武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『栄養学と私の半生記』香川綾著(発行女子栄養大学出版部1985/5)


 今は亡き香川綾さんのことを「栄養学の母」と呼ぶ人がいるが、適切な言い方だという気がする。日本人の食生活に香川綾さんほど真剣に学問的に取り組んだ人はほかにいないのではないか。
 多くの料理教室や家庭で、何気なく使われている計量カップや計量スプーンを積極的に普及した人、女子栄養大の創設者、日本語のレシピを定性的なカンやコツなどの職人技から定量的で近代的な計量表記へと転換した改革者、と言えばその功績の偉大さを少しは実感していただけようか。そんな香川綾さんが86歳の高齢になって、ご自分の半生を振り返って書かれた自伝を紹介しよう。
 高齢ながら文意は明快、記述に張りがあり、エピソードの展開にも自慢げな諄さがなく、言いたいことがすっきり読み手に伝わってくる達意の文章、長年教壇に立ってこられた教育者としての面目躍如と言ったらいいか、なかなかの読み物に仕上がっている。
 香川綾さんは、この後さらに12年も生き98歳で亡くなるまで元気いっぱいに長生きされた方、予防医学に端を発した栄養学者の人生として、万人が納得する生涯を全うされた。どのように生きたら長生きできるかの、お手本のような人生だった。立派すぎて真似ることは難しいが、学ぶことは少なくない。食べ物に興味のある方には、是非手にとってみてもらいたい一冊。
 ①この本を読んで、香川綾さんが何故栄養学をライフラークとするにいたったのか、その理由がスッキリと納得できた。第1章の豊かで幸福感溢れる幼少女期、第2章の4年間の教師生活における苦い挫折、第3章の医師を目指した東京女子医専時代、ここまでを生涯の前期として押さえるのが妥当だと思うが、この前期の記述、刈り込まれて整理されていることとは思うが、香川綾誕生のプロローグとしてよくまとまっている。
 ②医師を目指す勉学の過程で、予防医学としての栄養学に目覚め、胚芽米の研究と普及活動を経て女子栄養学園の創設へと突き進む。4章と5章が栄養学者としての自己確立期、戦前の迷妄に満ちた時代を一直線に、栄養学の意義に目覚め、研究と実践に打ち込む一途さには頭が下がる。迷いなく一つのことに打ち込める人生は羨ましいほどの輝きに満ちている。
 ③6章から7章までの戦争と敗戦、戦後復興期をたくましく生き抜き、香川栄養学をさらに充実させ、女子栄養大学を軌道に乗せてゆくプロセスには、まさに女傑の名にふさわしい迫力がある。栄養学が単なる知識としての学問に納まることを拒み、頑ななまでに実践的であることを求め続けた背景がよく分かり、改めて<四群点数法>に込められた意味の重さを実感した。
 ④8章以降、文部省や厚生省と意見を異にしつつも果敢に、栄養学の実践者として自説を貫こうとする姿は、非常に格好いい。一点の曇りもない、栄光に満ちた生涯、見事と言うほかない。それにしても80歳頃まで続けていた健康法のジョギングといい、一日2回の入浴や束子で肌を擦り冷水を浴びる健康法など、栄養学の実践にプラスする健康法の凄いこと、簡単に真似の出来ることではない。
 欲を言えば、知る人ぞ知る偉大な栄養学者香川綾の生涯を、力のある第三者の手になる評伝で読んでみたい、という読後感が残った。私のようなへそ曲がりな読者にとっては、付け入る隙のない自伝というものは、読み終わっても何だか居心地がわるく、少しもてあまし気味になってしまうものなのかもしれない(苦笑、自嘲)。
 最後に目次を引用しておこう。

第一章 大きなゆりかごの中で
    学び続けて/父が残してくれたもの/母の形見/三つ子の魂百まで
第二章 学んだこと悩んだこと
    白紙の答案用紙を出して/一番だけど二番だ/私には修身が教えられない/姉のこと妹のこと
第三章 東京女子医専時代
    課外学習に熱中して/吉岡弥生先生の教え
第四章 栄養学に魅せられて
    病気を予防するのが医者の本分/夫、昇三のこと/ビタミンと胚芽米/魚一、豆一、野菜が四
第五章 結婚はチャンス、仕事は一生
    結婚と家庭食養研究会の設立/料理カード作り/生活を実験台にして/子供の教育と健康づくり/『栄養と料理』の創刊/女子栄養学園の発足
第六章 試練の申で
    家庭献立材料配給所のこと/日本じゅうの栄養学者を集めてみせる/空襲と学園焼失
第七賃 夫の遺志を継いで
    群馬県大胡町へ学園疎開/昇三の死/疎開学園の思い出
第八章 新たな出発に向かって
    学園の再建/『栄養と料理』の復刊/駒込校舎を再建するまで/短大の神話時代
第九章 実践の手がかりを求めて
    計量カップと計量スプーン/「四群点数法」になるまで/四群点数法の基本/病気の人にも応用できる/成人病と栄養クリニック
第十章 充実と発展
    夜間部の増設/栄養学部と大学院/選択の時代を生き抜くために/新たな一歩に向かって
    あとがき

 「四群点数法」の背景について知りたい方、日本人の食生活に根ざした実践的な栄養学に興味のある方、戦前戦後を逞しく一途に生きた女性像に興味のある方には、是非本書をお薦めしたい。