動作と場所の為のメモ−1

知覚についての古典的な考え方は一致して、奥行が見えるということを否定している。〔たとえば〕バークリーは、われわれの網膜がまわりの光景からもっぱら平面的な投影だけを受け取る以上、奥行は記録されることが出来ないわけで、そのため視覚にあたえられないのだろうと指摘している。仮にこれに対して〈恒常性仮説〉を批判したあとでわれわれはわれわれの見るものを網膜上に描かれるものによって判断することはできない、と言って反論すれば、バークリーはたぶんこう答えるだろう。すなわち、網膜像がどうであろうと、奥行はわれわれの視線のもとにその全体をくり拡げるわけではないし、縮約されてこそあらわれるしかないのだから、奥行が見られることはありえない、と。反省的分析においても、ある原則的理由からして、奥行は見えない。つまり、たとえ奥行がわれわれの眼に描きこまれうるとしても、感覚的印象は一つ一つ辿られるような多様をしか呈示しないだろうし、したがって、たとえば距離は、ほかのあらゆる空間的関係と同様に、その多様を綜合しかつ思惟する主体にとってしか存在しない。これら二つの学説は、それがいかに対立していようと、どちらもわれわれの実際の経験の同じような抑圧を言外に含んでいる。どちらの場合にも奥行は暗黙のうちに横から見た幅と同一視されており、そしてこれこそが奥行を見えなくしているものなのだ。バークリーの論拠は、これを最も明白なかたちで述べてみれば、およそこういうことになる—私が奥行と呼ぶものは、現実には、幅に比較しうるような諸点の並置にすぎない。端的にいって、私がそれを見る位置がよくないだけである。だから奥行を見ようとすれば、私は横から見ている観察者の位置にくればよいわけで、私にとっては諸対象が相互に他の陰に隠れているとしても、そこからなら、私のまえに配置されているそれらの全体を、一目で眺めることができるのだし、—あるいは、私にとっては一点に縮っている、私の身体から最初の最初の対象までの距離も、そこからなら見ることができるのである。私に奥行を見えないようにしているものこそ、まさしく、奥行を〔横からの〕観察者にそれを幅という様相のもとに見えるようにしているものなのであり、つまり私のまなざしという唯一の方向上での同時的な諸点の並置なのである。見えないと言明されている奥行は、したがって、すでに幅と同一視されている奥行であって、こういう条件がなければ〔バークリー〕の論拠は見せかけの堅固ささえもたぬことになる。同様に、主知主義が奥行の経験のうちにそれを綜合する思惟主体を登場させることができるのも、それが実在化された奥行、つまり同時的な諸点の並置について反省するからでしかないのだが、この奥行は私に呈示されているがままの奥行ではなく、横に並置している観察者にとっての奥行であり、すなわち結局は幅なのである。二つの哲学は、無造作に互いに同化し合いながら、一つの構成作業の、結果を自明のものとしてみずからにあたえているのだが、われわれは逆に、その作業の諸段階をこそ辿りなおさなければならないのである。奥行を横からみた幅として扱うためには、つまり等方性の空間に到達するためには、主体はその位置をはなれ、世界のうえでのその視点を捨てて、自分がいわば偏在していると考えることが必要である。いたるところに偏在する神にとっては、幅は奥行とまったく等価である。〔ところが〕主知主義と経験論とは、世界に関する人間的経験についてわれわれに何の説明をもあたえてはくれない。彼らは、世界について神ならば考えうるであろうようなことを、語っているにすぎない。そしておそらく、もろもろの次元をたがいに置きかえて世界を視点なして思惟するするようわれわれを促すのは世界そのものなのだ。すべての人間は、なんらの思弁をもさしはさまずに奥行と幅の等価性を認めている。つまり、この等価性は相互主観的世界の名証の一部なのであって、まさにこれこそ、哲学者たちがほかの人間同様に奥行の独自性を忘れてしまうということの原因である。けれども、われわれは客観的な世界や空間について、まだ何も知ってはいない。〔いまや〕われわれが記述しようとするのは世界の現象、すなわちわれわれにとっての世界の誕生であり〔もっとこまかく言えば〕あらゆる知覚がわれわれをつきもどし、われわれがまだ単独であり、ほかの者がもっとあとになってやっとあらわれ、知識やとくに科学が個人的展望をまだ通分したり均一化したりしていない、といったあの領野での世界の誕生なのである。われわれが世界に接近しなければならないのは、こうした個人的展望をとおしてであり、それを介してである。したがって、まずはじめにそれを記述しなければならない。奥行こそ、空間の他のどの次元にもましていっそう直接的に〔客観的〕世界から来る偏見を投げ捨てて、世界のあらわれ出る始元的な経験を見なおすようにわれわれを強いるものである。奥行は、いわば、あらゆる次元のなかで最も〈実存的〉なものであるが、それというのも、—この点ではバークリーの論拠が正しいのだが—それは対象それ自身のうえに標示されるものではないからであり、つまり、それは事物にではなくあきらかに展望に属するものものだからである。したがって、それは事物から引き出されることはできないし、意識によって事物に取り付けられることさえできない。それは事物と私とのあいだの或る確固としたつながりを告げるものであり、このつながりによって私は事物のまえに位置づけられるのだが、他方、幅は、一見したところでは、もろもろの事物相互の関係と考えられ、ここに知覚する主体は含まれていない。奥行の視線を、すなわちまだ客体化されてもおらず、また外的な諸点の相互関係によって構成されてもいないような奥行を見つけだすことによって、われわれはもう一度古典的な二者択一をのり超え、主体と客体〔対象〕の関係をはっきりさせることにしよう。
p77-79

出典|『知覚の現象学-2』(モーリス・メルロ・ポンティ/みすず書房/1974

人見眞理“「現れ」考ー沈黙する身体からの手続き”より-2

小学2年生のNちゃんは、脳性麻痺である。よく喋り、よく笑う。初めて出会ったとき、こちらが話しかけるまで、1人で何役も演じて1人で会話を続けていた。話しかけると、まっすぐにこちらを見て答えることができる。上肢で支えることを中心としたハイハイで床を移動し、椅子によじ登ることもできる。背もたれのない台の上では、手を支えながら背を丸めてバランスをとる。このとき両方の下肢は前方にピンと伸びてしまう。立たせると後方に倒れそうになり、両上肢で何かにしがみつこうとする。床の上では、両下肢を前に伸ばしたまま、背を丸め、しばらくは上肢で支えなくても座っていることができる。正座を崩して両足の間にお尻を落とし前かがみになっていると、いくらでもそのままの姿勢で遊んでいられる。両手とも使えるが、左手の方を好んで使う。あるとき、床上に座っているNちゃんの少し離れたところに小さなタオルを1枚置き、ここに頭がくるように寝てほしいと伝えると、Nちゃんは座ったまま手で床を押しながらお尻をずらしてタオルの近くまで移動した。しばらくNちゃんはタオルの場所と自分のお尻の辺りを見比べて、少しタオルに近づいたり、向きを換えたり、離れたりすることを繰り返していた。だいたいこの辺りと定めたところにお尻を置き、何度も後ろを振り向いてタオルを確認した。また少しお尻の位置を直し、再度タオルを確認し、ようやくゆっくりと頭を後ろへ倒していき、横になった。本当はNちゃんの頭の下にくるはずだったタオルは、しかしNちゃんの肩の辺りの少し離れたところに置かれていた。「あれ?」とNちゃんは言った。「もう少し下で、こっちの方か。」
横になったところでNちゃんの両膝を立て、足底をつけた。足首をこちらが持ち、ランダムに足を動かして止めた後、いま左足と右足はどちらがお尻に近いと思うか聞くと、Nちゃんは「どっちかなー。」と言いながら足を踵の方へ伸ばそうとした。その手を制し、お尻まで足を動かすから感じるようにと言って、足をゆっくり動かしていく。左、そして右。するとNちゃんは、お尻の近くの手に置いた手の指を折って数え始めた。お尻までの距離が長ければ時間がたくさんかかるはず。近ければすぐに着くはず。そこで、今度は同時に動かすからどちらが早くお尻に到着しそうか、わかったら教えてと伝えておき、同時にスタートさせてお尻に向かって動かしていく。Nちゃんの足の裏はかなり汗ばんでいる。お尻にいよいよ届くところまで来て、ようやくNちゃんは答えを言った。「右かな?」「ほんとに右?」「うん、たぶん右。」「たぶん?」「うん、たぶん。だって、右の膝がこんなに曲がってるでしょ。だからたぶん右。」
これらのことから、Nちゃんが、自分の身体を世界の中に配置することも自分自身に対して配置することもできないでいることがわかる。Nちゃんが向かい合っているのは、やじろべえのように重さの配分で釣り合った姿勢か、床や椅子の上でほとんど2つに折れになるようにして前かがみになった姿勢の中でのみ、自由を味わえる(世界と関わらずに1人でやり取りを続けられる)という現実である。釣り合いを生まない、あるいは釣り合いを求めない身体の配置を問うと、Nちゃんは身体の沈黙に対峙し、知っている限りの代替手段を必死で動員する。
このときNちゃんに身体と世界との位置関係を判断することを求め続けると、事態はさらに混乱する。実はNちゃんの周囲には世界はなく、自分の中にも世界はない。あるのは、努力して筋収縮を持続させたり最小限の支持で最大限の脱力を得たりする(何ものにも相対しない)身体と、それには無関係に点在する物や他者である。身体と世界との位置関係とは、どちらかの側に軸を置いた座標を想定することである。座標がないところに座標を持ち込むことは、新たな代替を考案する努力を強いることでしかない。位置関係を問う前に、身体と世界との物理的な接点で、身体の側に何が起こるかを感じ取ることが試みられるべきである。
※赤字改変
p212-213

出典|『現代思想—総特集=フッサール』(青土社/2009.12)

人見眞理“「現れ」考ー沈黙する身体からの手続き”より-1

現実が変更されたり更新されたりすることは、行為の介在によって容易く起こる。行為は常に現実を覆す。他者の行為も自らの行為も、その行為目的とは無関係に「今、この目の前にある事態」を変化させ「それに対して確かに自分が立ち会っている」という構図を何重にも転換させる。しかし、確かにあると思っていた現実や近未来がすぐに塗り替えられたとしても、そこからまた行為は立ち上がる。行為は、現実に拮抗しては親和することを繰り返す。それは常に容易く起こる成り行きである。
その成り行きのさなかでは、身体が行為に隙間なく接続されているのではない。身体と行為は、常に互いの再組織化を問い、応答する。その間断のなさが、両者の接点を不問にしているだけで、身体と行為とは常に、対話できる離にお互いを配置している。これが現在までに脳科学が明らかにしてきた知見であり意味である。そして、この配置のまま、身体があたかも共通する言語を失ったかのように沈黙することにより、行為が本来の形では成立しなくなる(現実の成り行きに参入できなくなる)というのが、脳損傷という事態である。脳損傷からの回復とは、身体と行為との対話のための言語を身体の側に取り戻す手続きであり、脳損傷から出発しなければならない発達とは、それを身体の側に作り出す手続きに他ならない。
成人の脳損傷の場合、損傷を負った脳で起こっていることは、大雪の日の大都市の交通麻痺とよく似ている。ダメージを受けた周辺の交通規制と振替輸送網の確率が緊急課題である。その後、一部地区の再建工事を継続しながら、全体としての機能の回復に努めることになる。周産期や乳幼児期に起こる脳損傷の場合、事態は少し様相が変わる。天気は毎日大雪で、何とか繋がるところに交通ルートを立てて繋いでいくほかはない。そのうち天気が好転すると、今度はともかく繋いだルートを使い続けることで、全体の機能を維持しようとする。
ところが、脳がこのような再建あるいは構築をするのにも関わらず、本人にとっては行為に向けた身体の発動の仕方が分からないという、身体の側で言えば行為と対話するための言語が分からないという事態が起こる。それはちょうど、交通麻痺から何とか回復した地域の住民が、日頃の通勤なり営業なりを再開しようとして、ふと周囲の様子がこれまでとは違っていることに気づいて当惑し立ち疎むことに似ている。あるいは、自分に訪れる何かが、外から来る訪問者の呼びかけなのか大雪の中で冷たくなった手足から僅かに伝わってくる自分自身の知覚なのか区別がつかず、歓待も拒否もできずにとりあえず無愛想に黙り込むことに似ている。
こうした事態からは、脳の可塑性としてネットワークはさまざまに組み合わさり組み替えられるという知見があるとしても、それは脳全体が刻々に組織化する仕組みにおいてそうなのであり、その仕組みにおいては、身体と行為の対話は自明のものとして自動的に成立するのであろうという予測が立つ。また、脳損傷が交通麻痺の比喩のように、脳の中に一定の途絶をもたらすものである以上、脳の「刻々に組織化する仕組み」事態が影響を受けるであろういう推測も生まれる。もし、行為として「刻々さ」が求められるなら、それに対応しうる、すなわち簡単に立ち上がる脳内の経路が強化されるであろう。「組織化すること」が求められるなら、とりあえず繋がれそうなところを探すという、やはり簡単に成立する経路が強化されるであろう。あるいは、脳がただ単発の、あるいはいくつかの一定の組み合わせで自然発火を繰り返しているような場合には「仕組み」自体が脳自身によってよってそのつど覆され「刻々さ」もなく「組織化」もしないまま、繋がっては断ち切られるという不毛な活動が繰り返されるであろう。「刻々に組織化するしくみ」自体への影響とは、そのように、通常なら自明のものとして成立する仕組みが、単発的な課題対応の仕組みに置き換えられる自体を招くことであり、時として「仕組み」自体が成立しない事態にも至るということである。前者の場合は理由なく既にそこに現れている現実自体がそのつど課題になり、後者の場合は「現れない」まま現実の中にただ居続けることが課される。そのようにしてともかく表出された動きや動作があるとき、身体はそのように行為へと向かう言語を失い、沈黙する。
※赤字改変
p210-211

出典|『現代思想―総特集=フッサール』(青土社/2009.12)

測量|鶴崎いづみ|2009

(複数人が)異なる場所で、異なる時間に拾った(複数の)枝(幹・根を選択することもある)同士を、折れた先の形体が補われるよう、正確な位置を定め、(粘土で埋め)ひとつに繋ぎ合わせる。杉とブナ、老木と新枝など、異種を交錯させることもある。日記を付けるように日々拾い、繋ぎ合わせ、累積させる。この進行中の(もうひとつの生態系としての)作品の部分に、蟻・百足・茸・その他の菌類を棲息させ(作品の中に生物を飼い《実際、これらの作品の部分は、生物の“家”としての機能も合わせ持つ》)、(複数人の)パーフォーマーと共に、作品を進行させる為の重要な鍵とする。
繰り返すが、この進行中の作品の部分には生物が棲息しており、(複数人の)パーフォーマーと共に「測量」に加担している。鶴崎いづみが成し遂げた、「測量」を決定づける、最も優れた成果はここにある。(校正中)


関連|in coh ER ent / session iiExperiment Show
補足|“A portable planet”のためのメモ参照

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測量展
会期|2009.10.1-13(日曜・祝祭日休)
開場時間|11:00-19:00
会場|GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE
作家|鶴崎いづみ