ジェイムズ・バカン『真説 アダム・スミス――その生涯と思想をたどる』

 この原書は1,2年前に読んだ。マンキューブログで取り上げられてたので関心もったんだけど、「真説」というほどのものも感じなかったし、まあ、手軽に読めるアダム・スミスの概説程度の感想しかなかった。それはそれで悪いことじゃない。いまはアダム・スミスの伝記でも気軽に読めるのは限られている。アダム・スミスの研究者たちはどう評価するのかわからないけど。アダム・スミス研究はそれこそ猛烈な勢いで進化してて、堂目さんの研究でも触れられているように行動経済学的なものや、あるいは市場の形成みたいな話(ある種の開発経済学や市場の不完全性をめぐるもの)としてスミスを再解釈する方がいまや「真説」ぽいのかもしれない。とりあえず学生用に図書館に購入してもらう。

真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる

真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる

栗原裕一郎「『ゼロ年代の想像力』に掲げる「決断主義」は果たして「ニヒリズム」なのか」

 カラスさんに過疎ブログの方で教えていただく。『大航海』を買ったのはたぶんこれで二回目で、前回は10年くらい前、しかもこれがよくみたら「終刊号」か。

 栗原さんの論説は、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』への厳しい批判である。詳細はぜひ読まれた方がいい。

 (略)宇野のいう決断主義は要するに能動的ニヒリズムだったわけだが、それに対する処方箋は、実存を賭けた「小さい物語」同士のバトルロワイヤルの彼岸とかそんなものではなく、政治経済レベルでこのたびの不況ならびに金融危機が回避されるか否かという水準で議論されるべきことだ。八〇年代並みの成長率が取り戻されればそれで解消してしまう程度の「ニヒリズム」にすぎないのだから(それが果たして「ニヒリズム」と呼べるべきかとうのはさておき)。

 栗原さんも指摘されているように、宇野氏が昔から繰り返して使い古されている認識をそのままベタに利用しているのにもかかわらず、そういったベタな利用を「新しい=ゼロ年代想像力」と主張していることが、僕にも大きく疑問に思えたところだ。もっと簡単にいうと、現状認識が単にそこらにごろごろころがってるシナリオ(グローバル化での構造的変化だとかそんなもの*1)に乗っかっているだけ。シナリオがダメなのに、「この細部=さまざまなサブカル、オタクネタは面白いでしょ?」ととくいげに羅列されても、そこには何か決定的に、著者の思想的な鈍感さを感じてしまったわけである。思想的な鈍感さでわかりにくければ、ただ単に現実の政治経済への無関心と不勉強さの露呈かな。

 もっと詳細で丁寧な批判は、栗原さんの論説を直接読まれたい。僕の以下のものより読んで格段に勉強になるから。


参考
http://blog.goo.ne.jp/reflation2008/e/613f7854fe7aa43d25fd756e2c668a7e

大航海 2009年 07月号 [雑誌]

大航海 2009年 07月号 [雑誌]

*1:それって何? と考えたことさえもおそらく宇野氏はないだろう。そのシナリオに乗っていながら

フランスのポンチ絵師について書いた雑感

 フランスのポンチ絵師については、http://d.hatena.ne.jp/kunitatitamami/20090602参照

 というわけでとりあえずメビウスと日本のマンガについてかなり長めの論説を脱稿した(校正が残ってるけど)。いろいろ資料やアドバイスを頂いた方々には大変感謝している。なんだかんだいってもいままでやったことのない分野だったし、趣味を同じくする同好の士の大切さや研究者同士の助け合いのありがたみをひさしぶりに感じた。しかも先行研究ゼロだったのでなおさら。

 論説自体は本誌(ユリイカhttp://www.seidosha.co.jp/index.php?published)がでてから触れるとして、この論説を書きながら思ったことだが、やはり漠然とマンガについて考えていたことを今回、論文を書くという行為の中で具体化していかなくてはいけなかったことが、僕にはとても勉強になった。断片化した知識をひとつの形にまとめる、というのは分野を問わずその作業をした人間の認識を高める効果がかなりあるような気がする。要するに、メビウスを通して、僕は日本のマンガに対する理解をいままでとは比べ物にならないくらい深めたような気がしている。アメコミ論争以来、こういう感覚を得たことがなかっただけに、やはりなんでもひとつの形を作り出すというのはいいことだなあ。ポンチ絵師そのものについてはまた触れる機会もあるだろう。

 それにしても本当にメビウスのこの本、たけえ〜。

B砂漠の40日間

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