【「近代日本」を診る 思想家の言葉】
《石川啄木 100年前の「時代閉塞」の現代性》
東日本国際大教授・先崎彰容
- 象徴的、としか言いようのない年号がある。時代の大きな転換点を指し示す年がある。昭和20年8月15日はその典型で、つい最近も「戦後70年」がテレビや新聞紙上をにぎわしたばかりだ。
- だがここで取りあげたいのは、明治43年のことだ。この年を重視するのは、韓国併合が起きたからでも大逆事件が起きたからでもない。柳田国男が『遠野物語』を発表し夏目漱石が『門』を書き始め、なにより今回の主人公・石川啄木が『時代閉塞(へいそく)の現状』を書いた年だからである。
- 啄木と聞けば、教科書で一度はみた歌人として有名だろう。たとえば、啄木の名を後世に残すことになる歌集『一握(いちあく)の砂』にこうある。
何がなしに
頭のなかに崖ありて
日毎(ひごと)に土のくづるるごとし
- 何かが崩れかけていた。開国いらい近代化に邁進(まいしん)してきた日本に、閉塞感が漂ってきたのだ。確かに日清日露の戦勝に日本国中は沸きかえった。だがその喧騒(けんそう)も過ぎ去った明治末期、社会のどこを見回しても、生き生きとした若者を見いだせないことに、啄木は気がつく。岩手から上京して目にした大都会東京には、産業社会が生まれていた。都会と地方の格差はますます広がり、地方で食い詰めて出てきた東京も、決して住みよい街とは言えない。
- 啄木の歌が人びとを惹(ひ)きつけ後世に残ったのは、当時のこうした気分を、分かりやすい言葉で一つひとつ拾い上げたからだ。度重なる家族の不幸と生活苦、その度に転居をくり返すなかで、自分の気持ちをうたうことが、結果的に明治末期の人びとの心を代弁することになったのだ。
- そして啄木は歌と同じくらい多くの評論を書いた。その代表作が1910年の『時代閉塞の現状』だったわけだ。「今猶(なほ)理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失つた状態に於(おい)て、長い間鬱積して来た其(それ)自身の力を独りで持余してゐるのである…さうしてこれは実に『時代閉塞』の結果なのである」
- 今からおよそ100年前、すでにこのような時代診察を啄木は行っていた。若者論がもてはやされている今、どれくらいの人が彼の言葉を知っているだろうか。
(2015-09-24 産経ニュース)
────────────────────────────────────