怪談・亡霊武者

寝苦しい夜が続くので、趣味で続けているメモから一つ。
福井県福井市には、福井県庁のある旧福井城址の他に、もう一つの城跡、北の庄城址がある。北の庄城とは、織田信長から越前四九万石をまかされた柴田勝家の居城である。勝家はこの地に安土城とならぶ豪壮雄大な城郭を築き、信長の妹で戦国一の美女とうたわれたお市の方を妻に迎え、北陸支配の拠点とした。信長の死後、勝家と羽柴秀吉との間で主導権争いが起こり、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は北の庄城に立て籠もり、お市の方の三人の連れ子(茶々・お初・お江)を落ちのびさせた後、城に火を放ち、お市の方とともに自害して果てた。壮麗な北の庄城も灰燼に帰した。現在は出土した石垣が残るのみである。幕末の頃、名君とうたわれた福井藩主・松平春嶽によって北の庄城本丸跡とされるあたりに勝家・お市夫妻を祀る柴田神社が建立され、現在はその並びに資料館と城址公園がある。
かつては勝家の命日に当たる四月二四日の夜、この北の庄城址旧本丸跡あたりから福井市内を流れる足羽川にかかる九十九橋にかけて、首無し武者の一隊が行進した。亡霊の行列は九十九橋まで行くと引き返す。この行列を見た者は一年以内に死ぬと言い伝えられており、旧福井城下の人々は二四日の夜には外出しなかったという。
別の言い伝えでは、行列は九十九橋から市内に向かうとも、亡霊武者たちは首無し馬にまたがっているとも伝えられる。

行軍する亡霊

敗死した兵士たちは死後も亡霊となってしばしば行軍を繰り返す。
太平洋戦争中、旧日本軍はガダルカナル島で米軍と激しい戦闘を繰り広げた。昭和一七年八月、この攻防戦において一木支隊(旭川第七師団二八連隊)は、敵戦力を見誤って無謀な突撃をおこない全滅したとされる。
ところが、一木支隊の置かれた北海道旭川市では、全滅したはずの一木支隊が帰還した、という話が語り伝えられている。兵舎のあたりで行進する軍靴の音が聞こえる。見ると、大勢の兵隊が隊列を組んで行進してくる。もちろん、生還したのではない。戦死した兵士たちの魂が故郷をめざして帰ってきた、というのだ。
類似の伝説は、学校の怪談としても語られた。例えば、場所は東京都渋谷区の某小学校。まだ宿直の制度があった頃の話である。
深夜になるとどこからともなく大勢の人の足音が聞こえる。ザッ、ザッ、ザッと歩調をそろえて行進しているようだ。宿直当番の教師が懐中電灯を片手に外に出てみると、兵士たちの一隊が行進している。これは、その小学校のそばに、二・二六事件の首謀者たちが処刑された陸軍刑務所があったことから、野望むなしく刑場の露と消えた青年将校たちだろうとささやかれた。
こうした都市伝説が単なるフィクションではないとすれば、ここには興味深い特徴が認められる。第一に、行進はまず足音によって気づかれている。大勢の人が歩調をそろえているような音。子どもではなく、大人の、重い足音。それはあたかも背嚢を背負い、銃や剣を帯び、重い軍靴を履いた兵士たちの足音を連想させただろう。
第二に、だれも兵士たちの顔を識別していない。旭川に現れた一隊が一木支隊だとされたのは、そこが一木支隊の本拠地だったからであり、行進する隊列に見知った誰某の顔があったからではない。渋谷の小学校に現れた一隊も、近くに陸軍刑務所があったから二二六事件と結びつけられただけで、事件に連座して処刑された青年将校の顔を認めたというわけではない。
こうしたことから、これらの怪異体験の核心は聴覚によって聞き取られたなにかだろうという推測ができる。
ここで、福井市内に現れた亡霊武者の伝説に戻ろう。
この行列を見た者が一年以内に死ぬという言い伝えは、見ると一年以内に死ぬということを事実として語ろうとしているのではなく、見てはならない、というタブーを語ったものだと理解できる。見た者は一年以内に死ぬというのは、禁止に説得力を持たせるために付け加えたものだろう。
いずれにせよ、見てはならないとされているうえに見た人が死ぬのであれば、確かな目撃証人はほとんどいないことになる。それならばなぜ旧福井城下の人々はこの怪異を語り伝えたのだろうか?
おそらく、足音のような音が聞こえたのだろう。鎧兜を着けた武者たちの行進を連想させるような重い音が、夜の城下町に響いたのではないか。
そして、足音の主を顔も見ずに(たとえ見ても首がない!)柴田勝家とその家臣としたのは、亡霊の行進の、そのスタートなのかゴールなのかはわからないが、行軍ルートに必ず九十九橋が含まれているからだろう。この九十九橋柴田勝家によって天正六年に架けられた。
柴田勝家といえば、テレビドラマなどでは渋めの中堅俳優がキャスティングされ、武骨な猛将というイメージで演出されることが多いが、史料からは意外な側面が読み取れる。現在の福井市街の基礎となる城下町を整備したほか、秀吉が行ったとされる検地も刀狩りも、すでに勝家が越前国で先駆的に実施していた政策だった。つまり柴田勝家は、領国経営に気を配った政治家タイプの領主だったのである。亡霊たちが現れる九十九橋も、そうした為政者・勝家の残した業績のひとつである。
福井市街は九頭竜川足羽川にはさまれており、古来、この地域の為政者にとって治水は重要課題だった。城下町の南側を流れる足羽川に橋を架けることは、当時としては大事業だったが、畿内方面への交通の利便を拡大するうえで重要なことだったろう。地元の人々は橋の完成によって大いに恩恵を受けたに違いない。勝家と家臣たちにとっても九十九橋は北陸統治の輝かしいシンボルだったはずだ。
だから、姿を見てはならない足音が、九十九橋へ向かう、あるいは九十九橋から来るのであれば、それは柴田勝家にゆかりのあるものに相違ない、と考えられたのではないか。
では、本当にそれは勝家とその家臣の亡霊であったのか、というと、断言はできない。
古来、橋は異界と現世を結ぶ通路ともみなされてきた。橋の向こうから得体のしれない何者かがやってくるとしたら、それは異界からの使者であった。