたところで、すでに現実の状況はわずかにではあれ変化しているのだ。「語られざる禁止」はそれと名指されたとたん「語られざる禁止」ではなくなる。つまり分析とその成果の公表によって(不可視であれ可視であれ)権力の配置は変わり、主体のあり方も変わっている。その変化した状況に対して更にまたそこにおける「不可視の権力」の可視化は可能であろうし、それが延々と繰り返されるのであろう。その過程の中で、よりましな権力と主体のありようを構想し提言していくことには、何らの不整合もない。
フーコーを批判する論者は往々にしてこれとは全く逆さまのイメージを抱いており、フーコーをその歪んだイメージでもって裁断している。そのイメージとは以下のようなものである。すなわち、
「フーコーによれば、権力が主体を生み出し、生み出された主体の営為は権力を再生産し、その循環が続く。そしてフーコー的権力論もそのような状況を変えることはない。フーコー的主体は自らを生み出した権力を認識してその必然性を論証するのが関の山で、そこで議論は閉じる。」
しかしこのようなフーコー批判はむしろ、このような論者自身が、自らがそこに陥ることをおそれているところの罠への強迫観念なのではないか。おそらくは同様のことが、ニクラス・ルーマンのシステム理論に対する「テクノクラシー理論」なる完全に的をはずした論難においても起きている。
権力が主体を生産している、と言ったところで、前者は後者とは異なり、それ自体が主体であるとは限らない。つまり権力は、自己の保存のために、主体を、意図的に生産しているのでは(通常は)ない。権力はただ単に生産する。そして生産された主体の行為が、その権力を再生産するかどうか、は結果の問題である。結果的にそうはならなかったら、その権力は解体する。たまたまそうはならなかったら、権力は、そしてその生産する主体も再生産され、存続する。フーコーの権力論は、このように結果として生き延びている主体のありようから、それを生産する権力の配置がどのようなものか、を逆算する技法であって、主体を権力に還元する決定論、権力という原因でもって主体という結果を説明する理論では全くない。時に権力の作動は、たとえばフーコーのような、既存の権力のあり方を変えてしまうような主体性を産むこともある。
(稲葉振一郎『リベラリズムの存在証明』紀伊国屋書店、411-413頁。)
フーコー的権力分析においては、その分析対象の背後に権力によって歪められた真の主体性を発見する必要がないのと同時に、当の分析主体、自己の内にそれを見いだす真の知を想定する必要もない。「批判の根拠」は敢えて言えば、批判の所作に先立っては存在せず、有意味な、有効な批判がなされたときに初めて事後的にのみ見いだされる。すなわち、批判がよくなされたという事実自体が「批判の根拠」なのである。ある主体のなしうる行為の可能性、選択肢の幅、知識、あるいは動機付けが、その主体自身に知られることなくあらかじめ制約されていたということ、しかしその制約をなくす、あるいは変更することは可能であること、が事実として発見され示されれば、その知識自体が「不可視の権力」に対する「批判の根拠」となる。少なくとも本書で提示してきたリベラルな正義の観点からはそう言える。およそいかなる制度的脈絡からも、いかなる役割付けからも、離脱しようと思えば離脱できる自由、がその条件のひとつだからだ。もちろん「不可視の権力」からは意図的には離脱できないし、それを改造することもできない。しかしそれが可視化され、明るみに出されれば、離脱や変更という選択肢は公然化される。
別に私はここで「見いだされず知られないままの過去は存在しないも同じだ」といった認識論的相対主義を主張しているのではない。私の志向はどちらかというと実在論の方にあるがそれはここでの主題ではない。私の考えでは、「不可視の権力」として見いだされた物事は見いだされる前からもちろん存在していた。しかしそれ自体は「批判の根拠」ではない。それらの物事が見いだされ、「不可視の権力」と名指されると同時にいくぶんかは可視化され、そのことによってそれを知るにいたった主体との間にある関係ができあがる。そのような関係、そうした出来事の連鎖こそが「批判の根拠」であり、それは分析、批判の遂行を通じて、事後的にしか現れえない。そのように「批判の根拠」は批判の遂行の後から初めてやってくるものであり、あらかじめ批判の成功や正当性を保証してくれるものでもない。また当然に「不可視の権力」の分析、批判がなされる前の主体が「偽の」「歪められた」ものであり、批判の後に来るものが「真の」主体であるわけでもない。それぞれが真に実在する様々な主体性の例に過ぎない。
(同上書、421-422頁。)
権力への抵抗を、権力一般対非権力一般の対決としてではなく、異なる権力同士の葛藤として捉えるならば、理論的な困難の多くは解消するだろう。
それでもなお、フーコー権力分析を権力の一般理論へと読み替えようという欲望は絶えることはない。そして90年代には、フーコー的な権力論を一般理論的に真に受けつつ、それによって封じられたと見えた権力批判と抵抗の基礎付けを可能にする抜け道が発見されたようにみえた。すなわち、80年代半ばから急速に注目を浴びるようになったエマニュエル・レヴィナスの「他者」に照準する独自の倫理学である。あるいはまたこの時代、アントニオ・グラムシ由来の「サバルタン」なる概念に、ガヤトリ・スピヴァクらが独自の意味合いを込めて使い始めたのにも、同様の意味合いがあっただろう。
そこに見いだされる「他者」とは、絶対的に無力で受動的な存在である。そうであるが故に、決して権力に汚染されることはない――レヴィナスがそのように素朴に考えていたとは思いがたいが、そのような気分に動かされてフーコーとレヴィナスを併せ読むやりかたが流布した。ジョルジョ・アガンベンの作業はそうした気分の中でのある程度高い達成と考えることができそうである。
ただしこのラインの志向において十分煮詰められなかった問題がいくつかある。まず第一に、まさにスピヴァクの論考の題名にあるとおり「サバルタンは語ることができるか」という問題がある。絶対的に言葉を奪われ公共圏から排除された存在としてのサバルタンが、自らの存在を主張し始めたとしたら、そのときに彼/彼女はもはやサバルタンではなくなってしまうだろう。すなわちサバルタンは決して「当事者」として自ら声を上げることはない。誰もサバルタンとして語ることはできず、サバルタンの代行者として語り行動するしかない。それはもちろん、自ら一種の権力の主体となることを引き受けること、権力に「汚染」されることだ。だ。
そして第二に、フーコーのリベラリズム分析が示唆する問題がある。レヴィナスの「他者」は、あるいはサバルタンは貧者、弱者、少数者としてイメージされてきたが、フーコーのリベラリズム分析はこれとは少々異なった「他者」のイメージを切り出している。すなわち、公共圏から排除されるというより、公共圏に積極的な関心を持たない者。市場経済という第二の自然に住まうルソー的自然人のような者たち。追い詰められた難民としてではなく、金の力にものを言わせて国境を超えていく者たち。そこにはある種の多国籍企業もはいるだろう。弱いが故に声を聞いてもらえない、のではなく、あたかも自然の猛威のように、他人との交わりに――とりわけアーレント的な意味での「政治」に関心を持たずやり過ごす強者たち。こうした者たちも「他者」であると考えてみることはできないか?
レヴィナス的な意味での「他者」とは絶対的に無力であるが故に、容易に蹂躙してしまえるがゆえに、逆説的にすべての者がそれに相対したときに「強者」となってしまい、己の行動の正邪についてとりわけ厳しく問いただすことを要請する存在である。これを人々はしばしば「絶対的な弱さが絶対的な強さと権威に逆転する」かのように語るが、もちろんそれは不正確である。弱者たる他者がが裁くのでは、本当はない。弱者を前にして強者となってしまった者が、自己のうちなる法廷を呼び出すのだ。
しかし反対に、こちらよりも強大ないわば「荒ぶる他者」という経験はありえないのだろうか? フーコーのリベラリズム分析は、そこまでは行かないとしても、必ずしも弱者ではない「他者」の経験と、そうした「他者」の統治としてのリベラリズムについて語っているのではないだろうか。
こう考えると新自由主義の統治性とは、今日の左派が考えるような「グローバル資本の権力ネットワーク」とは著しく異なった何かである、ということになるだろう。グローバル資本主義の猛威というものはたしかに存在するだろうが、それをどこまで「権力」概念で捉えることができるのかは、必ずしも明らかではない。
- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1999/07
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2010-01-28
■[本]お買いもの思案 
- 作者: R.ブランデンベルク,P.グリッツマン,石田基広
- 出版社/メーカー: シュプリンガー・ジャパン株式会社
- 発売日: 2007/12/13
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グラフ理論の啓蒙書。
- 作者: 堤未果
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/01/21
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教育ローンの話題が興味深いです。
2010-01-22
2010-01-21
■[メモ]古典を読む意味 
北田暁大さんとのトークイベントやシノドスのセミナー(いずれもそのうちシノドスメルマガに出ます)で「社会学ってやっぱり半分人文学だよね」としゃべって以来逆に「じゃあ理系にとって古典は意味がないのか?」と気になって。
通俗的な科学史科学哲学科学社会学風にいえば「通常科学では教育は教科書読ませて練習問題解かせて、で基本進みますよ」となるわけだが、実際普通の物理学徒が『プリンキピア』紐解いたりはしないんだろうが。
でもそういうのって程度問題じゃね? 教科書だって常に最新のがベストってわけじゃなく、古典的に読み継がれる教科書があるし。いやそれだけじゃなく、繰り返し読み直されている原著論文ってのもあるんじゃね?
そういう「教科書で再三お目にかかってるけど改めて原著を読む価値がある論文」の条件って、なんだろう。
矢野さんのブログでのこのコメントって、味読する価値があるよね。
赤池弘次の本ってのは、これかな? 竹内啓先生が本学をおやめになった時に置いて行った御本の中にこの旧版があって、いつ読めるか分からないけれど拾っておきました。今は制御理論の勉強中で、もう少ししたら時系列解析をかじりたい(計量経済学は構造方程式の同定の初歩あたりまでしか齧ってなくて、いまだに時系列が分からない……)。
ダイナミックシステムの統計的解析と制御 (Information & Computing)
- 作者: 赤池弘次,中川東一郎
- 出版社/メーカー: サイエンス社
- 発売日: 2000/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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■[本]お買いもの思案 
- 作者: 竹沢尚一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/01/25
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2010-01-19
■[論点][メモ]今更ながらアダム・スミスに学ぶ 
というか『国富論』における学校教育にかかわる議論を整理する。
・スミスは厳密に言えば人的資本論者ではない。彼によれば無給の徒弟制の人的投資効果は見かけだけのものであり、技能習得は基本的にはlearning by doingがもっとも効果的と考えている。learning by doingによる技能向上とそれによる収益増大の効果については深く検討してはいない。
・スミスによれば読み書きそろばんベースの児童への初等教育の義務化、公共政策化の根拠はあくまでも治安政策上のそれである。liberal professionはともかく、labouring poorの労働生活において必要とされる技能と、読み書きそろばんとの間に有意な関係は見出されていない。子どもに読み書きそろばんを公的負担のもとに強制的に身につけさせるべき理由は、どちらかといえば政治的なものだ。かといってそれは近代的な意味での(あるいは革命以降のフランスでの)「公民教育」というわけでもない。「読み書きを覚えれば庶民は政治的・宗教的扇動者に惑わされずにおとなしく堅気の生活を送るだろう」という風にスミスは述べている。本音は知らないが、文字通りとればそうだ。
・スミスによれば高等教育(具体的には大学)と成人教育(具体的には教会)には特段の公的支援は必要は認められない。自由市場に負かされてよい、と考えているようだ。なおスミスは大学を研究機関としてはとらえていない(あるいはその側面についてとりたてて論じる必要を感じていない)。
- 作者: アダム・スミス,山岡洋一
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社出版局
- 発売日: 2007/03/24
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- 作者: アダム・スミス,山岡洋一
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社出版局
- 発売日: 2007/03/24
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■[ネタ]よくわかるフーコー権力論 
昔一度書いたけど再掲するよ。
『デューン』でおなじみのフランク・ハーバートのシリーズに「ジャンプドア」という宇宙警察(?)ものがあるんですが、そこで主人公が所属する機関名が「サボタージュ局」なのです。
ずっと昔、何世紀も昔に、《良い事をしたい》という強迫観念を抱いた知的生物集団が、政府を乗っ取った。その強迫観念の裏側にうごめく複雑さ、罪悪感、自己懲罰などに気づかぬままに、彼らは政府から事実上すべての遅延や、繁文縟礼〔レッド・テープ〕を除去してしまった。知的生物の生活を不器用に支配していた大きなマシンが、いつのまにかトップ・ギアに入って、ぐんぐんスピードを増していった。いろいろな法律が発案され、その時間内に通過した。特別会計支出予算案がまたたく間に現実のものとなり、二週間で消費された。そんな必要があるとも思えない目的のための新局が、つぎつぎに生み出され、まるで気違いきのこのように増殖していった。
政府は調速機〔ガヴァナー〕のない巨大な破壊車輪になってしまい、気違いじみたスピードで転げ回り、それが触れるあらゆる場所に、混沌を広げた。
絶望の中で、一握りの知的生物たちが、その車輪のスピードをゆるめるための、サボタージュ部隊というものを思いついた。流血や、その他いろいろな程度の暴力行為があったが、結局、車輪のスピードはゆるめられた。やがて、その部隊が局になった。そして、今日存在するものが、とにかくこの局なのである――それ自身のエントロピーの回廊の中に向かって進んで行く一つの組織、暴力よりも微妙な牽制を好むが……必要が起こればいつでも暴力を振るう用意のある知的生物のグループだ。
(フランク・ハーバート『鞭打たれる星』21-22頁)
殊能将之先生の日記よりコピペさせていただきました。
- 作者: フランク・ハーバート,岡部宏之
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1979/03
- メディア: 文庫
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- 作者: フランク・ハーバート,岡部宏之
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1979/08
- メディア: 文庫
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つまりそれ自体ポジティブな力としての権力とはどのようなもので、それに対する抵抗はなぜ起きてしまうのか、はこれを読めば大体わかる(嘘)。最後にこのサボタージュ部隊が結果的には最強の警察機構、すなわち最高の権力になってしまいました、とのオチを付け加えれば完璧。
内田樹先生も「今日フーコー権力論それ自体が人文系院生を規律訓練する最強の権力装置になってしまっている(笑)」とおっしゃっているではないですか。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/06
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■[論点][メモ]「教育」と「学習」の非対称性・非対応性 
「教育」と「学習」とは必然的には結びついていない。人間は(そして多くの高等動物も)学習することなしにはおそらく生きてはいけないが、「教育」を受けることなく生きていくことはできる。
「教育」はせいぜい「学習」のための条件を整えること以上のものではない。すなわちそれは「学習」を包囲する権力作用である。だからそれ自体は――たとえ人間にとって不自然・非本来的であっても――別によくもわるくもない。
実際問題として世界は非対称的である。とりわけ時間軸に対して非対称的である。生き物は所与の環境に適応する形でしか生きてはいけない。人間もまた例外ではない。ただ人間的環境の中には、いわゆる「公共圏」もまた含まれてしまう。それゆえに人間はしばしば、この非対称性を忘れてしまう。実際「公共圏」とは、この非対称性を馴致したり無害化する役割を果たしているといえなくもない。しかしそれは決して、この非対称性を解消しはしない。
どういうことかといえば、コミュニケーションは非対称的だ、といいうことだ。「教える」ことと「学ぶ」ことはもちろん、「話す」ことと「聞く」こと、「伝える」ことと「解釈する」ことの間には非対称性が存在する。コミュニケーションにおいて、通常は誰かが先手を取ってしまう、ということだ。そしてどの個人もあるいは学習能力のある動物個体も、これらの後者の契機から逃れることはできない。しかしながら前者はそうではない。
- 作者: D.スペルベル,D.ウイルソン,Dan Sperber,Deirdre Wilson,内田聖二,宋南先,中逵俊明,田中圭子
- 出版社/メーカー: 研究社出版
- 発売日: 2000/08
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- 作者: 福島真人,ジーンレイヴ,エティエンヌウェンガー,Jean Lave,Etienne Wenger,佐伯胖
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 1993/11
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- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: 勁草書房
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■[論点]「メモ」「人間力」「職業能力」「学校教育」 
hamachan先生や金子良事氏や労務屋さんがあれこれ言っているのを脇に見ながら。
本田由紀は公教育の政治的側面、人格陶冶の機能を強調するある種の主流派左翼教育学を批判し、公教育における職業教育の復権を高唱するが、傍目から見れば「さすがに教育学者さんは学校がお好きですね」の一言ですませたくならないでもない。ただそう言い捨てるだけでは単なるシニシズムであり、教育社会学関連の科研費のおこぼれをいただいた上に今年は教育学部で教えさせていただいている手前、他人事のような振りはできない。
ぼく個人が公教育の職業教育に対して果たしうる機能に対して懐疑的なのは、非常に初歩的で単細胞な経済学的推論から来る。スミスが言うのとは異なり、(実際スミスの時代とはいろいろ細かいところで我々のおかれた状況は変化してもいるから)learning by doingのみならず、職業現場を離れた教室での教育を介して、職業生活にとって有意義な技能を修得することは多少はできるだろう。しかしそのような教育を公教育として行わなければならない理由は必ずしも明確ではない。
ひとつ考えうるのは、そうした教育の外部経済効果がかなり高い場合である。初等中等教育の公的供給の正当化のロジックは、大体こうしたものだ。
いまひとつ考えられるのは、資本市場が不完全で、貧困者が学校教育を受けるのに必要な費用を調達できない場合。この場合には、たとえ学校教育に外部性が存在しない場合にも、学校教育への公的支援が十分に正当化されうる。ただしその費用の支弁――所得の再分配を豊かな者に受け入れさせる理由が、外部効果が存在する場合に比べて弱くなってしまうだろうが。
以上二つの条件が当てはまらないような場合には、職業能力の練成は基本的に個人の費用負担において行われるのが筋であり、それを仮に「学校」的施設で行うとしても、それは私立学校であって構わない――というか基準的にはそうあるべきだ、ということになる。とりわけ個別具体的な技能にかかわるものであればなおさらそうなるはずだ。これは産業政策が原則的には好ましくないのと同じ理由から来る。
ところで本田に名指しで痛罵された小玉重夫のような、主流派の左翼教育学者が近年では「シティズンシップ」といった言葉を用いて公教育の「公民教育」的、すなわちその政治的側面と全人格的陶冶の機能を改めて重視するのは、近代社会におけるデファクトに支配的な「教育」の実相――それが同時に「学習」の実相であると捉えられているのかどうか、はいまは問わない――をメリトクラシーと捉え、公教育をこの支配的潮流――「権力」と言い換えたってよい――への加担というより抵抗の拠点として捉えようとするからである。これに対して本田は、現代社会におけるデファクトに支配的な「教育」の論理はもはやテクノクラティックに個別具体的な「メリトクラシー」の段階から、全人格的な「ハイパー・メリトクラシー」に移行している、と考え、これへの抵抗の拠点として公教育を立て直すなら、むしろ古いメリトクラシーへの加担ともみえかねないにせよ、職業教育にもっと重心を寄せるべきだ、と主張しているのである。
どちらにせよ公教育を「権力」への抵抗拠点たらしめようという善意に満ちたスタンスである。
その上で敢えて皮肉な言い方をすれば、フーコー的であるのは表立ってフーコーや更にはアガンベンに論及する小玉よりは、どちらかというと本田の方であることは、既に紹介した「サボタージュ局」の寓話を想起していただければお分かりだろう。
もともと主流派の左翼ヒューマニズム教育学にとって、フーコー権力論は目の上のたんこぶだったのであり、80年代まではおおっぴらに肯定的に取り上げることなどありえなかった。そして実は今日でも、教育学者に限らず「フーコー左派」は、決定的なところでフーコーを回避し続けており、彼が否定したはずの「実体的な批判の足場」をはっきりとは言葉に出さないままに温存し続けている。
もともと主流派の左翼教育学にとっては「正しい教育を行う正しい権力」というものがありえたのである。それが現状の「正しくない権力による正しくない教育」への批判の根拠となっていた。しかしながらフーコーのインパクトによってそうしたものへの信仰は解体し、人々は批判の根拠を見失った。人々にはフーコーが「本来あるべき正しい権力を知らないくせに、現状の正しくない権力をいたずらに批判するだけのニヒリスト」に見えた。それゆえフーコーは批判された。いまやフーコーはそれ自体権威となっている。しかしかつてのフーコー批判が提起した問題は解消されたわけではない。
そういう抽象的な「正しさ」をめぐる議論から離れて、「ハイパー・メリトクラシー」という権力に対して、「職業能力中心の公教育の再建」を明確に対抗権力として――ありもしない「権力からの自由」を求めることをやめて――構想する本田の具体的なスタンスは、おそらくは小玉のそれよりもよほどフーコー的であろう。おしむらくは、それがいろいろな意味で――経済学的その他様々に実証社会科学的な意味で誤った認識に基く、不適切な政策提言からなっているらしいことだ。(続く?)
■[本]お買いもの思案 
- 作者: コーマック・マッカーシー,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/12/18
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村枝賢一『RED』のネタ本ですねわかります(違)。
2010-01-18
■[本]いただきもの 
民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実
- 作者: ポール・コリアー,甘糟智子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2010/01/14
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ありがとうございます。催促したみたいですみません。
ポスト社会主義の政治経済学―体制転換20年のハンガリー:旧体制の変化と継続
- 作者: 盛田常夫
- 出版社/メーカー: 日本評論社
- 発売日: 2010/01/10
- メディア: 単行本
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在ハンガリーの盛田先生から、一面識もないけどご恵投いただきました。ありがとうございます。
一橋のコルナイ・シンポでの報告のほか、ナッシュのノーベル賞受賞の際に書かれたノイマンについてのエッセイも収録されています。



