今日はむりぽんさんが来てくださった。自分よりうまい人が来ると自分がうまくなるからよいね。フェイント練やシート練の密度がいつもより高くなってよかったよかった。審判の指導をしてくださったが、今日来なかった人もいるので、今日学んだことを忘れずに伝えないとなと思いました。フェイントは奥ムリ。できなし、とれない(><)。あと、ブロッカーの横もムリ。でもそれ以外は全てとれる気がする。実際、古賀っちと俺でレシーブしてたときはほぼ全部とれたしな。つっても、奥はやっぱりとれないわけで、しかも、奥にやられたときの致死率が限りなく100%に近いわけなんでなんとかせんとなーと思います。今日はスパイク練をしなかったのでブロックが出来なかったので次しようと思った。は!わかったぞ!ポジショニングが前すぎなのかもしれん。俺は反射神経はかなりよいから、そこを信じて前にはかなりすばやく対応できるとするならもっともっと後ろに構えてもいいかもしれん。でも、チュドーンて感じのはとれなくなるよなー。うーんうーんわかんねー。

正義

反論します(ケンカをうっているわけではない)

正義は確実に存在する、と思っています。「人を殺したらダメ」の論理的な理由は、その議題だけで本になるくらいに難しくて、俺にはわかりません。ただし、論理的理由がないともあるとも分からないので、ないと断定することはできません。俺はそれを「本能的(生得的)なタブー」だと思っています。確かに自分がされてイヤなことは人にしてはならないというキリスト教的前提を立てるなら、このタブーは、○○したい、○○されたくない、というエゴから生まれたものと言えるでしょう。しかし、生得的という単語を使っている所以は、前提を立てる前段階ですでに善悪を知っているのでは、とう点にあるのです。つまり、殺人はいかんという倫理は、この世に生を受けた日から備わってるんじゃないかってことです。エゴに起因するのではなく、先天的に知っている可能性は否定できません。事実、言語を操らない動物にも殺しはいかんという不文律は存在しますが、果たしてその動物が「殺されたくないから殺しはいかんのだ」と思っているのか疑問が大きいですよね。
「『殺したい』というエゴの持ち主よりも、『殺されたくない』というエゴの持ち主が多い→『人を殺したらダメ』というルールが自然に出来上がった」というのは確かに論理的に当然の帰結ですが、逆は真とは限りません。つまり、「『人を殺したらダメ』というルールが自然に出来上がった」からといって、それがエゴに起因するとは言えません
また、倫理の問題を解けるかどうかに科学的であるかどうかは関係ないと思いますが、仮に「科学的でない説は倫理を解くのにふさわしくない」という主張を受け入れたとしても、人に「人を殺したらダメ」という本能がそなわっているという説は排他されません。何故なら「同種を殺してもよい」種と「同種を殺してはいけない」種では後者の方が生存可能性が当然高いから、科学的にも後者が増えて当然でしょう。
たしかに、全人類に対して普遍的で固定化された正義は存在しないとは思います。理論的には可能でも、現実的には無理でしょうし、実際未だ達成されたことはありません。この現実を踏まえると、全員一致の正義を考えるのはナンセンスだといわざる負えません。また、それが現不可能だからと言って正義そのものを否定することも、生産的な議論とは言えません。
しかし、社会一般において「正しい」と思われていることは確かに存在します。キリスト教にはキリスト教の、仏教には仏教の、「かくあるべき」という考えがあります。その考えを多人数でシェアしていることに正義の価値があると思います。その考えを自分をそして社会を律するものとして「正義」と呼ぶのではないでしょうか。英国は慣習法ですが、明文化されていないが存在する憲法というものはまさに、脈々と受け継がれてきた「正義」なのではないでしょうか。
正義という言葉には「自分の正義」という使い方以外存在しないという風に思われるのは、正義が唯一無二ではないからだと思いますが、しかしだからといって、そこから正義は個人単位に細分化されるという演繹には納得できないし、従ってそれがエゴでしかないという結論にはもっと納得がいきません。正義の多様性を自覚しながらも他人に「自分の正義」を語りかけるのは、真にその人のことを思ってのことであると思います。また、信じるものなく行動することは葦たる自分には出来ませんし、美しくないなどとは、決して思いません
以上をまとめると、「正義」とは要は「善悪のものさし(=判断の基準)」の大きな目盛りであると思います。ものさしは個人個人で微妙に違うでしょうが、ほとんどの人が一致する目盛りというのは現実的に確かに存在するわけで、それが「正義」だと思うんですよね。「イジメはダメだとか」「お年寄りは敬え」とか、そういった「かくあるべき」という目盛りは、その行為を実行するか否かは別として、主に教育によってですが一律にものさしに刻まれてると思うんですよね。イジメについて、イジメられる奴が悪いという主張は聞いたことがありますが、イジメそのものを肯定した主張は聞いたことがありません。「イジメ=悪」という倫理観はほぼ全員一致の観念であって、だから「イジメはしちゃだめだ」っていう風にイジメを抑止する力が「正義」なんじゃないでしょうか。本を読んだり、先輩の話を聞くなどして、善悪のメモリを打っていく。そのとき、個人的で周りと相容れない目盛りも確かにあるでしょうが、社会一般にシェアされている目盛りもあるはずです。そして、自分で目盛りを打たずとも、ものさしを手に入れたときから、打ってある目盛りがあって、それが「人を殺してはいけない」などの生得的な正義なのではないか、と考えるわけです。