「種としての個体」と自民自滅後の表現規制(追記アリ


前回エントリの補足と応答ですにゃー。もらったトラバへの応答もかねて。

システムの条件としての代替可能性


人間の「代替不可能性」というのは、もちろん幻想である。そんなことは、それこそ分かりきったことだ。

戦争や緊急の事故、大災害などといった極限状況においては、当然ながらそんな幻想は吹っ飛んでしまう。

だが、そのような幻想がはぎとられる状況とは、まさに人間がただの生物に還元されてしまう状況と言うべきではないか。


そもそも、人間とは幻想すなわち観念によって生きもすれば死にもする生き物ではないか。

「ニンゲンにとって耐えられるものではにゃー」というのは、そういう意味だろう。


id:Midas氏は、「『代替可能』は残念ながら人間の条件」と言っているが、それはむしろ生物一般にとっての条件であって、特殊な生物としての人間の条件ではない。だからこそ、魚は途中で天敵に食われてもいいように無数の卵を産み、植物もまた無数の花を咲かせて種を作るのではないか。


そういう観念=幻想というものが、人間にとって厄介なものであることは、これまた言うまでもないことだが。


2009-08-22

  • 代替不可能性⇒個の論理
  • 代替可能性⇒システムの論理


なのではにゃーかと考えますにゃ。
まず生物学の視点で見ると
ドーキンスの利己的遺伝子説(=各々の遺伝子の論理)に従えば、個々の遺伝子が代替不可能なものになるんですよにゃ。しかし、自然環境というシステムの論理においては、各「個体」は代替可能なものだけれど、「種」は代替不可能なものとなるわけですにゃ。


人間社会の視点で見ると
各人の意識においては、自分という存在の代替不可能性はいうまでもにゃーですね。世界宗教にせよジンケン思想にせよ、個の代替不可能性を支持していますにゃ。
一方、近代社会のシステムにおいては、市場や国家権力によって人間は労働力とか消費者、あるいは納税者や有権者といった形で抽象化されて代替可能な存在になりますにゃ。


自然環境にせよ、近代社会にせよ、「個体」が代替可能なものでなければシステムが成り立たにゃーわけです。だから「代替可能はシステムの条件」というのは正しいでしょうにゃ。あるいは「代替可能は自然(というシステム)の鉄則」ともいえるかにゃ。だから、前回エントリに以下のようなブクマコメがついたりするわけだにゃ。

id:Yagokoro
代替不可能性を公共が担保出来るわけなかろ。死んだ子供はまた産めばいいってのが身も蓋もない集団の理屈。代替不可能性は自力で調達するしかねえ。公共に夢見すぎなんだよ根本的に


id:kadotanimitsuru 社会
『個人の尊厳』はその当人の問題。『死んだ子供』は社会にとって「表象の商業的流通」。近代社会でも前近代社会でも担保されない(葬式出すだけ)。共苦対象は代替可能なロマン。中間団体=新興宗教は代替不可を欺瞞する

種としての個体

個々人の代替不可能性について、レヴィ=ストロースがオモチロイ言い回しをしているので、ちょっと引用してみましょうかにゃ。


どのような自由にも当てはまるほど明らかな基本原理が考えられるのだろうか。一つだけ考えられるが、それは精神的存在としての人間の定義ではなく、生物としての定義----人間のもっとも明らかな特性----を想定している。さて、人間がさまざまな権利をもち得るのがまず生物としてであるならば、種としての人類に認められているそれらの権利は、他の種の権利によって当然の制約を受ける。したがって、人類の諸権利は、他の種の存在を脅かすようになるそのときに消滅する。


それは、人間が他の動物とおなじように、他の生物を糧としていることを無視することではない。しかし、この自然の必然は、犠牲にされるのが個体である限りにおいて正当なのであり、その個体が属する種までも消滅させるようなことがあってはならない。この地上に現在まだみられる生物種の生きる権利、自由に発展する権利のみが絶対である。それはある一つの種の消滅が、私たちの手では決して埋めきらない空白を、創造体系のなかに作り出す、という簡単な理由による。


「はるかなる視線2」 P417


ある一つの生物種の存在の権利が絶対的に確保されるべきものだという見解は、実に当然のものだと僕も考えますにゃ。僕たちは生物の各個体を利用することは許されても、種を抹殺することは許されにゃーわけだ。これは先ほど述べた、自然環境というシステムにおいては個体は代替可能であるということに対応しますにゃ。ここでは人間を精神的存在としてではなく、生物として捉えたうえでの権利という考え方をしていることも押えておきましょうにゃ。
ところで、レヴィ=ストロースは続けて「精神的存在としての人間」についてこういうことも言っているのですにゃ。


人間を、通常の意味で、精神的存在であると定義する場合、実際には社会生活のある一つの弁別的特性に準拠しているのである。事実、社会生活では全成員がそれぞれ個別の種として扱われている。各個人に固有の機能を果たさせ、単数または複数の役割を与え、つまり一言でいえば個人が人格をもつことを強制して、集団は個人を単=個体的種とでも呼びえる種に変える。集団という大きい視点でみるまでもなく、一つの家族のなかで近親者の死がどのように受け取られているかをみるだけで、このことは充分に納得できる。亡くなった近親者は、一定の期間、独自の歴史と、物理的・精神的な資質、思想と行動の独創的な体系を一貫性のある総体にまとめあげていた。家族はその死を代え難い総合の崩壊として心の奥底深く痛みを感じる。これは自然の秩序のなかで一つの種が消えていくにも似ている。自然界の種もまた、ふたたび現われることのない独自の資質の総合なのだ。


同 P419


生物学的にはホモ=サピエンスの個体はありえても個人が存在しにゃー。そして、個体とは代替可能な存在ですにゃ。自然というシステムにおいてそれは自明でしょうにゃ。
ところが、
精神的存在・人格的存在としての個人というのは、社会生活においてそれぞれが「単=個体的種とでも呼びえる種」と、「独自の資質の総合」と、つまりは代替不可能な存在と見なされるわけですにゃ。ニンゲンを精神的存在とみなすということはそういうことであり、これは近代西欧のいう意味での「個人」「近代的自我」に限った話ではにゃーということですにゃ。
つまり、各人を精神的存在とみなすということは、各人を代替不可能なものとみなすということになりますにゃ。西欧の近代的自我というものは確かにちょこっと特殊なものかもしれにゃーのだが、ニンゲンのかけがえのなさというものは西欧思想にのみ特別にあるというものではにゃーのだね。


レヴィ=ストロースは、種としての個体という考え方が現代の西欧においてどのように現われているかについて、以下のように皮肉っぽくいっていますにゃ。


西洋文化においては、まるで個人がそれぞれ自分の個性をトーテミズムとしているかのようである。個人の存在を所記とすれば、個性はその能記なのである。


野生の思考 P258

文化はシステムを拒絶する

ホロコーストとトリアージは呪われた双子(追記アリ)(再追記アリ) - 地下生活者の手遊びでも引用したピエール・クラストルの書籍から再引用。


権力の拒否に自らの全体を賭けているのは、文化そのもの、自然からの差異の上限としての文化そのものに他ならないのだ。そしてまた、文化は自然に対し常に変わらぬ深さをもった否認をつきつけはしないだろうか。拒否におけるこの同一性からわれわれは、これらの社会が権力と自然を同一視していることを発見する。文化は、権力と自然両者の否定なのだ。それも、両者が、文化という第三項に対してもつ関係-----否定的関係----- の同一性のみを共有する、相互に異なった二種の危険という意味でなく、文化は権力を自然の再出現として把握するという意味での否定なのだ。



ピエール・クラストル「国家に抗する社会」P57


僕はここで、「権力と自然両者」を「システム」と読み替えますにゃ。
文化とはもともと「自然の鉄則」とか「弱肉強食の原理」「世界はこういうもの」とかいった「システム」への否定として現われたものですにゃ。
言い換えると、個々人の尊厳を確保するために文化が必要とされたのだにゃ。


というわけで、Yagokoroやkadotanimitsuru に応えると、

  • 個々人の尊厳・代替不可能性を担保するために文化があり公共性がある

となりますにゃ。日本国憲法の基本原理も個人の尊厳だしにゃ。個人の尊厳は自分でかってに獲得しろってのは、相当に極端な主張になると思うんだけど、その辺はわかってるんだろか?


だいたいね、個人において尊厳やら代替不可能性を獲得できるって、もうニンゲンを超越しとるぞ。お釈迦様とかイエス・キリストの次元。そんなやつ、人類史上で何人いるんだろ? まあ、個性トーテミズムをして個人の尊厳の獲得だとか勘違いしているノウタリンは掃いて捨てるほどいそうだけどにゃ。
というか、尊厳というものが個人で何とかするものなのであれば、性犯罪被害者の二次被害・三次被害なぞ考慮する必要なんてにゃーわけだ。

表現の自由」にもどると

文化とはそもそも反自然・反権力、つまりは反システムであり、システムとは個々人が取り換え可能な存在であることを基盤にして成り立つものですにゃ。

  • 個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつけるのが文化

なのであって、文化とは個人の尊厳という幻想のためにあるといえますにゃ。
そして文化とは表現によって表象される。


だから、表現は何でもアリにしておいたほうがよい、のかどうか?
表現が経済的に流通するものである以上、システムに片足つっこんでいるといえるわけで。

という言明について、これをシステム的に解釈するのか、文化の側で解釈するのか、という違いがありそうですにゃ。前者を国家による自由、後者を国家からの自由、と言い換えられるかもしれませんにゃー。


表現の自由」の名における蹂躙がシステムに依拠したものであると捉えるのか、文化に属したものであると見なすのか? どちらかが一方的に正しい、という話にはならにゃーでしょう。
ただし、蹂躙・陵辱表現が日本社会のシステマティックな女性蔑視とはまったくの無関係という証明はほぼ不可能だろにゃ。悪魔の証明だし。というわけで以下のようなことをいわれているわけだにゃ。


国連のプレスリリースによると、国内NGOが指摘していたほとんどの問題が審査でとりあげられたようです。(略)委員たちは、女性差別の定義を明確にし、女性差別撤廃条約の内容を日本の国内法に完全に取り入れることをはじめ、より具体的で積極的な取り組みが必要だと指摘しました。審査では、以下のような問題が指摘されました。

  • 女性差別の定義が欠けていること、間接差別の定義が不十分であること。
  • 差別的な民法規定が残っていること。
  • CEDAWの規定が国内法において完全に法制化されていないこと。
  • 選択議定書の批准の必要性
  • 裁判官や公務員のジェンダーレーニングの必要
  • 日本軍「慰安婦」問題の真摯な解決
  • 女性蔑視的なポルノゲームの氾濫
  • 公人の女性差別発言
  • 男女共同参画機構や共同参画基本計画の効果
  • 性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題
  • 婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策
  • 意思決定過程への女性参加
  • 学校における性教育
  • 男女賃金格差、女性の不安定雇用、同一価値労働同一賃金原則の確立、育児休業制度の整備など
  • マイノリティ女性や移住女性の教育や雇用へのアクセス、支援策


アジア女性資料センター - 女性差別撤廃委員会が日本政府の対策遅れを批判、積極的な男女平等政策を求める


見てのとおり、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」が性差別的な政治的社会的システムの一環として認識され批判されているのは明らかにゃんな。


自民党が自滅して、表現規制のとりあえずの危機は去ったといえるかどうかは何ともいえにゃーところだ。民主党が生真面目に国連の人権系の委員会の勧告に従うとすると、表現規制が政治的日程の俎上にあがってくることも考えられるんでにゃーのかな? 自民の反動ゴリゴリの表現規制の動きより、「国連女性差別撤廃委員会に従ってこうします」のほうが厄介なんでにゃーの?


引用中の指摘された諸事項について僕は個にゃん的には「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」はビミョーだけど、その他の項目はすべてもっともだと思いますにゃ。その他項目において性差別が撤廃・縮小されて、それでもエロゲが元気だったら、エロゲと性差別は無関係、つまり陵辱表現が文化の側にあったってことの証明になるでしょうにゃ。是非とも証明してみたいところにゃんな。皮肉でなくそうなる可能性はあるし、そうなったらオモチロイとも思いますにゃ。

追記でいくつかのブクマに応答 4日9時ごろ

id:NaokiTakahashi
思うに芸術はまず表現そのものの価値の問題であって、それを通して表現される(ことの多い)個人がどうであるかの問題ではない。個の滅却を志す文化なんかいくらでもある。政治くさくてダメダメな文化観。メタブ


前半はどうでもいいにゃ。
後半だけど
「個の滅却を志す文化なんかいくらでもある。」
はあ? 例えば多くの神秘主義思想においては、個の滅却を目指すものだけれど、それは個の大切さを前提として、それを超える価値を提示しているものにゃんが。そもそも個の滅却と個の尊厳は矛盾する話ではにゃーんだけれど。
「政治くさくてダメダメな文化観」
ってそれ中二ロマン主義だろ。文化が政治的なのはアタリマエだと思ってたんだけど、NaokiTakahashi クンにおかれましては違ってたかー。そもそも表現が政治的行為でにゃーのなら、政治的に表現の自由を保障する必要なんてにゃーのにな。

id:z0rac 思想, 文化
うーん。文化はシステムだと思うが。定義の問題でもないような。/システムと対立するのは「自由」でしょう。


個体だって生体システムだにゃ。なんだってシステムだとはいえますにゃ。
で、システムと対立する「自由」ってのは、根っことしては、死からの・飢えからの・苦痛からの自由だと思うのですにゃ。そしてそれを個体として獲得することが困難だから共同性を要したってのが文化のそもそもではにゃーかと。

id:tari-G
※欄。毎度馬鹿相手にご苦労様でござる


おお、他人には知的誠実を要求するtari-G 大先生だ!
僕が馬鹿なのはわかっているので
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090330/1238349203
の質問にお答え願えませんかにゃ? 何度聞いても答えがにゃーのですが。
いや、もちろん大先生が逃げることはわかっているのですけどにゃ。
それにしても、僕を馬鹿にするほど、僕以下の馬鹿でありウソツキである大先生は自分をおとしめることになるんだけど、そのあたりをご理解されているのか、何にしろ常人には理解のしがたいところですにゃ。
ま、逃げろや、カス。

id:kadotanimitsuru 文化, 社会
種は代替可能だってば。がんがん生まれてがんがん滅びるのが種。重要なのは生物多様性であって個々の種の存続じゃない。/社会に良し悪し決めてもらうというのが個人の尊厳の放棄。罪も罰も当人のもの。それが尊厳。


えーっと、タイムスパンを長くとればニッチは埋まるだろうし代替可能な種もあるだろうけど、そういう議論をしたいの? もちろん、ある種の存在が特定の生態系で決定的な役割を果たすことがあることとか理解してる? また、レヴィ=ストロースのいっているのは、いま現在ニンゲンが帰属している特定の生態系におけるそれぞれの種の役割の話だしね。だからチミのブクマコメはここでは見当外れ三千里にゃんな。それに、とりあえず、生物多様性が重要だからそれぞれの種が大事だという話が一般的なはずなんだけど。人間社会における多様性が大事だから、個々人も大事だという話がフツーの論理になるのとおんなじね。
それと
善悪が社会と無関係に個人に属するの? すさまじく斬新にゃんな。何にしても、尊厳は個人で自前調達かー。すっごいねー。