Struggles of the Empire 第1章 伝説の終焉(5)

 人々が去り、病室にラインハルトとふたりだけ残されたヒルダは、明け方近くまでその傍らに寄り添っていた。そして思いを断つようにして、ラインハルトに最後の接吻をした後、立ち上がって宮内省が手配して待機していた遺体保存処理業者たちを室内に招じ入れた。ヒルダはそのまま部屋を去り、もはや夫の方を振り向きもしなかった。
 寝室に設置されているタンクベッドで一時間半の休息をとると、自身の書斎に入り、そこに回されていた喫緊の書類、その中にはヒルダ自身を摂政職に任じる書類もあったが、それらにざっと目を通して、署名を行い、当番の秘書に内閣に回すよう指示をした。
 それから憲兵本部と軍務省、および内務省に連絡をして当座の状況の報告を聞き、幾つかの指示を出した。既に朝になり、朝食の準備が出来たことを執事長から告げられたが、コーヒー一杯のみを所望して、近日中に早急に立て直さなければならない軍部の人事構想案の大枠を決めた。
「10時に、私の居間に、皇帝陛下とグリューネワルト大公妃殿下、国務尚書とヴェストパーレ男爵夫人に集まってくださるよう、ご伝達お願いいたします。重要事ですので、必ずいらっしゃるようにとお伝えください」
 10時5分前まで同室にてヒルダは書類仕事をこなした後、居間に向かった。今にはすでに上記の面々が揃っており、アンネローゼに抱かれた皇帝アレクサンデル・ジークフリードは母の姿を幼いながら認めると、笑顔になってその小さな腕を伸ばした。
「お呼び立てして申し訳ありません」
 ヒルダは皇帝をアンネローゼから受け取り、自ら抱きながら着座した。
「皇太后陛下、どうやら家族会議のようですけれど、私がお邪魔してもよろしいのかしら」
 ヴェストパーレ男爵夫人は言った。彼女は友人のアンネローゼがオーディーンを立ち、フェザーンに向かった半月後に自らもフェザーンに赴き、多事多難な日々を送っていたアンネローゼとヒルダを支えていた。柊館炎上事件の後、仮皇宮がヴェルテーゼに移されてからは、一室を与えられ、皇帝一家に近侍していた。
「おっしゃるとおり家族会議で私的な場所ですから、私のことはどうぞむかしのままにヒルダと呼んでください。あなたさまは私の母の親友で、アンネローゼ様の親友でもいらっしゃる。私にとっても父にとっても、アンネローゼ様にとっても、亡きラインハルト様にとっても、家族同然のお方です。どうぞこの場にいらっしゃってください」
 そう言った後、ヒルダは父の方へ向かって、言葉を続けた。
「国務尚書に申し上げます。14時からこちらで閣議を開きたいと思います。尚書たちを招集させてください。それをもって、私、摂政皇太后の執務の開始としたいと思います」
「分かりました。秘書にそのように手配をさせてよろしいですかな」
 ヒルダが頷くと、マリーンドルフ伯爵は遠くに距離を置いて立っていた侍従の一人を手招きして呼び、別室に待機している秘書を呼ぶように言った。秘書に伝達すると、秘書は頷き、早速手配すべく、退出した。
「さて、こうしてお集まりいただいたのはローエングラム家のことです。名目的にはアレクがローエングラム家の当主ではありますが、実際には亡き陛下の妻たる私がその任にあたらせていただきます。ローエングラム家の係累と言えば、今ここにいらっしゃる皆様方がすべてです。私は、摂政皇太后として、今後、政務にあたらなければなりません。ローエングラム家内のことはどうしても後回しになるでしょう。このような時だからこそ後顧の憂いなく事にあたるために、家長として申し上げておくべきことがあると思った次第です」
「承りましょう、ヒルダさん」
 アンネローゼは澄み切った翠眼で、ヒルダを見つめた。
「まずはお父様に申し上げます。お父様はかねてより国務尚書職を退任したい旨、先帝陛下に内々に申し上げられていたとか」
「うむ。やはり皇妃の父が国務尚書というのでは、公私混同の弊害も生じるだろう。亡きオーベルシュタイン元帥の言ではないが、外戚がいたずらに権を振るうのも、むろん私自身はそのようなことがないよう留意したとしても、将来の例となることを考えれば、帝国のためにはあまりよろしくないと思うのだよ」
「お父様らしい、先を見据えたお考えかと存じますが、当時と今では状況は変りました。帝国の最高権力は私に委ねられることになりました。軍人でもなく、自ら王朝を興したわけでもない私がただ先帝陛下の妻であるというだけで、このような立場に立つことになりました。文官も軍人も私を敬してはくれますが、それは私がラインハルト様の妻だからです。私自身が抜擢して、任に付けてきた方々ではありません。そういう状況の中で、権力を適切に、誤りなく行使するためには内閣の首座に絶対に信頼のおける人物が必要です。ただ信頼できるだけでは十分ではありません。私の思考や性格を理解したうえで、欠点を補い、諌め、なおかつ私の考えを適切な形で実際化してくださる方が絶対に必要です。そのような方はお父様しかいらっしゃいません。娘としてはお父様にはこの際、アレクを傍らにおいて悠々自適の日々を送って欲しいとは思うのですが、摂政皇太后としては辞意を受け入れるわけには参りません」
 その言葉に、しばらくマリーンドルフ伯は考え込んだ。この際、自分の欲求は横に置いたうえで、このまま内閣の首座に自分がいるのがいいのかどうかを考えたのだろう、口を開いてマリーンドルフ伯は、
「分かった」
 と言った。
「正直、私は政界において首座に立つような望みは最初からなかった。先帝陛下には過分なご厚情をいただいて地位を得たが、この際、隠遁したいという希望はある。しかしおまえの言うとおり、今の状況では、当面は私が席に居座り続けなければ収まりがつかないだろう。ただし、5年も10年もそのようであってはいけないよ。停滞はそれ自体が多くの問題を生む。適当な時期に若い世代の中から人材を見出して、後任とするように。それもまた、指導者たるおまえの務めだよ」
「はい、そのようにしたいと思います。他の尚書たちも当面は留任していただきますが、2年か3年間隔で、区切りがつき次第、必要に応じて入れ替えていくつもりです」
 ヒルダはそう言うと、アンネローゼの方を向いた。
「次はアンネローゼ様にお伺いします」
「はい、なんなりと」
「まず今後のお住まいの話からです。アンネローゼ様はオーディーンの邸宅を引き払ったわけではなく、そもそも先帝陛下と私の結婚式にご出席いただくためにフェザーンにご逗留いただいていらっしゃいます。その後、柊館炎上事件、私の出産、ロイエンタール提督の叛乱、そして先帝陛下のご親征とご病気、崩御と事が続いたために、ご逗留を延期していただいていますが、このままフェザーンにとどまっていただくご意思はおありなのでしょうか」
「はい。あなたさえよろしければそうするつもりです」
「ぜひそうしていただきたいと思います。ただ、先帝陛下の御世にはあれほど陛下と距離を置かれることを望まれたのに、私のために無理に世俗の乱れに御身を任せてしまうのではないかと、それだけが気にかかっています」
「ラインハルトは、弟は、突き詰めれば私のために覇業を選んだのです。本当にそもそもの目的はそれだけでした。けれども、その道を進むと言うことは、もちろん結果的に帝国の統治者となり、多くの無数の人々の運命を背負うということでもあったのです。その自覚が足りないと、あの頃の私はそう考えていました。私のことには構わず、弟には統治者として正しい道を進んで欲しかったのです。それが私の望みであり、実を申せば、皇帝フリードリヒ4世陛下の望みでもありました」
「フリードリヒ4世陛下が、ですか?」
「はい。弟にとっては私を権力で以て奪った憎い相手だったでしょうが、陛下はそのような単純に悪逆の権力者ではいらっしゃいませんでした。寵妃となったことはそもそもから言えば、私としても不本意ではありましたが、不幸では決してありませんでした。お優しく、物の道理が分かった方でしたから。このようなことを話してもラインハルトを傷つけるばかりで決して理解はされなかったでしょう。ラインハルトが覇者となれたのは当人の才覚と努力、周囲の人々の助力もあってのことですが、フリードリヒ4世陛下が陰ながらお守りくださったからです。そうでなければとうに潰されていたでしょう。陛下も帝国の閉塞した状況はご承知で、けれども皇室に身を置く方なればこそ、断ちがたいしがらみもあります。皇帝とは世人が思うほど自由気ままではいられないのです。フリードリヒ4世は帝国を変革し、国民を救済できる可能性をラインハルトの中に見出したのだと思います。敢えて、自らの一族を裏切ってでも、ラインハルトに賭けた人がいると言うことを、ラインハルトは知らずとも、その期待に応えるべきだと私は思いました」<<次頁に続く>>