「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年11月19日(金) サンタバーバラを経てロサンゼルス到着。停車場でのレセプションの後、サンペドロ湾の港内施設を見学。渋沢栄一は風邪のためホテルで休養。日本よりテロ警戒の信書が届く 【滞米第80日】

ロスアンゲレス商業会議所徽章

 「ロスアンゲレス商業会議所」徽章
(「紀念牌及徽章」 (『渡米実業団誌』巻頭折込)掲載)


竜門雑誌』 第274号 (1911.03) p.63-68

    ○青渊先生米国紀行
         随行員 増田明六
十一月十九日 金曜日 (晴)
午前七時三十分サンタ・バルバラに着、一時間停車、当地は石油の産地として著名なり、一行出でゝ之を視察す、午前十一時五十分ロスアンゲルス市に着、歓迎委員及当市日本人会会員有志者の出迎を受け、停車場に於て略式接見会に臨み、終りて一行は直に他の列車に転乗してサン・ピデロ港(当港はロスアンゲルス市と相俟つて将来有望の港湾たり、目下港内浚渫工事中なるも、其竣工の後は桑港を凌駕せんとする意気込なり)に到り、防波堤其の他港内設備を参看したるが、青渊先生には十八日サクラメントに於て犯されたる風邪の為め、気管支を痛められ、咳嗽頻りに起り、気分悪しければとて、停車場のレセプシヨンを終り、直に一行と分れてホテル・アレキサンドリアに投宿せらる、同行の熊谷医学士の診断に依れは、先生は風邪に犯され、且気管支加答児の兆候あれば、数日間は宴会等の出席を見合はせ加養せられたしとの注意あり、依て同氏の処方箋に依りて米国調剤師より水薬及含嗽薬を得て服用平臥せられ、夜亦安眠せられたり
  此日東京渋沢篤二氏より堀越氏及小生宛の信書到達す、伊藤公爵十月二十六日ハルピン停車場にて韓国兇徒の為めに凶変に遇はれたるは、為邦家真に哀悼の至に堪へざるが、尚聞く処に依れば是等韓人の悪漢は秘密結社を組織し、韓国に仇なす何れの国人も謀殺せんとの計画を為せりとのことなり、米国に於ては桑港辺に此結社の無頼漢多数散在せる由なれば、若しや先生を誤解するもの無きも保すべからざれば、十分注意せよとの文意なりし、先是デンバーに於ける米国某新聞紙は、先生の韓国に於ける勢力は故伊藤公爵に次す、先生は同公爵の後継者なりなどと吹聴し、又は加州某地に於て新規に開店したる一日本商店が、米国労働者の為めに爆烈弾を以て粉砕せられたりとの記事あり、そゞろに往年スチーブンス氏が桑港停車場に於て無頼の韓人の毒手に罹りたる事抔回想して、堀越氏と共に始終先生の身辺保護に付ての注意は怠らざりしが、今や此信書に接し一層責任の重且大なるを感じ、同氏と協議の上、来二十六日オークランドに到着の日より特に警官三・四名を聘傭し、先生外出の際は必ず同行せしむる事は勿論、堀越氏及小生も共に側を離れざる事とし、尚先生に篤二氏の来示を陳上し、且如上の方法を取りて先生の身辺を保護するに付ては、先生に於ても充分注意を払はれ度旨申入れたるに、先生には「天徳を予に生す、桓魋其れ、予を何ん」との孔夫子の言を引かれ、且東京出発の際既に一死以て国に報ぜん覚悟なれば、無用の行動を取る勿れと反対に戒告を受けたるも、さればとて其儘に為し置くは憂慮に堪へざる次第なりければ、同氏と協議の上先生には秘密に、桑港商業会議所より派出せられたるストールマン氏に事情を話して、オークランド到着の時より三名の平服警官を聘傭する事に為したり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.302-303掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.392-425

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第五節 ロスアンゲレス市
十一月十九日 (金) 晴
午前七時三十分頃サンタ・バルバラに着、一時間停車す。当地は石油原油産地として有名なる処なるが、海岸の風光又殊に美はしく、夏期は避暑客を以て満たさるゝと云ふ。漸次南方に向へるが為め、気候頗る温暖を覚え、満目の花木、我が晩春初夏の観あり。
正午ロスアンゲルス停車場に着。歓迎委員及羅府日本人会員有志者の出迎あり、停車場裡に略式接見を為し、同卅分、一同は他の列車に搭じ、直にサン・ピデロ港に向ひ、小蒸汽船に便乗して、防波堤及其他港内の設備を見物す。サン・ピデロ港は、ロスアンゲレスと相俟つて繁栄をなすもの、浚渫の後は桑港を凌駕するの港湾たらんとす。午後四時半再びロスアンゲレスに帰り、ホテル・アレキサンドリヤに入る。
此日渋沢男・紫藤二氏は、微恙ありて港湾廻覧に参加せず、停車場より直にホテルに入る。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.311掲載)


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 1909(明治42)年11月19日(金) 渋沢栄一、佐々木勇之助宛に書簡を出状。東京帰着時の扱いについて手配を依頼

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛 1909(明治42)年11月19日 (佐々木勇之助氏所蔵)

                    「十二月(ゴム印)拾壱日」
其後御清適奉賀候、老生無事今日ハ旅程加州ニ入りて当ロスアンゼルスニ到着仕候、此地ニて両日を送り、更ニ南下してサンヂヱゴニ掛り再ひ北向桑港ニ掛り、本月三十日ニハ必す地洋丸ニ乗組候筈ニ御座候
故ニ、当方より之出状ハ今回ニ止りハ、(マヽ)来月中旬ニハ帰朝之上拝眉万話之積ニ候、各地歴遊之状況ハ中々書中ニも相尽し兼候ニ付、帰京緩緩可申上候、随分色々と快然たりし事、困難と感せし事、面白き事、面倒なりし事等枚挙ニ遑無之候間、他日西窓夜雨ニ燭を剔りて、更を重ね候義も有之可申候
先日一書を以て佐竹氏ニ托し候分ハ、御落手之事と存候、右書中申上候一行東京帰着之際取扱方ニ付而ハ、定而大橋君又ハ篤二抔ニも御打合被下、恰好之御手配被下度候、実ハ大橋君へ老生より一書進呈とも相考候得共、既ニ中野君より申上候義ニ付相略申候、賢台より可然御伝声可被下候
帰朝之便船ハ地洋丸と相定め、既に桑港より一名之社員デンバー市迄罷越、夫々手筈相付申候、右ニ付而も東洋汽船会社之近況承合候処ニてハ、桑港ヘハ何等之訓令も無之由、又出立後浅野・白石・大川等よりも音信不通 ○中略 過日も紐克より申上候如く、米国より之債務完済ニ付而も、多分当方之助力ニて相済候事と存候、且老生出立之際桑港よりヱブリー氏も出京之由ニ付、其相談之模様及会社爾来之状況等ハ一寸なりとも申越候筈之処、寸筆隻紙たも無之ハ、全く会社ニ不忠実と論断候外無之、帰国之上篤と御相談可申上ニ付、御含置可被下候
其後金融ハ如何ニ候哉、先便ニも申上候韓国之近状別ニ心配之義ハ無之哉、兎ニ角来月中旬ニハ拝眉相伺候も、懸念之余一応申上候、右匆匆可得貴意如此座候 拝具
  十一月十九日         ロスアンゼルスニ於て
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下
尚々日下君より之来示拝見仕候、別ニ御返事差出不申候、宜御伝声可被下候、他之諸君へも御申添頼上候也
             渋沢栄一
  佐々木勇之助様
    十一月十九日
       ロスアンゼル市
         アレキサンドリア・ホテルに於て
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.318掲載)


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 1909(明治42)年11月19日(金) 渋沢栄一、穂積陳重宛に書簡を出状

渋沢栄一書翰 穂積陳重宛 1909(明治42)年11月19日 (穂積男爵家所蔵)

爾来毎々之信書被下、其時々落手拝読いたし候も、日々多忙真ニ寸暇を得す、乍思御疎情ニ打過申候
米国各地巡回之概況ハ、一・二回篤二まて申通候ニ付定而申上候事と存候、尤も貴方新聞紙にも時々記載之事と存候ニ付、御承知可被下候
○中略
実業団之行程も、最早九分通り相済ミ、当ロスアンゼルス市ハ明日ニて打上ケ、従是サンヂヤゴニ罷越し、更ニ北向して廿六日ニハ桑港着三十日ニハ無相違地洋丸乗組之都合ニ御坐候、到処之饗応と演説と、工場其他之見物ニハ、随分困難と申位ニ候、幸ニシヤトル市より今日まて四十五・六ケ処、一回も欠席なく勤続せしハ、自分なから驚入候位ニ御坐候、果して両国将来之交誼ニ親善を増し候哉否難測候得共、各地之商工業、又ハ政事界之人々にも相応之良観念を与候事ハ自信罷在候、右等を以て老生最後之務と覚悟致候事ニ候、御諒察可被下候、右来示之御答まて徐\々如此御坐候 不宣
  十一月十九日ロスアンゼルスニ於て   渋沢栄一
    穂積陳重

○下略
             ロスアンゼル市
  穂積陳重様     アレキサンドリア・ホテル
                渋沢栄一
十一月十九日
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.319掲載)


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 1909(明治42)年11月19日(金) 加州分遣隊視察記(渡瀬農学士稿)

渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.435-436

 ○第一編 第八章 回覧日誌 西部の二
     第十二節 桑港附オークランド
  加州分遣隊視察記          渡瀬農学士稿
[前略] 翌十九日[18日?]早朝ドールマン氏始め多数の桑港歓迎委員と共に、桑港を発してサンノゼ市に至り、商業会議所議員其他の歓迎を受け、懇切なる案内の下に、果物乾燥場、及び場主プラスヲン氏と共に其宏大なる種子採収を見、此処にて同胞の種子栽培業に従事せるを実見し、広大なる果実園を過ぎ、正午中野会頭及び加藤辰称の両氏はサンノゼ駅にて本隊に合し南博士及び余は尚ほ農園及び園芸に関する事項を調査し、夕刻デルモンテに於ける本隊と合す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.356掲載)

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 1909(明治42)年11月19日(金) 日本への発電「モルモン宗の歓迎」(竜門雑誌)

竜門雑誌』 第259号 (1909.12) p.40-49

△モルモン宗の歓迎(ローサンゼルス十一月十九日発電)
十六日は終日列車内にてロツキー山脈中の絶景を賞し、愉快なる旅行を続けつゝ、十七日午前無事ソルト・レーキに着、彼の有名なるモルモン宗本山の歓迎を受け寺院管長スミス氏に会見す、夫れより市内及兵営等を観覧し、直ちに出発し、其途上サクラメント、サンジヨース等に立寄る予定なりしも、之れを省略して十八日午後四時デルモントに着、同地海岸の風光絶佳なる個所を撰びて、セブンチーン・マイルス・ドライブ試み、夜に入りてはデルモント・ホテルに立寄り、夫れよりローサンゼルスに向ひ、十九日午後同地着、直ちにサン・ペドロ港に赴き、汽船にて同港防波堤を巡覧、夕刻ローサンゼルスに帰り、アレキサンドリア旅館に入る、夜間は一同休憩せり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.322掲載)

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