信長と天皇

昨日の続き。
朝まで生テレビ」で田原総一郎が、小泉首相の「あの人」発言について語ったとき、出演者が「信長」とか言って、それで田原氏が、「そう信長」みたいなこと言ってなかったっけ?昨日書いたように、半分寝ながら見てたんで自信ないけど。まあ、そういう会話があったということで話を進める。


前に書いたんだけど、かつて織田信長は「勤皇家」とされていた。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20060605/1149507928
いわゆる皇国史観というやつ。正確に言えば、皇国史観の学者だけが唱えていたわけじゃないけれど、江戸徳川政権を否定するのに、前時代である、織田・豊臣を持ち上げるとか、いろいろな要因があって受け入れられたのだろう。


ところで、徳川将軍が実際に天皇を軽く見ていたかというと、そういうわけでもない。将軍は天皇から任命されるのだし、「尊王論」は幕末に広く流通していたので、幕府も「尊王」であった。特に最後の将軍、徳川慶喜は水戸家出身であり、尊王論大本山だ。しかし、幕府の尊王論は、天皇を上に頂き、実際の政治は武家が行なうという形での尊王論であり、「王政復古」を認めるものではなかった。そんなわけで、天皇による統治を求める側からすれば、そんな尊王は認められず、最終的には「朝敵」となってしまった。


一方、「勤皇家」であった信長は、戦後一転して否定されるようになり、「朝廷を軽んじていた」「朝廷と対立していた」、そしてあげくに「王権を簒奪しようとしていた」とまで言われるようになってしまった。


しかし、よくよく考えて見れば、武士が政治の実権を握っている限り、朝廷と意見が対立することは構造上必然であり、とすれば、鎌倉初代将軍源頼朝から、執権北条氏、足利将軍、織田、豊臣、徳川と、全てが程度の差こそあれ「朝廷と対立していた」んですよね。


だから、誰が忠臣で、誰が不忠かなんて、それは都合により、どっちにだってすることができてしまう。あえてそれを評価しようとするなら、比較して「AよりBの方が朝廷を重んじていた」という相対的なものにしなければならないだろうけど、時代や状況が違うものを同じ物差しで測るのは無理があるので、容易なことではない。ましてや一人のみを調べて、「朝廷と対立していた証拠がある」とか「天皇の言うことを聞かなかった」なんて言っても、王権を簒奪しようとする計画の証拠が見つかったとかいうのならともかく、単なるトラブルや、朝廷が不満を日記に書いていたとかいったことで、その人物を評価するのはいかがなものかと思うんですよね。