吉田一穂と三上さん

三上さんが『シュッポロ』絡みで口にする詩人の吉田一穂(よしだいっすい)って誰だっけ、どんな詩人だっけ。うろ覚えでほったらかしていた疑問である。日本の文学史に残る大物だけど読んだことがない。昨晩、情報をひもといたら、そうか、あの詩の作者! 僕の文学に関する知識はその程度だ。

ああ麗はしい距離(ディスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景……
(吉田一穂『母』より)

それで思い出した。おそらく高校生の頃、詩集を開いても、万華鏡のように光り、散乱する言葉の輝きに、その当時の僕の心が十分にはついていけなかった詩人。人生においてタイミングというものが重要だとすれば、吉田一穂と僕は悪い方のタイミングで出会ったらしい。もう少し大人であったなら、文学の楽しさにより親しんだ後であったなら、一穂の詩はまったく違った印象を僕に残したかもしれない。

そして、これは三上さんに指摘されて気がついた。吉田秀和に『吉田一穂のこと』という優れたエッセイがあるではないか。何度も読んだはずなのに、『ソロモンの歌』に収められたエッセイをあらためてひもとき、はじめてあの詩の人物と、シュッポロの登場人物と、吉田秀和の珠玉のエッセイの人物、3つの画像が重なり合った。なんという無知蒙昧。なんという呑気さ。

吉田秀和のエッセイは、成城高校の生徒だった頃に吉田一穂の自宅に遊びに通っていた思い出を下敷きにした文章である。『ソロモンの歌』は音楽に興味がない方にもお奨めしたい吉田さんのすぐれたエッセイ集。そのなかで吉田さんは書く。

一つ、また一つと「人間的なあまりに人間的な」衣装(意匠)をぬぎすて、削りとってきた「詩人」は、ついに近代詩の系譜をつきぬけ、青春の感性を遡り、自分の生命の根元につき当たる。それはまた、詩人だけでなく、「生命」そのものの根元にほかならない。それが「詩」なのだ。

長い引用は作者にとっても自分にとってもあまりよいことではないと思うが、この『吉田一穂のこと』の最後の部分を「シュッポロ」と三上さんへのエール代わりに紹介したい。

私は、高校に入る前の学校時代の四年あまりを北海道の小樽市ですごした。あの凍りついた雪の上を踏む靴の感触、雪の白さ、風の非情な冷たさ、それから雪解けの早春の波と空と遠く見える海岸の淡い緑のイメージなどは、いまも、私の中から消えていない。だが、それが私にとってどういう意味があるかということ、それを思うことは、私には、吉田一穂さんと切り離すことのできないものになっている。
根元を問うこと。本質だけを追及すること。そういうことは、私には、ちょうど粉雪の頬をさらし、白く眩しい雪の原をゆくのと同じように、快い戦慄にみちた営みと感じられる。この感覚は、吉田一穂さんによって自覚されたものである。
冷たさが、生命を守る。暖かさの働きは別のところにある。と同時に、結局、私たちが還ってゆくのは、暖かさではなくて、むしろ冷たさへであろう。
今でも私は、雪の中を行く時とか、ふとしたはずみで自分が北に向って立っているのに気づく時、しばしば、一穂さんを想う。
吉田秀和『吉田一穂のこと』)

言うまでもないことだが、つまり吉田秀和さんにとっての吉田一穂の役割を、ブログや「シュッポロ」を通じて三上さんは我々に向けて果たしてくれているわけだ。


■いざ北へ2008その4 一穗(いっすい)も招くよ(『三上のブログ』2008年6月19日)
■熱いハートにクールな頭(『三上のブログ』2008年7月11日)


ソロモンの歌・一本の木 (講談社文芸文庫)

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