「神的暴力」について

 たしかレヴィナスが「形而上学倫理学が先行する」という趣旨の発言を何度かしていたと思うが、それはあまり正確ではない、あるいは今日風の言い回しとは違う、という気がしている。あえて言うならばそれは「形而上学倫理学に神学が先行する」とでも言うべきなのではないか。もちろんここでいう「神学」とはキリスト教など特定宗教の教義学というわけではなく、今日風の学問区分なら哲学の中のそのまた形而上学ということになるのだろうけれど。


 形而上学、この文脈では「存在論」と言い換えた方がよいのだろうけれど、レヴィナスが『全体性と無限』などで「形而上学(よく知られているように「全体性」はこちらに対応する)は倫理学(「無限」はこちらに対応する)に先立たれている」と主張することの含意は、いくつかの解釈を許容するだろうが、それ自体そうわかりにくくも突飛でもない。少し飛躍するがたとえば今日の宇宙論における「人間原理」をめぐるやり取りの中で、「その中に知的生命を――つまり観測者を生まない宇宙について「それは存在している」ということに意味がありうるか」といった議論がなされているときには、似たような問題意識がそこに存在しているだろう。
 ちょっと見たところでは、件の「人間原理」的議論において問題となっているのは「存在論と認識論の関係」ではあっても「存在論倫理学の関係」ではない。ただ、このように具体的な、物理学的な存在としての認識主体を問う議論は、伝統的な意味での「認識論」とは相当に異なったタイプの問題意識によって導かれているだろう。ぶっちゃけて言えばクワイン流にいう「認識論の自然化」がそれであり、これは突き詰めれば、具体的にはデイヴィドソンが示したように、合理的な認識主体は同時に合理的な欲求を持ち、それを実現すべく合理的に行為する主体であると考えねばならないのだから、「存在論心の哲学との関係」までがそこでは問われているのだ、としてもあながち牽強付会ではあるまい。とすればそこから倫理学へはもう一歩――とは言わないまでも、それほど遠くはない。そうした合理的主体の存在の複数性という過程が導入されれば、広い意味での「倫理学」への道は開かれる。


 しかしレヴィナスは本当にその程度の話をしようとしていたのか? あるいは仮にそうだとしても、そこで話を終わらせてよいのだろうか? 


 少し話は変わるが、人(認識・行為の主体)を殺すということは、ある意味で(すなわちその人にとっての)世界を終わらせるということであり、その意味で人を殺すという営みは神的である。レヴィナスが「殺人は不可能である」と言ったのは要するにそういう意味においてであるとは言えまいか。つまりより正確には「殺人を人として行うことは不可能である」ということであったのではないか。殺すことにおいては、人は実に簡単に神の真似事ができてしまうのである。
 もちろんその対極の、いわば「神の真似事」の困難な極というものが考えられる。すなわち、世界を創造するということだ。しかしこうした作業でさえも「真似事」としてであれば十分に可能である、とは言えまいか。すなわち、ある人にとってはその外側、ほかの可能性(「可能世界」と呼んでしまうことはとりあえずは差し控えるとして)が想定できないような環境を提供する、という程度のことなら。人の世界を消滅させることも、また創造することも、人間にはできてしまう――「人の道」を踏み外すならば。
 つまるところ、こうした「人の道を踏み外す」ことの否定したうえではじめて、我々は安全かつ有意義に「存在論」を云々することができる、ということなのだろう。


 ところでこれはおそらくはベンヤミンが「神話的暴力」といった言葉づかいで表そうとした何事かである。いうまでもなくベンヤミンは「神的暴力」をこれに対抗させようとしたわけだが、果たしてその言葉遣いは適切なものであったのか? 「神の真似事」たる「神話的暴力」を否定する「神的暴力」なるものがあるとして、その具体的表れが「神罰」「最後の審判」だというのであれば、それは随分と子供じみた願望である。そうではなく、ただ単に「神の真似事は所詮真似事であり、いずれ自滅する」ということを指しているのであれば(これは小泉義之の解釈である)、それを「(暴)力」と呼ぶことには無理があるのではないか?

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

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全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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弔いの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

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