なぜ政治学を学ぶのか

最近、共著で大学入学後に初めて学ぶような人を想定した政治学の教科書を書き、二年次配当の政治学原論を講義し、TwitterではG型L型大学とかそういう話が流れてくると、やはりなんで政治学なんて勉強しないといけないのか、ということを考えなおすことになる。まあ研究者としては、一般的な理論、政治という営みについてより良く理解したい、それに貢献したいというのは思うけれども、一般の大学二年生がそういう理由で政治学を学ばないといけない、というのはなんかちょっと違う気がする。何か真理みたいなものがあって、それを究めることは難しいにしてもその一端に触れる、みたいな考え方もあるかもしれないし、そういうきっかけになるとすればそれほど嬉しいことはないけど、それじゃあ別に政治学という経験じゃなくてもいいじゃない、と言われるとそういう気もする。
自分がやってる政治学の授業では、ざっくりいうと自由な個人が集まって何らかの合意を作り、秩序を生み出すっていうのがフィクションとしてあって、どういう風にそのフィクションが成立し(権力とか国家とか制度とか)、個人に対してどう作用するのか(具体的な政治制度)、それからフィクションを前提に別のフィクションを重ねたような国際政治、みたいな感じで話をしている。国家公務員になったりする人も一定数いる大学なので、たとえば政治制度が個人にどういう影響を与えるのか、みたいなことに関するある程度(実証分析ベースの)定型化された事実stylized factsを知識として持っておくと意味があるよね、とか、個人として色んなものの考え方のパターンを持っておくというのは後で役立つ、という話をしやすいのだが、そういうある種の実用性が問われているかというとやっぱりなんか違和感を感じる。例のG型L型の話でも出てくるように、言ってしまえばそういう知識って別に大学で学ばなくても、政治家や官僚になれば(政治学的に「間違えて」いたとしても)OJTで学ぶことができるし、そういった現場で働いている人たちの実践的な知識にこそ本質的な意味があるという主張を否定するのは難しい。あるいは、そういった実践から引き出される教訓を、まさに実践的な形で一般化して関係者にシェア(=教育?)することが意味があると言われればそうだろう。そしたら、やっぱり政治学をふつうの大学生に教える意味ってどうも弱い。
授業ではもうひとつ、われわれが現にフィクションの中で生活を営んでいることを知ること自体が大事だ、という話をする。みんながフィクションだということを理解していないとフィクションなんていうものは成り立たない、という話。だからこのフィクションを知っておかなくてはならないんだ、ということになる。ただこれもやっぱり弱い。個人が合理的に行動するとすれば、(極端に言えば)自分以外のみんながフィクションを学んでくれて、自分にとっても快適な民主主義を成り立たせてくれることができれば、自分がコストを払ってフィクションについて学ぼうとはしないだろう。可能性としては、まあ市民の義務としてフィクションについて学ぶ、ということで義務教育に組み入れるということがありうると思うし、そういうことをしている民主主義国は少なくないと思うけど、日本ではそういった政治教育への道は非常に遠いように感じる(やらないといけないだろうが)。
ただ、市民の義務としてフィクションについて学ぶといっても、何をどこまでかというのはすごく難しい。好ましくないような制度を変えてどうするか、どう変えるか、ということを義務教育段階で学ぶのはややハードルが高いように思う。ちょうど今、以前に東洋経済に連載していた「政治を嫌いと言う前に」を単行本にする作業をしていて、ここでは他国の制度の比較分析を踏まえて日本の選挙制度にどういう問題があるのか、改革するとすればどういう方向性がありうるのか、みたいなことを「一般向け」というカテゴリで書いているんだけども、正直これを売るときのタイトルが思いつかないw「民主主義の○○」とか「よい代表を選ぶには」とか「なぜ日本の政治は○○か」とか色々考えたけど、ふつうに生活していてそういうタイトルの本を買おうと思う理由がないだろうというか、民主制のもとでの制度改革を自分の問題として考える必要を感じることはないだろうとツッコミを入れてしまう。フィクションの話と同じでマシな制度を導入するというのは集合行為問題になっているので、個人個人にはなかなか訴求しにくいだろう、と(なお良いタイトルがあればぜひ教えて下さい!)。
長期的には、研究者的に優れた理論を追求するとともにエリートだけを教育する実用的な「G型政治学」と、(希望的観測のもとでだが)市民としての知識を義務教育段階で学ぶためにそれを教える教員養成課程の「L型政治学」みたいなものだけになってしまうのかもしれない。個人にとって学ぶ意義があること、社会として教えないといけないこと、というのを削りだしていくとそうなるのかなあ、というか。しかし、憲法選挙制度の変更というのは、リーダーだけが足掻いてもどうしようもなくてマジョリティが動かないと変わらない大変な集合行為問題だと考えられる。そして、成熟した民主主義国では、まさに自律の問題としてこういった集合行為問題を議論すべきだろう、と規範的には思うところ。こういうのはもはやリーダーとフォロワー(一般国民)のコミュニケーションの問題として捉えるべきか、本来義務教育で学ぶべき問題と考えるべきか、あるいはその他の道もあるのだろうか。