そろそろ寒中見舞いの準備をしないと。2013年の年賀はどんなデザインにしたかデータをごそごそあさってみたよ。


ここ数年は可愛らしい系のものを送りつけていたのだけど、これがえらく手間がかかるのだ。何せ色を変えて、ずれないように重ねて押しての繰り返し。50枚近く送っても半分しか返ってこないし、何かの苦行みたい。


気心の知れた友人には萌え系を。さすがに「直はやめてくれ」と言われたので、封筒に入れて送ったけど、その封筒にも遊び心をば。女の子がこういうことすると「あざとい」なんて言われそうだけど、ボク男の子だもんね!

もうやる気がないので、今年はあんまり力が入らないのです。

一昨年の日記を見返してたら、初めてパブに行った日の日記が異様に浮かれていたので戒めまでに。

昨晩から水につけておいた万年筆にインクを充填。コンバーター式は面倒なのだが、かえって愛着が湧くというもの。おかげで指が真っ青になってしまったが。「こころ」の一文を拝借し、試し書きなど。お世辞にもきれいな字だとは思わないけど、二十数年この字体を紡ぎだしてきたことへの安心感のようなものを感じたり。これも自惚れなのかな。

図書館に本を返しに行って、文房具屋さんに立ち寄る予定。寒中見舞いの画材に不足があれば買い足してくるつもりなのだけど、年明け前に用意しておいた画材が見つからない。

早く出てきてくれぃ!(CV:野沢那智

ただいま

続きが気になる本の新刊が出ているようだけど...

もう外には行きません。頭がくらくらするんです。薬を飲みたいんです。早く部屋着に着替えて楽になりたいんです。冷たいお茶を飲みたいんです。買ってきたお団子を食べたいんです。読みたい本がたくさんあるんです。ちまちま寒中見舞いを作らなきゃいけないんです。

て、ことでまた今度ね。

おやつ

お昼を食べていないのに、かすかな腹痛。

各停をすんでのとこで見送る羽目になって、しょうがないので駅ビルの食品売り場をうろうろ。和菓子屋さんのいきなり団子なるものに目が留まり買ってきた。

はぐはぐ、もちもち、うまぁ! リピート確定。

柳田益造/楽器の科学

楽器の科学 図解でわかる楽器のしくみと音のだし方 (サイエンス・アイ新書)

楽器の科学 図解でわかる楽器のしくみと音のだし方 (サイエンス・アイ新書)

一般教養で音楽の歴史の授業があって、そのレポートの参考にするために図書館から借りてきた(もう返しちゃったけど)。使うところだけしか読んでいないけど、読み物としてなかなか面白かった。気が向いたときに本棚に加えたいな。

高坂原論11

■煉獄について

煉獄、である。見方によっては「本厚木駅東口」のように思えなくもないが、それは錯覚であって、断固間違いである。

煉獄と聞くとおどろおどろしいイメージがあるが、実際は無機質な地下道のようなものだと思う。それこそ、真夜中の新宿駅の地下通路よろしく、人っ子一人見当たらないところを審問が行われる場所まで歩いていくのだ。自分の生における行為の是非を自問自答しながら。思考を集中させるために、無機質な場所を慫慂するのだ。座ってぼんやりとしているときよりも、歩いているときのほうが案外考え事には向いている。

神様は全てお見通しだから、考えているふりをした時点で地獄行き。自分に少しでも甘い判断を下しても地獄行き。煉獄での取り組みが審問の結果をすでに決めているのだ。

ボクはさらさら天国にいけるとは思っていないし、むしろ自分がいかに卑屈で価値を持たない人間であるか審問で雄弁に語るだろう。最期くらいは、自分に素直になるべきだと、ボクは思う。


今日借りてきた本。一般教養のレポートに使う本だけじゃつまらないでしょ? さすがに気になったBLもののラノベは借りませんでしたが。

手持ちの「ログホラ」を読もうか、借りてきた「のはなし」を読もうか迷った末に、ちょっとだけ「のはなし」を読む。

のっけから伊集院光らしさが出ていて、にやにやがとまらない。

高坂原論12

■幸せについて

 断片的にだけど、幸せの根源と時間という概念が結びついているのではないかと思った。

美味しいものを食べる→幸せ
心地よい音楽を聴く→幸せ
お気に入りの本を読む→幸せ
好きな人の隣にいる→幸せ

 とどのつまり、「幸せ」と思わせる根源的な何かは時間的な概念を有していて、ボクらはそれを手に入れられている間、「幸せ」だと思っているに過ぎないのだ。食事も、音楽も、本も、好きな人もいずれは無くなってしまう(もしくは新鮮味が薄れてしまう)。もちろん、日常のありがたさを否定するものではないが。

 寺山修司の本に「幸せとは『幸せとは何か』ということについて考えることである」といった一節(さっき確認したのだが、見つけられなかった)はまさしく的を得ているように思う。「幸せ」の探求もやはり時間的な概念に含まれる。

 ボクが疑問に思うのは、生という有限性の中に果たして真なる幸福が存在するか、という点である。ボクが「幸せ」についてあれこれ考えて、ある一定の結論に至ったとしても、それはボクの身体的(あるいは精神的)な消滅によってもろとも消えさってしまう。もっとも一部の文豪なり哲学家のように作品として残すことは可能であるが。ボクの存在が有限である限り、「生=幸せ」とする世の中の思い込みは簡単に論破できる。「いつか訪れる死を免れないならば、それは本当の幸せとは言えないじゃないですか」、と。

 ただし、人間にとって幸せが本物か偽者かどうかはあまり重要ではないのかもしれない。要は、自分が幸せであると思い込みさえすれば良いのだ。気の合う友人と杯を交わし、下らない話で盛り上がる。徐々に気が大きくなり、思考のギアが前向きに入れられ、全てが上手くいくような予感は実に心地よい。
 9月の末にODをして親がすっ飛んできたのだが、かくかくしかじかあって、完全に薬が抜け切っていない状態で洒落た飲み屋に入った際、ボクは「いかに自殺が素晴らしいか」について滔々と語ったらしい。薬とお酒でまったく覚えていないのだが、それくらい興奮した状態になって初めて自殺の実行可能性が出てくるのだと思う。平素は理性の保安装置がかなり強力にそれを阻害するのだ。
 こほん、話が逸れた。さて、二日酔いにならない限り(あれは生き地獄だと思う)、時間が経つにつれてアルコールが分解され、現実へと連れ戻される。時間が支配するこの世界は残酷で無慈悲すぎる。

 時間という概念を超越したところに、真なる幸福が無限に広がっている。時の見えぬ壁に囲まれた中でボクはどうにか抜け出せないものかと、密かに画策しているのだ。

今の季節、電車でダウンジャケットを着ている人が隣り合わせるとものっそい不機嫌になるのです。

自分がぬくぬくしたいがために、隣のやつに圧迫感を与えるもっこもこ野郎めが!

なんて毒づいていたわけですが。服屋さんの半額セールが今日までで、物は試しにとダウンジャケットを羽織ってみたら......

何これ!ものっそく軽い!んでもってすんごくぬくぬく!(*゜∀゜)=3!!

結局お買い上げ。でも、今まで敵視してきた経緯があるから電車に乗るときはちょっと着れないなぁ。空いていれば問題ないのだけど。逆に地元に戻ったときなんかは車でふらふら出歩くから重宝するのでしょうが。

ここ最近、おなかの調子が思わしくなく、おなかが空いたこともあって家で培養しているカスピ海ヨーグルトを食べようと冷蔵庫を開ける。

ヨーグルトの表面に深緑とピンクの斑点を確認。なんたるちぃやorz