B型肝炎訴訟議員要請行動と東日本巨大地震

 東日本巨大地震で大変な犠牲者が出ているテレビを見ていても、被害の甚大さがうかがわれる。亡くなられた方にはお悔みを申しあげる。また一刻も早い不明者の救出、復旧を願っている。 
 10日・11日とB型肝炎訴訟で大阪原告団弁護団による国会議員要請行動に参加した。今回は、議員立法をめざす賛同署名をとる大事な行動と言うことで、連れ合いも参加した。年度末までにどれだけ賛同署名を得られるかが、今後の全員救済に向けての重要な取り組みになるので、各地の原告団弁護団が地域を分担して連日行動を行っている。
 10日の参加者は原告・家族8名、弁護士3名の参加であった。前日までに面会の予約を取っている議員を中心に20名あまりを訪問した。おかげで11名の議員から賛同署名を得ることができた。この日は札幌地裁で和解協議があった。しかし、全く政府側には態度の変化が見られなかった。この和解協議を受けて記者会見があり、東京・大阪の原告団弁護団の代表が東京で記者会見を行ったので、私たちも参加した。
 賛同署名を頂いた、上:西野あきら議員(自民党衆議院)、下:辻恵議員(民主党衆議院)と記念撮影

 11日には、2人が10日夜に帰ったが新たに原告1人、弁護士2人が加わって12人で行動した。この日の行動は、大阪原告団弁護団が担当する地域の国会議員でまだ賛同署名の資料を渡せていない議員に資料を届ける行動になった。ほぼ、全議員に届けられたのではないだろうか。
 2日間の行動で13名の議員から新たに賛同署名を得ることができた。徳島県関係では7名の国会議員の内、前回の後藤田正純議員(衆議院自民党)に加え、高井美穂議員(衆議院民主党)・仁木博文議員(衆議院民主党)・山口俊一議員(衆議院自民党)から協力を得られた。今回はまだ議員の判断が得られていないという中谷智司議員(民主党参議院)・中村博彦議員(自民党参議院)・中西祐介議員(参議院自民党)・仙石由人議員(衆議院民主党)は再訪して協力を得たい。
 2時半ごろ、私たち夫婦は国会を後にした。それは、そのあとすぐ起きた。東日本巨大地震である。お茶ノ水駅付近を歩いていた私は、皆が急に立ち止まり、上を見上げるのに奇異を覚えた。身体がどういうわけかゆらゆらしてくる。そのゆれは次第に大きくなり地震だと思った。大変大きい地震である。
 1995年1月17日、午前5時46分に起こった阪神淡路大震災。徳島の我が家も大きな揺れがあり、はっと目覚めた私は、まだ、小学生だった息子の寝室に慌てて飛び込み、安全を確かめた。この地震よりはるかに大きく揺れを感じた地震であった。
 お茶の水周辺の道路は停まった車と人で埋まり、暫くすると救急車やパトカーが何度も大きくサイレンの音を鳴らし、行き来した。街にあふれている人々は、ビルから飛び出して心配そうに見ている。あわてて臨時休業の張り紙を出す店もあった。お茶の水駅に戻ると、駅の屋根が少し壊れていた。公共交通機関は、あっという間に完全に停止してしまった。飛行機で徳島に帰らなければいけない私は、とにかく東京駅まで歩いてから、善後策を考えようとした。しかし、どうもこれでは早期の復旧は困難と考え、タクシーを拾うことにした。しかしどれも客を乗せている車ばかりだ。運よく、支払い中のタクシーが見つかり、乗車することにした。神保町付近である。とにかく、混雑していて前に進まない。それでも2時間・1万円近くもかかって飛行機の出発時間に間に合ったのだが、着いてみると飛んでいない。航空会社のカウンターにはどんどん人が押し寄せてくるばかりだ。
 連れ合いは上野駅から水戸の長女の家に行く予定だったが、東京駅で足止めにされ野宿。私も結局、飛行場の椅子の上で一夜を明かすことになった。なかなか携帯がつながらないのでやきもきもし、余震が続くので全く眠れない。
 今テレビを見ながらブログを書いているのだが、被害の実相がだんだん明らかになってくるにつれて、どれほどのものになるのか恐ろしくなる。
 私たち夫婦が国会を後にした後も、国会議員要請行動を行っていた大阪の参加者は、国会議員会館内で地震に遭遇した。どこにも行けない。ホテルも確保できない。国会議員会館で一夜を明かしたという。日本で、一番安全な建物である。食料・トイレも確保できたという。国会議員の皆さん・政府の皆さん、安全でないところで生活している被災者国民のために、今度ばかりは与野党一致して救済を図って欲しい。
 12日、8時50分の飛行機が確保できたので11時半ごろに我が家にたどり着いた。徳島空港では取材に来ていた四国放送のインタビューを受けた。連れ合いは水戸にも行けないので、徳島に帰ることになり、午後5時15分の切符を確保したという。これから迎えにいかなけらばならない。



上の写真は、宮内フサ(1985年102歳で死去)作品 面抱き