村上春樹と大江健三郎

 今、読んでいる本は3冊です。大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」、吉増剛造「我が詩的自伝」、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」

「新しい人」はKが読み、感想を言っていた。
「僕は、村上春樹の小説を読むことで、可なりの部分を補われているが、それでは手の届かなかったところが、大江健三郎を読むことで、補われた。補うといっても、僕がゼロといっているわけでもなく、僕が村上春樹大江健三郎を補うといってもいい。二大権威のようであるが、村上春樹は元より、大江健三郎も、読み始めると、権威ではなくなった」
 Kは僕と古本屋へ向かう道で歩きながら、ジーンズの後ろポケットに差し込んでいた「新しい人」を手に取り、収録の最初の短編について、話し、僕に、ある箇所を読ませた。僕はその「無垢の歌、経験の歌」は、今日の午前に読み終えた。
「お前は、前回、仕事における経験について話したが、僕は、仕事というのではなく、お前のいう「名詞に固定された映像の更新」、それも、毎日歩く道にある家が改装したとか、そんな小さなものではなく………そう、ここ。(Kは28ページ目を開いて指をさし)ここを読んでみてくれ」
 そこには、隣の席のH氏に、きっぱりした身振りで指をさして促されて見た、飛行機の窓から下方の、いちめん粘度色の沃野に、そこいったいを縫いかえした痕のように深く彎曲しつつ流れる川を、「川」の最良の定義とする、ということが書かれていた。今日の午前読んでいて分かったが、「当の飛行機路線に乗る前の出来事ともども、記憶にとどめているのである」と書かれている。
 H氏がきっぱりした身振りで指をさしてした定義を、イーヨーとされた足の定義と、結び、至る。それから、Hさんの眼が一瞬示した「悲嘆」についての定義。辞書のようではなく、体験をそのまんま含んだ定義。Kは、何のことであれ、そのように僕に話す。もう、映像と呼ばず、それを体験と呼ぼうか。(追記:「僕」は、どうしてイーヨーやH氏と、定義による通じ合いを必要としているか)

「詩的自伝」は今年の7月に半分ほど読んでいた。これまでで最も危険な所へ行けたのは、この本に触発されたからだとも言える。詩的で根源的で徹底的な分析は、すべてが因果律となった(なりかけた)。目の前にあることは、手の届き得ないことでもあるとして、免れた、が、それは甘えであるという。吉増剛造は受動的統合失調症と医師に診察されたことがあると言っているが、統合失調症にみられる幻想の代わりの幻想は現実にすべて対応している。現実から受動するあまりにも複雑な何かを次々に言葉で対するからだ。(断定して書いたがそうとどこまで言えるかわからない)。僕はまた危険なところへ行きたいのだろうか。Kはここにある体から離れて話をしすぎると体の異常が発生するといったのに、前回、気がつくとKは目をつむり、この場所ではない別のところへ行ったり来たりした。

保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は、相当読んでいて、読んでいない箇所もあるが、繰り返し読んでいる箇所もある。僕はこの本が一番重要と思っているかもしれない。(追記:第一章は分身(ローカルな記憶回路によるもの)について書かれている)

それに加えて、河合俊雄編の「発達障害への心理療法的アプローチ」を読もうと思う。中井久夫監修の「統合失調症をたどる」も読みたいが、今はやめておく。