虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「君と歩く世界」

原題:De rouille et d'os
監督:ジャック・オーディアール
脚本:ジャック・オーディアール/トーマス・ビデガン



 あのね。


 まず書いておきたいのはですよ。僕、もうちょっとこう。「優しい」映画だと思っていたんですよ。「事故で足を失った調教師の女性」が立ち上がる物語・・・と聞くと、哀しい運命にうちひしがれる女性と、彼と出会い、彼女に献身的に尽くす男・・・みたいなのが、まー、普通の「感動」系映画のテンプレじゃないですか。なんか予告編とか見ていて、勝手にそんな映画と思っていたんですよ。





 ・・・・うん。


 でもね、違うんですよ。
 この映画にあるのはね。「セックス!闘争本能!肉体破壊!・・・でも子供を失いかけるのって、怖いよね」という流れとしてはね。そういう映画ですよ。主人公は女性の方じゃなくて、職も金もなくて姉夫婦のところに転がり込む格闘技経験のあるマッチョ男(マティアス・スーナールツ)とその息子でね。
 その男と、調教師(マリオン・コティヤール)が出会うのも、男が日銭を稼ぐ用心棒やっているクラブ?で調教師が男とケンカするのを仲裁に入って、とりあえず彼女を家まで送る、みたいな、ロマンチックでもなんでもない出会いで。その時には彼女にはカレシもいるわけ。でもその時に、彼女の中ではすでに品定め出来てる、みたいな描写があるのね。カレシと用心棒の彼を思わず比べてんの。
 ここでもう、「ぞわっ」とするのね。男の観客からすると。「怖い」という。


 で、予告編で見た足を失う事故があって。見知らぬ男とケンカする男勝りの女調教師もね、何があったか知らないけど前のカレシとはすでに別れてるみたいで、さすがに絶望にうちひしがれて引きこもってるんだけど、ちょうど用心棒の男が残したケータイ番号のメモ見て電話するわけです。
 そうすると用心棒の男が来るわけさ。で、彼は言うんだ。「出かけようぜ」と。「外に出ようぜ」と。調教師は返す。「私はそんな気分じゃない。」でも強引に男は彼女を日の光の方へと引きずり出し、彼女は連れ出された海で、今まで閉ざしていた心と体を解放する。


 で、男は格闘技経験もあるから、はじめは夜警とか用心棒とかをやってるんだけど、ストリートファイト稼業を始めるのよね。でまあ、そこになぜか調教師の彼女を連れ回して、彼女もその彼の姿にほれぼれとしちゃう、みたいなね。で、すっかり興奮さめやらぬ彼女は、遠回しに「最近セックスご無沙汰だから、使い物になるかわかんないのよね」みたいなことを言う。男の方はジムでちょっと声をかけて速攻でセフレを作れちゃうくらいの豪傑だから、「じゃ、いま試すか」ってかるーく言って、行為に突入みたいなね。彼女の方が「え?今?」みたいな感じで。
 ロマンチックという言葉が死んでる。早い。そして軽い。で、女性のほうは心も体も劇的回復。すげーよ。


 見終わった時にね。思ったね。深い敗北感。そうだよな−。そうなんだよなー。結局女性が求めるのってこういう男なんだよなー・・・というのはすごく思った。


 いやまー、それは言い過ぎなのはわかってるんだ。わかってるんだけど、このある種の「即物的本能に生きる子連れ主人公」と、「事故で足を失ったやさぐれた美人シャチ調教師」が出会ってね、女性は絶望から立ち上がるのに即効性があるのは、肉体を回復する方向に導く男に、女性として「見られ」「扱われ」ることなんだ、という一点突破なんだよね。
 すごいな、とは思ったよ。ここまでまざまざとそれを見せつけられるとね。黙るしかないよね。「愛」だのなんだのという能書きとは、一線を引いた映画だと思う。「ニンゲンは結局中身だ」みたいなところとは別個のところでね、こういう「動物」としての本能が一番「心にも体にも効くんだ」みたいなね。


 「あ、そうなの?」というしかないよね。


 いや、あのね。僕みたいな「恋愛弱者」から言わせると、この映画、別次元の映画でさ。共感とかそういうところからすると、もう「エリート」の噛み合いでさ。もう、共感するところがない。だって、みんなこんな風になりたいけど、なかなかなれない高みの2人の話で。
 しかもこれ、一応「女性映画」なんだぜ。俺、もう何も言うことないよ。


 で、まあ、そんな他の女と当たり前のようにまぐわる男と彼女の痴話げんかや、あるトラブルからビジネス上のパートナーになる話を挟みつつですよ、終盤は親子の話がメインになっていく。あるすれ違いから姉夫婦の家を追い出された男は、一念発起、ボクサーとして生きようと決心し、息子を姉の家に置いて、出て行くんだけど、久しぶりに再会した時に、事件が起こる。
 そこで、男は初めて「喪失」しかける経験をすることで、本当に「必要」なものを知るんだけど。


 しかしまー。しかしまー。負けですよ、負け。「こんな風に生きられないもん。無理無理。ばっきゃろー。」と思いながら劇場を後にしましたよ。ええ。(★★★)

「DRAGON BALL Z 神と神」

監督:細田雅弘
原作:鳥山明
脚本:渡辺雄介



 映画の評価としては、★★★。だけど面白かったー。


 映画としてはともかく、すごく正しい「鳥山明」のアニメを見た、という感想でね。


 破壊神ビルスという「宇宙最強」の存在が出てくる。そいつがね、一度寝ると数十年眠り続ける、「こち亀」の日暮とか、「ケロロ軍曹」のアンゴル=モアみたいな。顔が毛のないチワワみたいな神様なんだけど。界王様の星にいたスーパーサイヤ人3という最強モードの悟空を一蹴するくらい、つおい。
 その破壊神のノリがね。軽い。無邪気、故に悪意にも破壊欲にも純粋、という存在。彼は夢で「スーパーサイヤ人ゴッド」というのを見たというんで、スーパーサイヤ人がたくさんいる地球へやってくる。で、悟空を倒したそいつが、最初にサイヤ人の王子・ベジータのいるカプセルコーポレーションにやってくる。で、そこで行われてるのが、彼の妻ブルマの○○歳の誕生日パーティで、機嫌を損ねると地球をうっかり破壊しちゃうビルス様に、パーティの食事で機嫌良く丁重にお帰り願おうとする、という話になる。


 まー、正しいのは。話の中心をブルマに置いたこと。彼女が招集する、という名目ならとりあえず、個人行動大好きな主要な登場人物が全員集合する理由としては手っ取り早いことと、この映画の「裏主人公」はベジータで、「戦闘種族」の彼がなぜ丁重にビルスにお帰り願おうとするか、という理由付けとしても見事というしかない。
 そもそも「ドラゴンボール」の主人公は孫悟空ではなくて、ブルマであったはずなのよね。それが悟空の戦いがメインになると彼女の存在感はぐっと薄まるんだけど、彼女の存在なくしてドラゴンボールという物語は始まらなかった。

 で、どうやってブルマやその他サイヤ人以外の普通の地球人も参加しているパーティから、宇宙最強の存在を機嫌良く帰らせるかに、物語の大半をつぎこむ。このやりとりが、まー楽しいね。鳥山明が本来好きなのはこういう「ギャグ」の部分で。懐かしいピラフ軍団など「ドラゴンボール」初期のキャラまで引っ張り出してのコメディ部分が楽しい。ベジータビルスの一挙手一投足に右往左往する姿や、鳥山明が得意とする「貞操観念」落差ギャグなど、笑うというより「・・・おおー」と思わず唸ってしまった。正しすぎる。
 で、後半にようやく魔人ブウとの「しょーもない小競り合い」で戦端が切られ、戦闘系キャラは次々に戦力を喪失させられ、「スーパーサイヤ人ゴッド」の存在についての話になるんだけど。その誕生に至る過程に、1人の女性キャラが関わってくる、というのは新鮮な流れだった。あー、なるほどね、と思った。


 今回の新作、なにがいいって、「戦闘力」だけが問題とされていない、といないところでね。ビルスの存在ってもはや人1人でどうにか出来る域を超えてきてる。だからこそ、女性キャラを含め、新旧の様々なキャラクターに見せ場が作れるというのは、面白い発想だった。
 もちろん、悟空やベジータにもそれぞれ見せ場があって、それぞれに活躍するんだけど、そんな彼らもブルマには勝てぬ、という形で映画が終わる。俺はそこで、なぜか泣いていた。やっぱり、ドラゴンボールという世界には「ブルマ」は欠かせない、というところへ物語を帰結させる作り手の、ドラゴンボールの原作に対する深い「愛」を感じざるを得なかった。


 僕は原作の連載こそ読んだけど、アニメにはそこまで食いつかない、という程度の「熱心ではないファン」のつもりだったけれど、ここまで「正しい」ものを見せられると・・・人って泣くんだな、ってちょっと思った。素晴らしい「鳥山明」アニメだった。(★★★)