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柳田益造/楽器の科学
楽器の科学 図解でわかる楽器のしくみと音のだし方 (サイエンス・アイ新書)
- 作者: 柳田益造,足立整治,高野佐代子,菊田浩,徳弘一路,西口磯春,若槻尚斗,山田真司,小坂直敏
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2013/04/16
- メディア: 新書
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一般教養で音楽の歴史の授業があって、そのレポートの参考にするために図書館から借りてきた(もう返しちゃったけど)。使うところだけしか読んでいないけど、読み物としてなかなか面白かった。気が向いたときに本棚に加えたいな。
高坂原論11
■煉獄について
煉獄、である。見方によっては「本厚木駅東口」のように思えなくもないが、それは錯覚であって、断固間違いである。
煉獄と聞くとおどろおどろしいイメージがあるが、実際は無機質な地下道のようなものだと思う。それこそ、真夜中の新宿駅の地下通路よろしく、人っ子一人見当たらないところを審問が行われる場所まで歩いていくのだ。自分の生における行為の是非を自問自答しながら。思考を集中させるために、無機質な場所を慫慂するのだ。座ってぼんやりとしているときよりも、歩いているときのほうが案外考え事には向いている。
神様は全てお見通しだから、考えているふりをした時点で地獄行き。自分に少しでも甘い判断を下しても地獄行き。煉獄での取り組みが審問の結果をすでに決めているのだ。
ボクはさらさら天国にいけるとは思っていないし、むしろ自分がいかに卑屈で価値を持たない人間であるか審問で雄弁に語るだろう。最期くらいは、自分に素直になるべきだと、ボクは思う。
高坂原論12
■幸せについて
断片的にだけど、幸せの根源と時間という概念が結びついているのではないかと思った。
美味しいものを食べる→幸せ
心地よい音楽を聴く→幸せ
お気に入りの本を読む→幸せ
好きな人の隣にいる→幸せ
とどのつまり、「幸せ」と思わせる根源的な何かは時間的な概念を有していて、ボクらはそれを手に入れられている間、「幸せ」だと思っているに過ぎないのだ。食事も、音楽も、本も、好きな人もいずれは無くなってしまう(もしくは新鮮味が薄れてしまう)。もちろん、日常のありがたさを否定するものではないが。
寺山修司の本に「幸せとは『幸せとは何か』ということについて考えることである」といった一節(さっき確認したのだが、見つけられなかった)はまさしく的を得ているように思う。「幸せ」の探求もやはり時間的な概念に含まれる。
ボクが疑問に思うのは、生という有限性の中に果たして真なる幸福が存在するか、という点である。ボクが「幸せ」についてあれこれ考えて、ある一定の結論に至ったとしても、それはボクの身体的(あるいは精神的)な消滅によってもろとも消えさってしまう。もっとも一部の文豪なり哲学家のように作品として残すことは可能であるが。ボクの存在が有限である限り、「生=幸せ」とする世の中の思い込みは簡単に論破できる。「いつか訪れる死を免れないならば、それは本当の幸せとは言えないじゃないですか」、と。
ただし、人間にとって幸せが本物か偽者かどうかはあまり重要ではないのかもしれない。要は、自分が幸せであると思い込みさえすれば良いのだ。気の合う友人と杯を交わし、下らない話で盛り上がる。徐々に気が大きくなり、思考のギアが前向きに入れられ、全てが上手くいくような予感は実に心地よい。
9月の末にODをして親がすっ飛んできたのだが、かくかくしかじかあって、完全に薬が抜け切っていない状態で洒落た飲み屋に入った際、ボクは「いかに自殺が素晴らしいか」について滔々と語ったらしい。薬とお酒でまったく覚えていないのだが、それくらい興奮した状態になって初めて自殺の実行可能性が出てくるのだと思う。平素は理性の保安装置がかなり強力にそれを阻害するのだ。
こほん、話が逸れた。さて、二日酔いにならない限り(あれは生き地獄だと思う)、時間が経つにつれてアルコールが分解され、現実へと連れ戻される。時間が支配するこの世界は残酷で無慈悲すぎる。
時間という概念を超越したところに、真なる幸福が無限に広がっている。時の見えぬ壁に囲まれた中でボクはどうにか抜け出せないものかと、密かに画策しているのだ。