〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑨ きょうだい)

[ひな祭り]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑨ きょうだい
  感情さらけ出せた妹

  • 啄木には2人の姉と1人の妹がいた。中でも2歳下の妹光子(戸籍名ミツ)とは年が近いこともあり、関わりが深い。光子は子どものころ、暴君のように振る舞う兄啄木にいじめられ「正直のところ、いばりちらす兄が嫌いであった」と振り返っている。啄木は光子について「自分によく似た性格」と言った。それ故に、ぶつかり合うこともあった。
  • 1909(明治42)年、東京の啄木の元へ光子から手紙が来た日の日記には「予と共に、渋民を忘れ得ぬものがどこにあるか?広い世界に光子一人だ!今夜、予は妹―哀れなる妹を思うの情に堪えぬ。会いたい!会って兄らしい口を利いてやりたい!と思いを吐き出している。
  • 「船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば」。「一握の砂」のこの歌は1907年、啄木が妹光子を連れて函館に渡ったときのことを詠んでいる。「―ああ!予がたった一人の妹に対して、兄らしいことをしたのは、おそらく、その時だけなのだ!」と書いている。
  • 10歳年上の長姉田村サタは、啄木と後の妻節子にとって、なくてはならない人だった。啄木の恋を応援し、二人の結婚に反対する母を説得、節子の父にも掛け合った。母のような愛情で見守り、啄木が「真実の親しみをもっていた」姉は1906年、5人の子どもを残し肺結核のために亡くなった。
  • 啄木が光子に宛てた手紙で「馬鹿者だ」と書かれたのは次姉山本トラ。転勤で各地を転々とする姉夫婦を啄木は何度も訪ね、金銭的にも援助を受けた。しかし、借金がうまくいかないと、トラへのいら立ちを見せた。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-03-02 岩手日報

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