希望の国の憂鬱

 日本には、希望がない。
 日本はダメだ。
 つい先頃までは、こんな言葉がメディアに溢れていました。しかし、震災を経た今、日本はやれば出来る子に変わりしました。

 列にならぶ、忍耐強い、規律に従順、治安がいい、こんな事は昔からわかっていた話で、今更驚くにあたらないのですが、どうやら、メディアは僕たち日本人を再発見した模様です。

 ニート、ひきこもり、草食系男子。
 「今の若者は、、」という、年寄りのセリフの代名詞のような言葉。
 もっとも、それは実際の年寄りというより、メディアが濫用して来た言葉なのですが、あれだけ批判されていた若者は、今やこの国の救世主です。

 バーゲンのように、希望が山積み。ちまたに溢れかえっている。

 今、困難な状況にある方達に、エールを送らなければならない。みんなでがんばろうというのも、自然な声です。
 その意図を理解していない訳じゃない。十分過ぎるほど、分かっています。それでも、ひねくれ者の芸術家は、深夜に呟くのです。

 そんなに立派なら、こんな悲劇になる前から褒めりゃいいじゃないか、、。



 空がいつになく綺麗だった日という日記で「希望を拡散したい」と書きました。それ以外の何を書けばいいのか、僕の浅知恵ではとても思い浮かばなかったから。

 あの震災の日、僕は、ツイッターで、有益と思える情報を果てしなく拡散し続けました。おもに、帰宅困難の首都圏の人に向けてのメッセージですが、どこに、受け入れ施設がある、どこに避難所がある、どの病院が空いてる、電車はどうなる、など、など、、。
 携帯のワンセグが使えない状況でも、ツイッターは無傷で、多くの情報が流れていました。もしかすると、被災者の中に、救援を待つ者の中に、携帯が繋がっている方もあるかも知れない。ツイッターの情報なら届くかも知れない。溢れる情報の中で、出所のはっきりするものを選んで、感情を交えず、書き続けました。
 それが、希望でした。

 そして、わずかばかりの募金をして、あとは節電につとめ、今も静かに事の推移を見守っています。

 今、この事態になって、多くの識者が、人生とは、、運命とは、、など書き記しています。すべてを失って希望が残ったと書いた作家もあります。
 その「希望」は僕が流し続けた形而下のそれではなく、もっと精神的なもののようです。

 悲劇は、量に比例して社会問題にすり替わります。

 子を失ったひとりの親の悲しみは、個人の悲しみに過ぎないけれど、それが、数千、数万の単位になると、社会的悲劇に姿を変えます。

 大津波で、幾多の人とともに失われた子の命も、川で遊んでいて、足を滑らせて失った子の命も、親にとっては同じです。
 その悲しみの深さと人生の不条理になんの変わりもありません。
 万余の命が失われた時だけの不条理なのでしょうか、、。

 社会は、危機にあって規範を示そうと躍起になっている。それは当たり前です。道徳的メッセージ以外の何を今、語れるだろうか、、。
 
 しかし、芸術家もまたそうとしか有り得ないのか、、。

 きっと、この大震災をテーマにした作品が、山ほどつくられるんだろうな、と思うと、憂鬱な気分になるのです。