世界の中心で、愛をさけぶ概論、残り他

♪るるるんるるるん黄色いバカンスよぉ〜


先日、初めて映画版を見て、原作、ドラマ、映画と一通り制覇した私(ドラマCDとかコミックとかあるんですけどね)が思ったことをつらつらと書いていた一昨日。その内容を大雑把に整理しちゃうと。


○原作に一番近いのはドラマ版。映画版は、原作とは別物と思っても差し支えないくらい

○ドラマ版は、時間を長く取れる事を利用して、朔太郎と亜紀が過ごしてきた青春の日常を、原作ではあまり目立たなかった脇役や、オリジナルキャラクターのエピソードにスポットを当てる等して丁寧に描き、その日常が日常でなくなるというという悲劇を、強く視聴者の心に訴えかけ、その後の闘病ストーリーに結びつける事に成功していると思う

○原作では、いきなり、亜紀が亡くなった後、朔太郎が亜紀の両親と、彼女の希望に添って、オーストラリアへ散骨に向かう車中のシーンから始まっている。
予め結末を提示し、その課程を描いていく手法を取ったのは、亜紀の生死そのものに焦点を当てるのではなく、愛する人と死別した朔太郎と、死という不可避の別れに瀕した二人の一途な愛=純愛に焦点が当てられているからではないか。
ただ、読者を泣かせるために書かれた悲劇という事ではなく、上記テーマに関する作者なりの哲学が込められていて、この作品を通じて、読者に上記のような事について考える機会を与える意図があったのではないか、という勝手な解釈。




ってな事を書いたんですが、この「作者の哲学」とも受け取れるのが、朔太郎と、朔太郎と同じく、かつて愛する人と死別し、なおその人を想い続けていた朔太郎の祖父との対話。


どんな話か……書かないほうが良いと思うんだけどね。キーポイントだと言っているわけだし。でもそれではお話にならないのでちょっとだけ書いておきます。

「死んだ人に対して、わしらは悪い感情を抱く事ができない。死んだ人に対しては、利己的になることも、打算的になることもできない」


ね、ちょっと哲学的でしょ(笑)。何故、利己的にも打算的にもならないかと言うのは明確で、一方的なものにしかならないからってことなんでしょう。見かえりがないってことですね。

まあ、細かい解釈は人それぞれです。



で、映画に関して。

最初に言った通り、原作とは別の作品と考えた方が良いくらいに思っています。

物語に重要な役割を果たす、柴崎コウ演じる律子は、原作、ドラマ共登場しません。

律子は、朔太郎の婚約者、という設定になっています。

律子は、唐突に物語に登場しているので、見ている人には、正直理解し難くなっています。

原作のファンで、映画を見に行った、というパターンの人は絶対混乱すると思う訳です。

どんな話か、導入部分だけ書いてします。たいした事ないんですが、ネタバレなのは確かです。

しかし、書かないと話が進まないので、書いてしまいます。

これから見たいから、一切知りたくない!!という方は以後読まないで下さい。


話の核心には触れていないので、ご安心を。









朔太郎との結婚を間近に控えた律子が、自宅で荷物の整理をしていると、古びたカーディガンを見つけました。彼女が、昔着ていたものでした。

まだあったのか、と感慨に耽り、試しに着用してみるとポケットの中からカセットテープを見つけます。それを見て、ある事を思い出した律子は、咄嗟に家を飛び出し、カセットウォークマンを購入。街の雑踏の中で、そのカセットテープを再生し、耳を傾けました。

「10月28日。どうしてかなあ、眠れないの。明日が来るのが怖くて眠れないの。私……もうすぐ死ぬと思う……」




朔太郎が自宅に戻ると、律子の姿は無く、書置きが残されていた。

「しばらく出かけて来ます。心配しないで下さい。律子」



心配した朔太郎は、高校時代の友人であり、律子を亜紀に紹介した大木龍之介の経営するバーへ向かう。

そこには律子の姿は無かった。しかし。

カウンター傍に設置されていたテレビでは、目下日本列島に迫っている台風に関するニュースが流れており、四国の高松空港の風景が中継されていた。

その様子の中に、偶然にも朔太郎は律子の姿を見つける。

律子が高松に向かった理由を直感した朔太郎は、すぐさま後を追いかけた。












この後は、原作に準拠したストーリー展開になっています。

予告映像で、カセットテープの音に耳を傾け、涙を流す柴崎コウの姿を見ている人も多いはず。

このテープは何なのか。またどうして彼女の服に入っていたのか。

そして、彼女は作中ではびっこを引いて歩いています。


この辺りの伏線は、話の後半で全て解決されるようになっています。ここが、原作にはない要素と言う事です。



所で、一昨日の記事に私は「展開が早くてついていけない!!」という事を書いたと思います。

しかしこれは、どうも映画を最後に見る事になった私特有の感想らしい。

映画を先に見ている私の母親に聞くと、「ドラマの方がかえってまどろっこしかった」とも。

しかし、私のドラマの論評で、少しは納得(?)していただけたと思うんですが、朔太郎と亜紀が愛を育んできた課程を、端的に描きすぎている嫌いがある為、私としては今一つ感情移入ができなかったんです。

私個人は、まどろっこしい位が丁度良かったりも(笑)焦らして欲しい。電車男のラストみたく(笑)


で。この映画を見て、涙を流した方、たくさん居ると思います。何でかって話。

上記理由から、私は内容を吟味する事で涙したり、感動したりって事はありませんでした。

しかし、この作品には、大きな二つの武器があったんです。

それが、「演技」、「映像美」。

まず演技。ドラマと比較すると明白ですが、森山未来長澤まさみの演技が秀逸と言えます。

特に、「助けてください!!」の有名なくだりのセリフを発する前の彼の表情など、見ているだけで感極まるものがありました。

この「演技」の要素というのは、この映画がヒットした大きな要因の一つではないですかね。

また、柴崎コウは勿論の事、大沢たかおは、やはり流石の一言ですよ。緒形直人(ドラマ版)と比較してもずば抜けていますね。


もう一つ、「映像美」。これは、行定勲監督の業ですよね。

ドラマ見たく、ナレーションや音楽などに必要以上に依存せず、映像そのもので観る者を惹き付ける。「GO」を観た時も思いますが、行定監督ならではですね。



内容に関して言えば、律子のエピソード及び、伏線も、観ている人が「あー、そうだったのか!」という形ですっきり解決してくれますし、充分及第点なんですが、

やはり、原作にとってつけたものなので、あれ?と思う部分が少なからずあったのと、律子を廻るエピソードそのものは素晴らしい内容なので、もうちょっと時間掛けて紐解いていっても良かったな〜とも思いつつ。


私の思ったのはこんな所。


でも、演技は本当に上手いな〜と思いました。この二人が今引っ張りだこなのは頷けますね。