同じ話なのに正反対の解釈が出てくる件(信長と天皇)

某日本史系ブログを見ていたら、織田信長正親町天皇に譲位を迫ったかのように書いてあった。


この説を最初に誰が言い出したのか知らないけれど、俺は今谷明の『信長と天皇』(講談社)で詳細を知った。今谷氏は信長と朝廷が対立していたという前提に立ち、それに都合のいい話を探してきて、都合の良い解釈を「強引に」して、信長と朝廷が対立していたと結論付けているというのが俺の感想。


『信長と天皇』には、こんなことが書いてある。

しかも天皇にとって幸いなことに、父後奈良も、祖父後柏原も、曽祖父後土御門も、譲位することなく天寿をまっとうしてきたという、三代百年に及ぶ立派な先例があった。天皇は、信長の申し入れに対し、「近例にないことだから」と拒否すればよかったのである。
信長も、それを押して譲位を強要するとなれば、特別な理由づけが必要であった。後土御門以降の途絶は、ありていに言うと、幕府の政策であった。譲位となると、仙洞御所の造営、即位、大嘗会の費用など厖大な財源を要し、応仁の乱後の幕府にその余裕はなく、結局、天皇は「崩御」まで譲位せぬ、という慣例が定着したのである。

天皇は譲位したくなかったのだという立場であればそういう風に見えてしまうのだろうが、見方を変えれば、全く異なった結果になる。天皇は幕府の都合で三代にわたって譲位することができなかった。信長の登場によってやっと念願の譲位ができることになったのだと。


また天正9年、この年が金神(こんじん)なので譲位を延期したいと朝廷から申し入れがあった件について、

金神とは、陰陽道にいう、方位の神として恐れられた民間信仰の呪神で、?金神七殺?という忌むべき方角があり、丙と辛(天正九年は辛巳)の歳は、子牛寅卯の方位を犯して移転その他を行うと祟り七人に及ぶという。誠仁の二条家旧宅から内裏の方角は、まさに艮にあたっている。
このアイディアは、小御所会議に列席していた陰陽師あたりが言い出したものに違いない。信長への名目としてはまことに絶妙な口実があったものである。

と書いている。譲位を拒否する「名目」として金神を持ち出したということだ。しかし、この年が金神であることは事実であり二条家旧宅から内裏の方角は忌むべき方角なのだ。であるならば、本気で金神だから延期したいと考えた可能性もあるではないか。なぜ「名目」だと決め付けるのだろう?当然のことながら、金神が迷信だからというのは理由にならない。朝廷が信じていたか否かが問題になる。ところがその肝心な点については触れられていないのだ。
金神(ウィキペディア)


少し見方を変えただけで、いろいろな疑問が浮かびあがってくるのだ。ちなみに俺は「融和説」を支持する。


ウィキペディアには両論併記してある。
正親町天皇の譲位問題(正親町天皇)

朝廷政策(織田信長)



それにしても同じ話に「正反対」の説があるのだから、歴史(だけではないが)というのは面白いし、怖くもある。