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ぶろぐ・とふん

2016-11-25

ブッダ・カフェ 第67回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第67回


 本日11月25日(金)、ブッダ・カフェを開催します。


ブッダカフェはいつもどおりです。どうぞ気楽に来山ください。


11月25日(金)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


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2016-11-23

サカキトモコ麦わら彫刻展 苞(つと)と種子(たね)と

 未明近く、長谷川四郎の「犬殺し」という話を読んでいて、次のような件りに出会い、鉛筆で思わずくっきりと目印しをつけた。


 雲一つなく、鳥影一つない、明るい空が眼から入って来て、私たちを一杯にした。(中略)遠くの方には一群の樹木があって、そこには暗黒がひそんでいた。その深深とした静かな闇のまん中には、一本の木があって、林はそれを中心として円周を描きながら少しずつ生長しているように思われた。そこには、この線路の上を流れている人間の時間とは、また別個な非常に長い時間がゆったりと流れているように思われた。そして、それら樹木たちの一番小さな孫のような若い白樺の木が何本か、林のへりに垂直に立っていて、重なり合った木木の暗を背景にして、白くほっそりと浮び上って見えた。それは一見荒涼とした、この自然の中に、何か非常に優しい、美しい微妙なものがあることを示していた。

           長谷川四郎「犬殺し」(『長谷川四郎作品集1』晶文社1966年


 長谷川四郎は敗戦後、満州ソビエト軍捕虜となり、5年近くをシベリアで抑留を受けた。「犬殺し」は、その抑留の最後の時期の出来事を描いている。「線路の上を流れている人間の時間」とは、貨車に乗せられて、行き先も告げられずシベリアの大地を延々と移動する途上の、漠然とした不安に繋がれた彼らの境遇を示している。目路遥かに聳りたつ林が、自然の法則に従うかのようにように円錐状に盛りあがっていたからといって、人間の境遇などとは無縁のことだ。だが、彼が白樺の若木に見とめた「何か非常に優しい、美しい微妙なもの」までが、はたして無縁と言えようか。

 「何か非常に優しい、美しい微妙なもの」を、わたしは本から顔をあげ、未明のなかに思い浮かべていた。そのとき、ふと天井に吊られたヒンメリが目に入った。

 「ヒンメリ」とは、自然の恵みに感謝し、光の再生を祝うフィンランドに伝わる冬至祭の装飾品で、「12本の麦わらが一本の糸で平面につながれ、立体の正八面体」を作り、その幾何形体の組み合わせが無限のアラベスクとなって、自然の摂理種子、雪の結晶、巻き貝の螺旋など)をモチーフにしたような、繊細な造形を象っている。

 日本ではおおくぼともこさんが、ひそかに研究を積み、自ら製作もして、そのうえ紹介につとめたことにより、徐々にだが知られるようになった。

 我が家のヒンメリは、おおくぼともこさんが次男の誕生を祝って贈ってくださった。

 「火迺要慎」のお札や、祇園祭の粽などが家のなかに溶け込んで、もはやあることにも気がつかないように、我が家のヒンメリもあたりまえに、そこにあってひさしい。そして、ふとしたときそれに気がつくと、ありがたいと思う。そこに信仰の芽のようなものを感じる。なにに対しての信仰かと言われると、言葉に窮するのだが、それが「何か非常に優しい、美しい微妙なもの」であることは確かだ。


 そんなことを考えていた折しもおり、おおくぼともかさんから個展の知らせが届いた。


 サカキトモコ 麦わら彫刻展

 苞と種子



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 会期|2016年12月3日(土) - 2017年1月9日(日) 水曜日休館

 年末年始休業期間|12月28日(水) - 2017年1月4日(水)

 会場|まつだい「農舞台」ギャラリー

    越後妻有 大地の芸術祭の里

    新潟県十日町市松代3743-1

 開館時間|10:00 → 17:00(最終入館/16:30)

 料金|一般600円/小・中学生300円 含・まつだい郷土資料館入館料


 STRAW MOBILE HIMMELI

 


 「サカキトモコ」と見馴れない名前が付されていたので、ともこさんに問い合わせたところ、昨年、自身のヒンメリ作品を「麦わらの彫刻」として捉え、さらに今年に入って創作活動名を「サカキトモコ」としたそうだ。

 なるほど、ヒンメリという信仰のなかから生みだされた形が、ひとりの「サカキトモコ」という名の女性によって、一個の造形としてつかみなおされようとしているのかと感じた。しかし、それは決して「なにかを生みだそう」という姿勢ではなく、「何か非常に優しい、美しい微妙なもの」を見とめよう眼差しから紡がれた、自然の摂理に寄り添う造形なのに違いない。

2016-10-30

ブラウン管の青空

 法事を終えて、檀家のおじいさんの運転で駅まで送っていただいた。そのあいだ、思いもかけず貴重な話を伺えたので、移動の電車々中、忘れないうちに覚えを採った。

 おじいさんは、八十歳。先月、奥様を亡くされて、めっきり背を丸めて弱々しくされていた。運転にも心許なさが伴なった。実際ヒヤリとした。

 しかし、わたしが「Oさんは、どこにお勤めだったのですか?」と尋ねると、おじいさんは心なしか背筋を伸ばして、「わたしはね、松下に居たんですよ。今のパナソニックですね」と、ハンドルの捌きにも滑らかさが生れていた。

 おじいさんは松下電器産業でブラウン管の開発部門に居た技術者だったそうだ。

 テレビ元年と言われた皇太子・美智子妃殿下のご成婚パレードの実況中継が行われた1959年入社。年齢を80歳から逆算すると、おじいさんは23歳だった。テレビ時代を、正真正銘、ブラウン管の向こうに歩んだ人である。

 テレビの開発事業は、1964年に控えた東京オリンピックに向けて、カラーテレビ放送の実現を目指した。そして、実際におじいさんは日本で初のカラーテレビ放送に立ち会う。それはオリンピックの開会式、競技が絶え間なくテレビ画面に届くという生中継の臨場感、今では当然すぎて、その驚きが測り知れないのだが、おじいさんは仕事を忘れて、同僚や上司たちと共に、テレビを取り囲み中継を見続けたという。

 東京オリンピックの開会式は晴天に恵まれた。それは、江藤淳が『成熟と喪失』の中で、冷静な眼識を逸脱し、その光景に思わず涙ぐんだと感情を現したように、青空のもとの開会式は、そこに居合わせた人たちをして感慨無量とさせるイベントだったのだろう。

 わたしは、おじいさんの「その日が晴天だった」という指摘にハッとした。テレビカメラの絞りを最大限に絞り込んでカメラを回せたので、本当に最高の映像だったというのだ。それはカラーテレビの将来を開明するような青空だったのだろう。当時のテレビカメラの性能が、天候の明暗で雲泥の差が出るというのだった。

 わたしは、もし東京オリンピックが曇り空のもと執り行われたのなら、江藤淳は、いやその場に居合わせた人たちが、日本の戦後復興を願ってやまなかった人たちにとって、それはもっと違った印象を残したのではないかと思った。

 「その日は晴天でした。」

 カラーテレビのブラウン管に映る、1964年10月10日の青空を、おじいさんの言葉に思い浮かべてみた。


付記


おじいさんがブラウン管に見たのはこの映像だろうか。




https://www.youtube.com/watch?v=21ZG9oh7VX8

2016-10-24

ブッダ・カフェ 第66回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第66回


 本日10月25日(火)、ブッダ・カフェを開催します。


 今日はトビラノが他寺の報恩講へ出仕のため不在ですが、ブッダカフェはいつもどおり開いておりますので、どうぞお気兼ねなく来山ください。


 どうぞみなさまのお越しをお待ちしています。


10月25日(火)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


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2016-10-16

ひとふでの雨

 多田道太郎さんが夢に現れた。

 こんなことは滅多にないので、夢の日記を記そうと思う。

 きのうは徳正寺の本堂で「百年のわたくし」と題した詩の朗読会を催した。わたしも聴衆を前に、以前今江祥智さんの四十九日の様子を記した詩をつまづきつつ声に読んだ。その詩に触れられた、今江さんの若書きの詩も朗読させていただいた。

 その余韻を引いてか、多田さんが夢に現れたのではないかと思う。

 今朝は秋空がひろがっていたのに、暮れ方に夕立があった。帰ると告げた時刻にまだ間があったので、わたしは混みあうスターバックスで読みさしの本を、コーヒー一杯飲むあいだ読んでいた。小一時間のあいだに陽はかたむき、四条通りを横断しながら東山を眺めていると額に雫が触れた。対岸の屋根のかかる歩道に入り、道路のアスファルトを見やるとポツポツと雨滴が弾けた。それは秋だというのに、夕立の降りだしだった。

 夜になって、子どもたちを風呂に入れていると波板を叩く雨音が聞こえた。先ほどの雨は夕立ではなく、夜分にかけて降りだす前兆だったのか。我が家の風呂場は、狭い庭を降りた軒下に洗い場があるだけの露天で、先日、Sちゃんが引越しに際し譲ってくれた、排水栓のついた金盥を深くしたようなものを、湯槽の代用にしている。七歳と三歳の子どもにはちょうどいいが、わたしが浸かると座るのにやっとで、座ると同時に湯が溢れる。露天に身体を屈して湯に浸りながら、子どもの声と雨の音を聞いた。おそらく冬にかけて、この露天風呂は寒くて使えまい。

 今夜、妻は出張していて、子どもたちに絵本を読みながら、床についた。兄が寝つき、やがて弟が眠りに落ちそうなところで、わたしも記憶が途絶える。夢は、そのときおとづれた。


    †


 雨はひとふでの言葉で降り始めた。わたしはTさんを連れて、町と接する低い山に、どこかの門跡寺院石垣が、杉木立のなかに見え隠れする山沿いの道を、傘もささずに歩いていた。Tさんは黒っぽいコートを着ていた。

 わたしがここを曲がろうと言ったのか、Tさんが言いだしたのか定かに覚えていないが、古びた住宅街の裏道を、われわれは左に折れて入っていった。洗濯物など干した白茶けた家の裏口がわびしかった。道をまた左に曲がると、白いペンキで塗り固められた人気のない小さな教会が現れた。その教会は、路地裏の教会といった塩梅で、その密集した家々の住人たちだけのためにあるように見えた。石段をあがったポーチの扉は開かれていて、内陣の奥に聖壇が見えた。小さな木造の礼拝堂である。以前、ここを訪れたような記憶がある。それは十代の、わたしがTさんと出会った頃のように思えた。また、その教会は、かつて武田泰淳上海の裏町を彷徨って見いだした植民地時代のシナゴーグ(?)を思わせた。しかし、その礼拝所は、信者の訪れもなく寂れきっていた。

 Tさんとわたしは教会を素通りし、営業が終わった公設市場らしき暗いアーケードをくぐり抜けると、陽の射す町角に出た。

 その町角に、巨大なモビールが高い天井から目の高さにまで吊りさげられる、ホテルのロビーのような空間が見えた。モビールは三日月形の青いガラスを組み合わせて複雑に作られたもので、青い紫陽花の花のようでもあり、なかなか壮観であった。われわれはひんやりとする大理石の床を踏んで、そのロビーに入った。

 青ガラスの紫陽花を周りこむと、その奥はスーベニアショップのようになっており、Tさんは色めき立って何か思い出の品を探しはじめた。それはTさんの幼年期に関わるものらしかった。

 Tさん曰く、この場所はTさんが子どもの頃はもっと賑わっていて、舶来雑貨がいろいろと取り揃えられていた。Tさんは、そうした品々のなかから手品の道具を見つけて、よく練習したという。不器用に見えるTさんが、と意外にも思ったが、山田稔さんの回想に、若いTさんが札束を指先ではじいて数える姿が描かれているので、じっさい手品くらいこなしたのかもしれない。しかし、これは夢の話である。

 Tさんはあるものを探していた。Tさんは黒ずんだ銀食器が乱雑に入ってる木函の中からスプーンを取りだして、それを右手に握りしめ、ブツブツと小言をつぶやいて歩きだした。そのスプーンがなにか幼少期の記憶とむすびつく大切なものらしかった。

 銀の匙を握りしめたTさんは、建物のトイレに駆け込んでいくので、わたしも後を追った。建物には人気がなかったはずなのに、不思議とトイレは混み合っていた。

 Tさんがトイレの個室に消えたところで夢は途切れる。


    †


 この夢はリアルさがともなった。多田さんとの思い出に重なる節もあった。

 高校三年生の時だったと思う。京都駅新幹線構内で多田さんと会った。わたし東京に行くところ、多田さんは名古屋への所用で、これから新幹線に乗るのだという。

 座席の隣が空いていたので、指定席だったが、わたしは多田さんの横に座った。先ほど新幹線のホームに上がる階段で、亀山巌さんの訃報を知った衝迫が、多田さんから亀山さんのことをもっと聞きたいと思い、その乗る車両まで付いていったのだろう。あるいは名古屋まで話していこうと言われたのか。

 亀山巌さんは、多田さんが主宰する現代風俗研究会(現風研)の会員で、現風研が例会会場を法然院から、わたしの生家の徳正寺に移ったことから、亀山さんが寺へ来山された。まだ中学生だったわたしは、亀山さんに、母のコレクションの燐寸ラベルや、祖父の蔵書だった今和次郎と吉田謙吉の『考現学 モデルノロヂオ』をお見せして、緊張しながらお話を伺った。宇野亞喜良さんの小画集を送って、一通だけお返事をいただいたこともある。その後、亀山さんが稲垣足穂の盟友であり、春山行夫と詩誌を作っていたという来歴を知るにおよび、亀山さんに詩人たちとの交流を聞きたいと願って、現風研に亀山さんが現れることを俟った。しかし、亀山さんが現れることはなかった。たしか左手に、ドクロを象った銀の指輪を嵌めておられた。質疑応答で、亀山さんが「ここへは冥土土産に話を聞きに来た」とかならず前置きするのが耳に遺った。

 亀山さんが亡くなったのは一九八九年で、わたしがタルホやハルヤマのモダニズム詩に惹かれはじめた頃である。話は聞けなかったが、程なく愛読するようになった、吉田一穂の『海の聖母』、田中冬二の『青い夜道』(ともに処女詩集)の装幀家と出会えたと思うと、今も胸はいっぱいになる。

 車中、多田さんと亀山さんの話をしたのだろうが、残念なことになにを話したか覚えていない。しかし、亀山さんの死が念頭から離れなかったためか、あるいは一人娘さんを喪われて銷沈とされていたころだったからか、多田さんが「ジンくん(わたしの本名)、蓮如の白骨ノ御文を教えてくれへんか」と問われた。すでに檀家参りを手伝っていて、「白骨ノ御文」を読みあげたことはあったが、諳んじるほどまで達してはなかった。「夫 人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ」「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」「ステニ无常ノ風キタリヌレハ」と切れ切れに覚えている節を伝えた。それだけの言葉でも、多田さんは「そうか」と言ってうなづいてくださった。

    †

 昨日の「百年のわたくし」で、わたしは「白骨ノ御文」を読みあげた。「百年のわたくし」について書いたイントロダクションに白骨の御文が引いてあったからだ。


わずか数分が一時間に感じるときがある。

また一日が瞬く間に過ぎる。

ひとは「ものさし」としての時間に振り回されているようで、じつのところ、個々に「ものさし」をかざして時間を振り回しているのかもしれない。

朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ

蓮如「白骨ノ御文」

「百年のわたくし」とは、「わたくし」というフレームに時間を捉えてみようという試み。しかし、百年という時間が寿齢として計測可能となりつつある現在、時間を「わたくし」という枠から解き放つ試みにも通じる。それは別の言い方をしてみれば、百年の振れ幅を持つ「わたくし」という振り子を、過去にも未来にも振ってみようというものである。

『百年のわたくし』(りいぶる・とふん/二〇一六年)

 

 今では諳んじることも出来るようになった白骨ノ御文を、「朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ」の箇所に差しかかって、「わたくし」という振り子は、二十七年前の過去に振られた。

 新幹線の客室扉の向こうに見送った多田さんと、トイレの個室に消えた多田さんとが、いまこれを書きながら重なって感じられる。

(二〇一六年十月十六日記)