宇野重規×山本一郎対談への微妙な違和感

「保守」「リベラル」で思考停止するのはもうやめよう〜宇野重規×山本一郎対談(1) | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


宇野重規氏の著書『トクヴィル 平等と不平等の理論家』は読んだことがある。良い本だと思う。

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)


この対談も良質な保守についての解説書に書いてあるようなことが述べられている。にもかかわらず微妙な違和感が…


どの点がそうなのか考えながら書いてみる。


まず『「保守」「リベラル」で思考停止するのはもうやめよう』というタイトルに違和感(編集部がつけたんだろうけど)。こんなタイトルだと「保守とかリベラルとか関係ない」みたいなことを言ってると感じてしまう。だが対談の内容はそういうものではない(と思う)。そもそも「保守」の対義語は「革新」であろう。こんなタイトルをつけた理由は何かと考えてみるに、

 改憲=保守、護憲=リベラル・革新。あるいは、与党は保守で野党はリベラル・革新。そういったイメージが定着している。一方、「護憲ならば保守で、改憲するのは革新ではないか」という指摘を目にすることもある。

とあるから、「保守」とは「何も変えないこと」、逆に「リベラル=革新」は「改革に積極的」というイメージがあるけれども、実際は違うということを言いたいのかもしれない。でもそうであってもこのタイトルは不適切なように思う。


で、1ページ目にもいろいろ言いたいことがあるけど、「保守」とは何かという基本的問題にとっては重要ではないので略。ただし一つだけ指摘したいのは、山本氏の

日本社会が目指す先は「高福祉高負担」ですか、それとも「低福祉低負担ですか?」というような分かりやすい二元論でさえも議論として成立しない状態になると、なんのための2大政党制なんだと思ってしまいます。

という発言なんだけれど、俺はは必ずしもイデオロギーの異なる2つの集団が必要だとは思ってない。俺の考える二大政党制の最大の意義は独裁を防ぐことであり、前にも似たようなこと書いたけど、たとえばコンビニの一社独占は何かとよろしくないから複数あったほうがいいというようなものだ。セブンイレブンとローソンと基本的には品揃えその他が似ていても、お互いに競争してそれなりの特色を出す。そういう感じでもいいんではないかと思う。実際米国共和党民主党の違いは本来それほどなかったし、英国のホイッグ(後の自由党)とトーリー(後の保守党)の差もあまりなかったと聞く。なお保守主義の父エドマンド・バークはるホイッグ党


で、2ページ目

宇野:「保守とは何ぞや?」と聞くと、皆さん必ずバークを出してきますよね。彼がフランス革命を批判したことから、「抽象的な理念による革命はいけなくて、漸進的な改革を良しとするのが保守だ」というようなことをおっしゃるんですが、「本当にバークって、それだけを言った人なのかな」と思うことも多いんです。

 というのも、バークはとても深い人物なんですね。体制派に見える側面もあるが、実はそうでもない。彼はアイルランドという、グレートブリテン(以下、英国)の中ではマイノリティの出身で、王様とはケンカするし、英国と敵対しているはずのアメリカの独立革命は擁護するし、さらに東インド会社のような植民地支配に対しても文句を言ってしまう。

宇野氏は「それだけを言った人なのかな」として例を持ち出すんだけれども、これも何度か書いたことだけどバークがフランス革命を批判したのはそれが「抽象的な理念による革命」だからであり、アメリカの独立革命を支持したのは「抽象的な理念による革命」ではないとバークが考えていたからである。要はバークが反発したのは単一の絶対的な権力による支配である。したがって王の絶対的な支配に抵抗するし、理性によって絶対的な正しさがわかるという考え方にも反発したが故にフランス革命を批判し、そしてイギリス政府によって自治をおびやかされているアメリカの革命を支持したのである。


宇野氏も書いている。

 バークにとってフランス革命が気にくわなかったのは、「答えが一つ」だったからだと私は考えています。つまり、様々な声を許すのではなく「これが正解だ」「これが歴史の進歩だ、社会の発展だ。だから作りなおせ」というのがイヤだったんだと思います。

だから宇野氏のそれはわかっているんだと思う。ただ、よく知らない人が「本当にバークって、それだけを言った人なのかな」というのを読んで、こういう理解ができるかといえばかなり難しいのではないかと思う。「それだけを言った人なのかな」ではなくて「それはどのような考えからきているのか」という形でバークの思想の根本にあるものを説明すべきではなかったかと思う。


次に

宇野:つまり、「自分と意見が違うやつは出て行け」みたいな態度は「答えは唯一だ」という独善的な発想で、それは本来の保守思想じゃないんですよね。

保守が多様性を尊重するというのはどういうことかといえば、唯一絶対のものは存在しない、あるいは存在したとしても人間の理性には限界がありそれを理解できないという考えがあったからだろう。そういう考えがあればどういうことになるかといえば、人が頼るべきものは伝統や慣習ということになる。で、その伝統や慣習は民族や宗教や地域や家族によって異なる。ゆえに多様性を尊重するということになる。多様性を尊重するためには絶対権力による介入を最小限にして自治を尊重しなければならない。


ところが宇野氏の言ってる多様性というのは、議論における異論を尊重するという意味に受け取れる。だとしたらそれは保守の尊重する多様性とは意味が異なるのではないかと思われる。そういう意味であれば、たとえばある共同体が尊重している伝統や慣習を何者かが否定したら、その意見を尊重しなければならなくなるのではないだろうか?それこそが保守の最も嫌うことであろう。ましてや否定理由が「抽象的な理念」によるものであったとしたら保守の思想とは全く相容れないのではないか?


もちろん保守が議論において、自分と意見が異なるものを切り捨てるというわけではない。ただ、それはどうしてかといえば、保守思想によるものというよりも、自分と意見が異なるものに耳を傾けなければならないということが伝統・慣習として存在し、保守はそれを尊重するからではないだろうか?いや、この点、どこかで解説してるものを見た覚えがないのだけれども、俺はそのように思うし、宇野氏の言ってることには違和感を覚えるのである。



次に、上にも書いたけれども「漸進的な改革」について。

 要するに、社会が変化しているということを認めながらも、急速な変化に対してはスローダウンしてブレーキをかけ、検証しながら、前に進んでいくということでしょう。

まず言いたいのは「進む」というのは「進むべき方向」がわかっている時に使うものであろう。どっちが前かわからないのにどうして進んでいることがわかるだろうか?革新は進むべき方向がわかっている、少なくとも現時点で理性的に考えた唯一の答えが存在すると思ってる。しかし保守は人間の理性には限界があると考えている。だから進むべき方向はわからない。もっとも共同体内の伝統や慣習によって共同体成員に共有された暫定的に進むべき目標があるという意味なら「進む」ということもあるかもしれない。あるいは単純に時間が「進む」中で変化する世の中に対応するという意味かもしれない。しかし一般的には「進む」とは最初に書いた意味で受け取られるのではないか?この「進む」という言葉は保守・革新思想を理解する上で最重要なものの一つであると思うので、どういう意味で使っているのかきちんと説明すべきであろう。


なおバークは政治家として大胆な改革もやっているとどこかで読んだ記憶がある。「漸進的な改革」というと少しずつ変えていくというイメージがある。しかし伝統・慣習にのっとっていれば大胆な改革をしても保守思想から外れるものではない。宇野氏がそれを理解しているとすれば、この「漸進的」という意味についてもまたきちんと説明するか、または別の言葉に置き換えるべきではないかと俺は思うのである。