「書くこと」について メモ

マーティン・ジェイ『暴力の屈折 記憶と視覚の力学』谷徹/谷優訳、岩波書店、2004年
第三章「ホロコーストはいつ終わったのか? ―歴史的客観性について」より抜粋(56頁-58頁)

…過去の世代の経験を取り戻し、その人々の物語が忘却の淵に沈むことのないようにしたいという欲求こそが、歴史を書くことへと駆り立てる最も切実な要請のひとつである、という主張がしばしばなされる。構造や傾向や出来事や言説を吟味する代わりに、歴史家は、非個人的に見える構造や出来事を作り出した人物が感じていた経験―意味と価値に満ちた経験―に立ち戻るべきだ、と促す主張である。当の人物が不正の犠牲者であったとみなされれば、彼らに声を与えることでその苦しみの埋め合わせをしたい、という欲求がいっそう強くなる。ここで吟味している事例では、ひとつの抽象的で包括的な人種カテゴリーを、そっくりそのままこの世から抹殺しようとする計画のなかで、その犠牲者たちをを顔のない統計データに変えてしまったナチスの行為に対して、断じてそのままで終わらせたくない、という欲求が強力に働くのは確かである。ワルシャワゲットーのラビであったイザック・ニッセンボイムが「生の神聖化」と名づけたもの―つまり、極度に悲惨な状況下でも何とかユダヤ人として意味のある生き方ができた事例―を記憶にとどめ、それに敬意を払うという仕方で、この欲求はしばしば表現される。……

…(中略)…

 正確に言って、過去の経験をどのようにして取り戻すことができるのかというのは、もちろん、著しく困難な問題である。特に、ヴィルヘルム・ディルタイやR・G・コリングウッドのような理論家たちが提唱した「追経験〔=追体験〕」や「追遂行」という技法が最近のように疑問視されるようになると、いっそうのことである。最良の条件がそろったとしても―つまり、われわれより前に生きた人々の日常生活にかんして比較的綿密な記録と個人的回想が手元にあるとしても―、彼らの経験について客観的にみなされるような記述を組み立てるのは、けっして容易なことではない。それには、かならず相当に想像力を使った再構築を施すことになるし、過去の経験と現在の経験の隔たりをどのように橋渡しすべきかという難問に出会うことにもなる。この隔たりというのは、今の現実を過去に不当に当てはめてしまうのを防ぐ手だてとして歴史的差異というものを真剣に考えるかぎり、ひとつの避けがたい問題である。……

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西成彦『エクストラテリトリアル 移動文学論2』作品社、2008年
「二○世紀文学とマイノリティの言語―あとがきに代えて」より抜粋(初出:「発信するマイノリティー、いらだつマジョリティー」in『20世紀の定義④越境と難民の世紀』、岩波書店、2001年)

 いつの世にあっても存在は発信しつづけている。生きている人間に限らない。動植物であっても死者であっても発信はしているのである。それがなかなかマジョリティの耳に届かない。私たち=マジョリティの心を動かすまでには至らないのである。だからこそ、マイノリティにはいつでもマジョリティよりもいっそう多く語ることが要請される。
 いつの世にあっても存在は発信しつづけるが、マジョリティよりもマイノリティの方がより多く語らされる。しかも、それでも、それはたいていの場合、雑音(破壊的音楽)として聴かれるだけなのである。……(324頁)

 死んでいった存在の最後のひとことを耳にしてしまったものの不幸。そこからすべての道徳的な問いははじまるのだ。……(326頁)

『変身』のカフカは、マイノリティになること、自分の言語をマジョリティが聴き届けてくれなくなることの孤独を描こうとしている。……
三人称小説として書かれた『変身』の中では、話者が特権的な位置にいる。話者は人間の言葉ばかりでなく、「動物の声」をも言語として理解する。聴いてわかるだけではなく、その内面をまで見透かすように再現してみせる。この話者は超越した位置に立っているのである。したがって私たち読者はこの語りを信じないわけには行かないのだが、じつに不可解なぐらいの特殊能力を話者ひとりが独占している。
 しかし、この話者とはいったい何者なのか?
「変身」がいかなる経験であるのかを、私たちはそう簡単に追体験可能なのだろうか?
話者はこんな疑問を差し挟む余地すら私たちに与えようとはしないのだが、だからこそ、私たちはこの特権性を疑ってかからなければならない。
 グレーゴルは、最初は、家族から過剰なまでに保護されるが、しだいに「彼」ではなく「それ」と呼ばれるところまで落ちていく。いわゆるモノ扱いだ。
 しかし、グレーゴルがモノではないと思わせているのは、話者の思い入れにすぎないのだとしたら?
 グレーゴルは、ひょっとしたら、ほんとうの「動物」への道を歩みながら、「動物の声」をすら喪失していった可能性だってある。そもそも「変身」とはそういうことではないだろうか。
 だとすると、一方でモノ扱いをされながら、他方ではただの「生ける屍」にすぎないグレーゴルを、それでも言語的な存在として捏造していく擬人法の執行人としての話者に、私たちはもっと注目すべきではないか。
 マイノリティは、マジョリティによって黙殺される可能性との戦いを強いられるばかりでなく、マジョリティによって自己流に解釈されかねない危険性との戦いをまた強いられる存在のことである。……
 再現不能でしかないものを敢えて再現してしまうという暴挙がもたらす不幸―『変身』が描いているのはそれだったのではないだろうか。(328頁-329頁)

 死者について書くというだけなら、ひとは生きている読者だけを配慮しておけばいいだろう。しかし、死者と共に、その傍らで書こうというとき、あるいは語ろうというとき、ひとはその言葉をも死者によっても聞かれうるものとして想定しておかなければならない。「嘉する」のも死者だし、「拒む」のも死者である。死者は私たちの語った言葉を、はたして聴き届けてくれるのか、くれないのか?私たちには確かめようがない。それでも「嘉する」かも「拒む」かもしれない聴衆として死者たちが混じっているということ。死者と共に、その傍らで書くということは、そういうことだ。「遺言執行人」とはいっても、誰が「作家」をそう指名したわけではない、自称「遺言執行人」としての「作家」。(332頁)

 マイノリティの声は、マイノリティの言語に語らせればよい、彼ら彼女らの語りの技術を磨かせればよいと、もし考えている私たち(=マジョリティ)がどこかにいたとしたら、それは大きな間違いである。奴隷船の底荷やアウシュヴィッツのボロ布の言語を聴き分けられるだけの言語能力と精神の強靭さをいったい誰が有するというのか?
 だから、仮に『変身』におけるカフカのように、話者を一人立てて、その話者に偽証の疑いを負わせてでも、マイノリティの「爆発しそうな切実さ」は誰しもに分かたれなければならない。
 そして作家・詩人はマイノリティの悲鳴を、悪意を持った形で、翻案し、置き換える。表象作用以外の何がしかの言語効果を用いながら。(334頁)

 言語の消耗。それは語りながら擦り減っていく存在のパフォーマンスであると同時に、耳を傾けるものに対してもまた消耗を強いる言葉の濫用である。
 私たちは死んでいくものの疲労についてなら想像が及ぶが、そのはてしない消耗には、読む側の消耗なしにはつきあっていけない。
 しかし、マイノリティとしての死者が発信する言葉とは、消耗の言語に他ならないのではないか。……
 私たちはいつのまにか死者は静かに死んでいくものだと思いこむようになっている。しかし、これは生きているマジョリティの独断と偏見にすぎないのではないだろうか。マイノリティの言葉を遮断して生きて行こうという衛生学がはたらいて、私たちは死者に猿轡をかけてしまっているだけではないのか。(336頁-337頁)

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およそ十年前に書かれたもの。
当時の歴史家論争や物語論など、その時どんなであったかその後どうなっているのか、知らないなあ。


それにしてもグレーゴル。私はてっきりグレゴオルだと思っていました。けっこう大事なところです。
バーサ=アントワネットなのか、バーサ=アントワネッタなのか。

むかし英国人の先生に「メキシコ」と話したら、メキシコじゃないよ、4シラブルでなくて3シラブル。日本人はチョコレイがチョコレイトになるんだよねー。なんて言われて言い直しそれでも言えずめんどうになって「メヒコ」と言ったらば、もうそれはスペイン語、なんて苦笑いされたことがありました。
もう、君のことなんて誰も理解しないよ、cheerfulでcomplexでalways wavingなんだから。なんてとても素敵な理解を示してくれた先生でしたが、おしゃべりしていると先生もゆらゆら揺れていたのは、私の身振りがうつっていたからなのでしょうか。

以前ある先生の診察でお話をしているときに、先生がうねうねされていてなんだかな、と思ったことがありましたが、私の身振りがうつっていた、あるいは診療の方法論として真似をされていたのかもしれません。
いやいや痛みにもがいているだけですがなー。それは難しいところではありますがなー。
どうやら真似だけで完結されているらしいのがなんだかな、なんて思えたりしています。
身振りを真似てみたところで、他人の痛みはワカランかもしれない、それがワカラン。
そのとき先生と同じ身振りで話していることになる私には先生の痛みがワカランのか、それがワカランのであるなら。