修羅と菩薩


私は生来、人の好き嫌いが激しい。
学生の頃、そんな私を象徴するフレーズとして、「明菜最高!消え去れ聖子!」というコピー?を作った友人がいた。
(実際には、私は聖子さんがそんなに嫌いではない。天使のウィンクまでのシングルはフルコーラスで歌えるし、アルバムも時々聴く。)
学生時代の私には、「好きな者は徹底的に愛し、嫌いな者とは徹底的に対立する」というような雰囲気があった。
しかし、そんな風に生きて、うまく行く訳がないのは、自明の理である。
実際に、好悪の激しさのせいで、痛い目に合ったことが何度もあった。
信頼する人からも、「あまりいいことではない」と忠告されたりもした。
そんな経験を経たからか、最近の私は、嫌いな人、苦手な人の幸せを祈るように努力している。
「それは行き過ぎ、やり過ぎ、偽善!」と思われる向きもあろうが、「明菜最高!消え去れ聖子!」の体たらくを考えれば、これは「革命」と言っていいのではないだろうか?と、私はひそかに自分に感動している。
言うまでもないことだが、人間が他の動物と明らかに違うところは、理性を持っているところである。
社会生活において理性を働かせることにこそ、人間が人間たる所以があるのであって、好悪の感情に身を任せるというのは、本能のまま、野生のままに動くということであり、実は人間らしくないのである。
しかしそれでも、人間にはエゴがあり、人と争ってしまう傾向がある。つまり、修羅の本性がある。だから、戦争がなくならない・・・。この「修羅」を理性でコントロールするのは、実は至難の業なのである。
では、人間は修羅界で生きる宿命をどうすることもできないのか?
否!その至難の業を乗り越えることにこそ、人間の究極の使命があると私は思っている。
それが「利他」の精神であり、仏教用語で言えば「菩薩」の心である。
「世界平和」は、21世紀の人類の一大課題と言えるだろうが、まずは一人一人が日常のレベルで、この菩薩業を積み上げていく中に、真の平和へ繋がる道があるような気がする。つまりは、個々人の人間革命である。
日本人には、宗教が日常生活に根付いていないことが多々あるので(ともすれば、胡散臭いと見られる)、菩薩などというと大仰に聞こえるのかもしれないが、人間が人間たる所以を語る上で、また、万人の幸福を考える上で、修羅界ではなく菩薩界で生きることの大切さを、自戒の念も込めて強く訴えたい。