手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信は如来のはたらき 

浄土真宗の信心は「賜わりたる信」ではあっても、「頂きもの」ではない筈である。他力廻向の信と言われる限りにおいて、静止状態としての阿弥陀仏を対立的に向こうに置いて、与え手の阿弥陀仏から、信を頂くというのではない。
他力とは「如来の本願力」であり、生きとし生くるものを救わずんば已まず、という阿弥陀仏のはたらきをいう。だからこそ廻向というのである。信はあくまでも如来のはたらきであり、頂きにかかるものではない。
阿弥陀仏と浄土 P33 久堀弘義 師より抜粋】

聞こえたまま

誤解を恐れずにハッキリ申しましたらね。
信ってのは、はたして頂きものかということを、私はこの頃思います。
私たちは「頂かなきゃ、頂かなきゃ」と言うもんですからね、頂きにかかるんです。
そうしたら、必ず「あげましょう!」という人がでてくるわけでありますね。
それが、いま流行っている、いわゆる一念覚知とかの色々な問題なんです。
何時何分に誰から頂いたということが分からなければならない。モノをもらった時にですね、いつの間にか頂いておったという頂きモノがあるか?と。
・・・(中略)・・・
聴きに行き続けておる間に、向こうから聞こえてくるんだと。
もっと言いますと、聞こえたままが安心できる世界がある。そこに信心のよろこびというものがあるわけなんですね。
歎異抄に探る 浄土の道(CD) 久堀弘義 師より】