野田の奇妙な冒険
rucciさんとこの[web]そこにシビれる! あこがれるゥ!からのだめのカンタービレな冒険、ジョジョのカンタービレな冒険を発見しました。アハハ、おもろい。
下の記事([Web][雑記] 閉塞感と正義と「社会正義」、定義)を書いた頭で少し解釈してみると、「のだめカンタービレ」と「ジョジョの奇妙な冒険」はどちらも、感情の高まり、たかぶりによって物語に命が与えられる(まーどんな話でもそうかな。でも「ぎゃぼー」とか「チュミミン」とかはやっぱ独特)。
で何が違うかというと、のだめでは感情の高まりが、音楽(あるいは恋愛)による「快感」へとつながっていく。ジョジョでは、感情の高まりが、「正義」への思い(使命感といってもいい)を支える拠り所となる。何かを成し遂げることで生じるデメリット(批判やトラブル)を超えるだけの意志の源となる。
まあジョジョの場合には、使命感だけではなくてそれぞれのキャラクターの数奇な生い立ちとそれにまつわる何かへの偏愛や各人の常軌を逸した雰囲気がポイントだったりもするから、また一概には言えないけど。
感情が一定の感覚への筋道となるか(のだめ)、それともポリシーの動機(ジョジョ)となるかみたいな。まー適当な思いつきでした。
閉塞感と正義と「社会正義」、定義
ヒーローものゲームの攻撃性、そんなのどうでもいいじゃないですか
むしろ、正義を不可能にする閉塞感が、社会無意識を介して、単純でわかりやすい怪物への欲望に変化しているのかもしれないし、その欲望する主体は、むしろ、ヒーローゲームを忌避する社会正義の感性ではないのかと皮肉に思う。
日本での話。たとえばアメリカではまた違う(アメコミとか)。
で、少しこのあたりの実態はねじくれていて、うーん。異論は全然ない。文脈はおいておいて、ポイントをしぼって少し書いてみると。
つまり、ヒーローゲームを忌避する感性が閉塞感を感じ、自分でも知らない内に怪物への欲望を抱く(少し違うが簡単にするとそんな感じ)。他方で、その感性は、ゲームそのものについては擁護し、ゲームを批判する者に対しては断固反発する。
で、できあがるのは、というか好まれるのは……破壊への衝動がファッショナブルな形で体現され、それを大いに見て楽しむ。
(紳助話のときのテラヤマアニさんの文章も関連して思い出しているが、「必ずしも」テラヤマアニさんがそうだとは思わない。)
で、昔はゴジラが「怪物」の役割を担っていたのかな。今はわかりづらい。普通の不良の実態の変容にも似ているかも知れない。悪への衝動はより隠れたおしゃれな形で潜み始めた。と、書いてみるとすごいありきたりな文章。
出る杭を叩こうとする「社会正義」と、それへの反発だけによって出る杭は、どれも間違った在り方だと思う。そして「正義」と呼ばれるべき対象(シニフィエ)は、また別の物なんだろうな。私の中では少なくともいわゆる原理主義のイメージではない。
抽象的なレッテルを大仰に使おうとすると、その使おうとしたレッテルに振り回されて実態が見えなくなる。たとえば「正義を追求すること自体がよくない」という言説の言いたいことはわかるが、その言説自体は不正確。なぜならそもそも、追求すべきものを正義と呼ぶから。(と一応言っておく。)
(そして、「正義を追求すること自体がよくない」と言明した瞬間、またそれに納得した瞬間、その人にとって善悪と行動基準そのものが意味を持たなくなる。何を追求することをも自分で禁止してしまって、あとには虚しさだけが残る。
その虚しさと息苦しさをなんらかの形で自己弁護すると、「楽しければいい」みたいな形になるのだろう。楽しいのかどうか。)
とりあえず字面の意味にしぼると、ある命題の真偽を判断するのは簡単だ。そしてその手法はけっこう必要だ。
超話ずれまくり。でもないか。
こぞって応募するのだ
「大塚に助言ください大賞」がボッパツ。使い方間違ってるの分かってるけどボッパツ。
いつになるかわからないけど、わたくし大塚幸代が執筆した、デイリーポータルZでのテキストをいったんまとめたいと考えています。
そこで、読んでくださった皆様のご意見がききたいのです。
2002年8月〜2004年12月までに掲載されたネタの中で、ちょっとグっときたもの3つを教えてください。
応募者の中からお礼として抽選で1名さまに
・大塚がごはんをおごる
・アマゾンで好きなCDか本をプレゼントどっちか選んでいただいて実行します(応募者多数の場合は当選者増やすかもしれません……でも応募してくれる人、ほんとにいるのか?)
大塚さんにご飯おごってもらえるのってすごい楽しそう。レッツ応募!