AKBって?

shuichifujii2011-06-13

 我が家はテレビを置かないので、AKBについてほとんど情報がなかったのですが、最近教会にこられる若い子からちらほら情報が入ってくるようになって、総選挙があるとか、その選挙権を得るにはCDを買わなければならなく、そのために無駄にCDを沢山買う人もいるということを聞いて、「うーん」と唸っていたところでした。

 先日子どもたちとスーパに行った時、AKBのブロマイドをみた妻が、「なんだかアダルトビデオみたい」と言ったのが印象に残っていて、そう言われて改めてよく見てみると、写真の撮り方や表情、ポーズなどに、そういう意図があるようにも感じたわけです。

 そう思っていたところ、「小さな命を守る会」の水谷先生のブログにも、そんな記事が載っていたので、長文ですが以下に引用します。

AKBの正体見たり!「プラトニック・フーゾク」?
 危機的状態にある日本社会、政局が注目されている中で、これだけAKB総選挙が話題になるのだから、日本社会は異常だと思う私です。これは日本が平和なのでなく、国民とメディアがおかしいに違いないのです。国民的アイドルが注目されるのはよいのですが、総選挙という政治をモデルにした形で、注目を集めさらに金儲けもしようというのですから、ちょっとどうかと思います。

 結局、AKBとか秋元康ってなんだろうと思ったとき、浮かんだ言葉は「プラトニック風俗」であります。もちろん本物の性風俗ではありません。ストレートな性表現もないし、社会の許容範囲にとどまっています。だからプラトニックなのです。きっとAKBの魅力は「プラトニックなエロ」「草食系エロ」「暗示的エロ」ではないかと考えたりしてしまいます。

 女性アイドルグループは昔から性的な要素を持っていました。その時代に適応した性的魅力のあるアイドルグループが人気者になるとか売れるのは、常に繰返されてきたこと。それをある程度、産業化して多角経営によってメンバーを露骨に大量消費材にしたのは、あの「つんく」でありましょう。

 しかし、世の批判を受けぬように、そうした産業化を徹底したのが秋元率いるAKBなのでは?と思うのです。投票をして、露骨に序列化するなどは、キャバクラや性風俗の指名ランキングのごとき下品さを感じるのは私だけでしょうか?CD購入枚数に応じて、投票数与えられるシステムなどは、お気に入りを指名するために、多額を投じる風俗お客の如しであります。

 また、プラトニックに性を売り物にして、少女たちの憧れやモデルとなっているAKBは、少女たちに「将来、キャバ穣になりたーい」と言わせているカリスマキャバ穣の如しであります。

 まあ、少年少女の両方が、若き男性も女性もが、こうして、やられてしまっているというのが私なりの分析。

 秋元氏のコセプトやシステムには、性風俗産業との類似点を多く感じます。要は、そうした性風俗のコンセプトやシステムを、可愛いさというオブラートに包み、社会が容認する範囲で、しかし、スリルを含ませながら、提供しているのが秋元氏であろうというのが、今のところの私なりの考察。名づけて・・・・。

 「AKBプラトニック風俗説」であります。

 果たしてこの見解の真偽やいかに?

 AKBに限らず、日本のテレビ、マスメディアの情報によって、日本はだめになってきたとは、昔からよく言われてきたこと。

 マスメディアを変えようとしても、それはむつかしいこと。しかし個人として対抗することは簡単。ただテレビを消すだけ。しかしこの簡単なことが一番むつかしいのかも。

 本質は、実は自分自身との葛藤、戦い。しかし自分で自分は持ち上げられないように、これは外からの助けがどうしても必要。


ローマの信徒への手紙7:23〜

「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。


わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」

ペンテコステ

 昨日の礼拝はHさんご家族、IGさん、わたしたち家族

今日は、ペンテコステ礼拝

エスさまの十字架、復活、昇天のあと、エルサレムにいた聖霊の上に弟子たちに降り、巡礼に来ていた各国のユダヤ人たちが、その故郷の言葉で弟子たちが話すのを聞いたという出来事。


2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


 実際に地図を拡大コピーして、上記の地名に印をしてみると、この出来事のリアリティーを一味深く感じさせられます。

 当時も国際語であるギリシャ語があったのに、弟子たちはギリシャ語ではなく、それぞれの国の言葉で神のメッセージを語らされたということは、今で言うなら、福音は英語のような共通語ではなく第一言語で伝えられるべきといこと。方言ならなおよいのでしょう。