モミジのドラマ



 前任校(仙台一高)に通っていた頃、仙石線榴ヶ岡駅で電車を降りて、南へと歩いていくと、新寺小路との交差点の所に、正雲寺というお寺があった。このお寺の裏手に、とても立派なモミジの木があって、今の時期、私は毎朝、その木を見るのを楽しみにしていた。

 木のてっぺんから赤く色づき始め、それが下へと下りてくる。見事なグラデーションだ。そして遂に葉全体が赤くなった頃は、正に燃えるような鮮やかな赤。それがだんだんくすんだ色に変化し、落ち始め、最後に裸の木になる。確か2週間ほどかかるこの一部始終は、正にドラマ。まるで人間の一生を再現してるかのようで、マイヤ・プリセツカヤ演じる「瀕死の白鳥」を思い起こさせる。正雲寺のモミジは名木だ、との思いを強く抱いていた。(4年くらい前に枝が大胆に切られ、現在はその価値を減じているが、やがて復活するであろう)

 ところが、恥ずかしながら、最近になって私は、モミジというのはどの木でもほとんど同様のドラマを演じるのだ、ということに気が付いた。勤務先が近くなって、明るいうちにいろいろな木を見る機会が増えたからかも知れない。石巻北高にある、わずか2mあまりの小木でさえ同様なのである。

 紅葉(こうよう)のニュースというのは、完全に色づいた時だけを取り上げる。しかし、少なくともモミジという木は、色づき始めてから裸になるまでの一連のドラマにこそ価値がある。人生が盛りにのみ価値があるわけではないのと、やはり同様である。