「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月1日(月) ワシントン到着。公園を巡り、国務省で国務長官と会見。ホワイトハウス等を見学後、ワシントン大統領所縁の地を訪問。夜に議会図書館、議事堂の見学 【滞米第62日】

竜門雑誌』 第271号 (1910.12) p.25-29

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六
十一月一日 月曜日 (晴)
午前六時華盛頓府ユニオン停車場に到着す、此停車場の宏大にして建築の見事なる、啻に米国の常備軍が悉皆此内に容ると云ふ宏大なる点に於てのみならず、鉄及石材を以て組立てられたる美麗の建築と、鉄道線路三十一号が其第一号の端より第三十一号の端迄整然と建物に直角に接触したる光景は、全世界他に見る事を得ざるものならんと思はれたり
車中にて朝食の後、午前九時二十分青渊先生外一同歓迎委員の案内にて、停車場内の大統領室のレセプシヨンに臨み、市行政委員マツクフアランド氏の簡単なる歓迎の辞に対し、青渊先生一行を代表して答辞を述べ、夫れより自働車に分乗して国会議事堂・図書館・博物館等を過ぎて、華盛頓紀念塔に至りて府を観望し、又ポトマツク公園を見、動物園に入り、ロツク・クリーク公園に自然の風光を探り、夫れより癈兵院の構内を経て、十時十五分国務省を訪ふ、国務卿ノツクス氏は同次官ウヰルソン氏・東洋局長ミラー氏と共に、青渊先生以下一行を迎て簡単なる挨拶あり、青渊先生一行を代表して答辞を述べ畢りて一行は国務省を辞して他の視察に赴かれたるが、独り青渊先生は同省に留り、東洋局長ミラー氏の通訳に依りて国務卿ノツクス氏と会談せられたる後、待合せられたる頭本氏と共に陸軍省を訪ひ、次官に面会し夫れより大統領の官邸なる白堊館を訪ひ、応接室(青室)接見室(緑室)音楽室(赤室)家族の居間、各員外交官等を饗応する食堂等を順次見物して、ホテル・ニユーウイラードに投ぜらる
午後二時青渊先生以下一同自働車に乗じて、海軍鎮守府構内より、海軍省より供せられたる砲艦アパチエ号に乗じ、ポトマツク河を下り、十六哩を二時間にしてマウント・バーノンに着す、端艇に移乗して桟橋に昇り、鬱蒼たる樹間を躋る事二・三町にして古今の英雄ワシントン氏の墓前に着す、青渊先生は一行を代表して恭しく花環を捧げ、次で一同礼拝の後、墓前に記念の撮影を為し、夫れより同氏の旧邸に到る、邸は質素なる木造二階建なり、旧時の客室・書斎・食堂、又階上の寝室・臨終室等当年の遺物其儘存して、転た追懐の情に堪へざらしむ、庭園に出づれば蜿蜒たるポトマツク河を一眸に集めて風景絶雅なり、ワシントン氏及ラフワエツト氏手植の記念木は庭の一隅にあり、又桟橋より茲への途中道傍に伏見宮殿下御手植の紅葉あり
夕刻前路を取りて帰途に就き再度砲艦に乗じて午後六時帰宿せらる
午後八時青渊先生には、一行と共に自働車に乗じて国会附属の図書館を見物せらる、建築の宏壮にして美麗なる世界第一と称す、夫れより国家議事堂に至り各室を巡見し、終て商業倶楽部に於けるレセプシヨンに臨み、茶菓の饗を受け一時半帰宿せられたり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.246-247掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.282-330

 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
     第十四節 華盛頓
十一月一日 (月) 晴
 午前九時二十分ワシントン府に着す。停車場内の大統領室にて市行政委員マクファランド氏の簡単なる歓迎の辞あり。後ち自働車に分乗し国会議事堂・同図書館・国務省・博物館等を過ぎ、華盛頓紀念碑を廻つてポトマック河畔公園を見、セネカ・アベニュー橋を渡りて動物園に入り、少時してロック・クリーク公園に自然の勝景を探り、更に転じて廃兵院の構内を経て再び市街地に入り、十時十五分国務省を訪ふ。国務卿ノックス氏・同次官ウィルソン氏等茲に一行を迎へて簡単なる挨拶を為す。後一同は陸軍省を訪ひ各大臣室に至りて次官に面会し、次に大統領の役邸なる白堊館を訪ひ応接室・青室・緑室・赤室等を見物し、終りてホテル・ニューウィラードに投ず。但し渋沢男は独り国務省に留りミラー氏の通訳を以て国務卿ノックス氏と少時会談する所ありたり。午後二時一同は自働車にてホテルを出で、鎮守府構内より小蒸汽船に搭じて国父ワシントンの墓所マウント・バーノンに向ふ。ポトマック河を下る事十六哩、二時間ばかりにしてマウント・バーノンに着、ワシントンの墳墓を拝し花環を捧げ墓前に紀念の撮影を為し、更に旧邸を訪ひて客室・書斎・食堂より階上の寝室・臨終室等を参観する事少時、薄暮再び小蒸汽に送られて帰る。夜は一同自働車にて先づ国会図書館を見物す。蔵書二百余万冊に及び結構亦世界第一と称せらる。転じて国会議事堂に至り上下両院議場・高等法院法廷等を見て、午後九時商業倶楽部に到り有志の接見会に臨む、茶菓の饗応あり。十時半頃一同帰館。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.257掲載)


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 1909(明治42)年11月1日(月) 伊藤博文の訃報にカンサス市商業倶楽部会頭より弔電

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.542-546

 ○第三編 報告
     第二章 電信雑輯
十一月一日華盛頓滞在中、カンサス市商業倶楽部会頭ブランド氏より左の電報に接したり。
  「米国人は大に兇徒の銃声に驚かされたり、而も其不幸の大なることを悲むこと切なり。故に吾人の涙を以て諸君の涙と合せ、日本の著名なる愛国者にして大政治家たる伊藤公の死に因りて、日本が遭遇したる不幸に対し、実業団及日本国民に弔意を表す」
右に対し、即日同情に対し感謝に堪へざる旨を返電せり。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.268掲載)


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 1909(明治42)年11月1日(月) 日本への発電「華盛頓に着す」(竜門雑誌)

竜門雑誌』 第258号 (1909.11) p.43-46

華盛頓に着す(ワシントン十一月一日発電)
今朝華盛頓に到着し、直に自働車にて市内各官衙華盛頓紀念塔・廃兵院等を見物し、次に国務省の接見室にて、国務卿ノツクス氏及ウヰリヤム次官に面会す、渋沢団長は特に一室にノツクス卿と談話を交換す、一同は陸海軍省・大蔵省に於て各次官に面会し、白堊館を見物し、正午ニユー・ウヰルラード・ホテルに入る、午後は特別仕立の汽船にてメトヴアノンに赴き華盛頓の墳墓に詣で、渋沢団長は花環を墓前に捧げ、一同紀念の撮影をなし、同宅を訪ひ、夕景旅館に帰る、夜は世界第一の図書館を見物し、上下両院を参観し、終りて商業倶楽部のレセプシヨンに臨むべし
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.262掲載)


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 1909(明治42)年11月1日(月) 日本での報道「渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり」(実業之日本)

実業之日本』 第12巻第23号 (1909.11.01) p.28-30

    渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり
          特別通信員 実業団随員 加藤辰弥
九月十九日、一行はミネトンカ湖畔ラフアエツト倶楽部に於て大統領タフト氏と会見した。タフト氏は例に依て愛嬌満面、人毎にお世辞を振撒き、且巧に酒落を頻発して一行を大笑中に捲き去つた。
  タフト卿と渋沢男の会見
タ卿『御道中御一同御障りもなく、益々健全なる貴下等の一行を此処に迎ふることを得て欣喜に堪へず、殊に余は貴下の如き光輝ある人が『商業の使節』(Emvoy of Commerce)として特に弊国に御光来せられたるは更に大に喜ぶ所なり』
渋男『余等一行は、茲に健全なる閣下を見ることを得て満腔の喜悦を禁ずる能はず、今回貴国が我等一行に対して示されたる厚意と盛情とに対しては、殆んど感謝の辞を知らざるなり。殊に閣下が本日多忙なる時間を割て、此美しき公園の倶楽部にて特に一行と会見の機会を与られたるは、深く恐縮する所なり』
タ卿『余は前後二回日本へ来遊せしが、其都度種々御歓待を受けたる事は今猶忘却する能はず。殊に貴下が吾等一行―ミス・ルーズベルト嬢同行の一行―を芝紅葉館に招待し、貴下が日本服にて、日本料理を御馳走されしは今猶ほ眼前に見る様なり』
  渋沢男の笑顔千金の値
渋男『余は今回満腔の謝意を、余自から英語にて閣下に表白する能はざるを遺憾とす。一々通訳を煩はして言語を交ゆるは誠に不便なり』
タ卿『余も日本語を話す能はざるを遺憾とす、お互に遺憾は則遺憾なるも、貴下が特有の微笑は、日本語・英語、又は何国の語よりも余をして愉快禁ずる能はざらしむ。』
○中略
  タフト卿渋沢男夫人を襲ふ
それより大統頭は渋沢男夫人に向ひ、極めて愛嬌に富める挨拶を為したり。
タ脚『ようこそお出で下さいました。日本ではなぜ、貴女の如き優婉な、且、チヤーミングな貴婦人を外へ出さないで、内へ閉ぢ込めて置て、男子のみ外へ出るのでせうか、私は貴国の習慣を知らないけれども、是れは甚だ不公平であると思ふ。どうぞ今後は日本貴婦人の多く来遊せられんことを望む』お世辞としては、是以上のものはないであらう。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.152-153掲載)


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 1909(明治42)年11月1日(月) 日本での報道「渡米団一行中に如斯愛嬌ある失策と手柄とあり」(実業之日本)

実業之日本』 第12巻第23号 (1909.11.01) p.31-32

    渡米団一行中に如斯愛嬌ある失策と手柄とあり
             特別通信員 社友 加藤辰弥
  渋沢男演説に酒落を交ゆ
九月二十二日ミルウオーキー市に於て商業会議所晩餐会席上、渋沢男は演説終りて後、一同に向ひて曰く『吾等一行は今朝停車場へ着するや否や、自動車にて各種の工場へ案内せられ方々見物せしが、何れを「見る」も其規模の「大きい」には実に感服の外なし』とてミルウオーキーを酒落れたが、頭本元貞氏は又極めて巧みに之を通訳し、英語にて此洒落を米国人に告げ、非常に喝采を博したり。
  米人渋沢男の如才なきに驚く
同晩餐会の開かるゝ前、日本より一通の電報飛来せりとて同日の夕刊に現はれた。即目下ウイスコンシン州大学のベースボール・チームが我慶応義塾の野球軍と戦ひて、二に対する三で敗れたりとの報道であつた。此時一行は宛かもウイスコンシン州に居つたので、皆不思議に思つた。処が同夜の晩餐会で渋沢男が当意即妙に之を利用して、米人に一本参られたのは大喝采であつた。演説に曰く、
『……諸君御承知の通り、只今当州大学野球団の青年諸君は、三千里の波濤を蹴破つて遠く日本に渡来し、勇ましく技を闘はして居る、斯く遊戯をする者までも日本に来遊せらるるとは実に愉快に堪へない。然るに実業家諸君にして未だどしどし御来遊なきは、実に遺憾とする所である。どうぞ御奮発を願ひたい……』
といつたので大喝采であつた。殊に列席者は皆ウ軍が我慶軍に負けたことを知つて居たが、渋沢男の演説中、一言も此事に言及されなかつたのは、男が思慮あり又徳性の高きに由るとて、一同賞賛したとの事である。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.199掲載)


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