ZKMでの《fast forward 2》
およそ7年半ぶりにドイツ・カールスルーエのZKMに足を運び、ゲーツ・コレクションに基づく《fast foward 2: The Power of Motion》展を終了間際に滑り込みで見た。どうでもいいことだが、2007年に世界最高速を誇るTGV東線が開通したため、パリからのアクセスは1時間ほど早まった(それでも4時間程度はかかる)。私が7年前の2003年の春に見たのは、《FUTURE CINEMA》展*1。同年の秋には、今回の展覧会がその続編であるところの《fast forward》展が開催されたが、残念ながらそれは見逃している(もう一つ、同じコレクションに基づく展覧会として、2007年にも《Imagination becomes reality》展が開催されているが、これも未見である)。
この展覧会でまず目を引くのは、広い展覧会場に19の貨物用コンテナが設置され、その中に映像作品(主にシングル・チャンネルのヴィデオ作品)が設置されていることだ。確かに、このキュレーション上のアイデアは、なかなか興味深い(しかも、右の写真からも窺えるように、アーティストの名前を側面に書かれただけの巨大な鉄のかたまりが広大な空間に点在しているこの展覧会風景は、それなりに見栄えもする)。20世紀後半に広く用いられるようになったコンテナは、カタログでキュレーターのペーター・ヴァイベルらが強調するように、何よりもまず、グローバルに規格化された物流を象徴的に表すものだ。その意味で、政治‐経済的なグローバル化に、個々の作品がどのように抵抗しえているのか、あるいはコンテナ同様の流通回路に単に飲み込まれているだけなのか、というような随想を誘う。
しかも、コンテナという道具立ては、いくつかの作品と内容的に呼応してもいる。たとえば、エルギン・チャヴシュオールの《Downward Straits》(2004、写真右)は、夜の闇に沈むボスポラス海峡をゆっくりと行き交う貨物船がまさに主題となっているし(ただし、この作品はコンテナの中に入っているのではなく、4つのスクリーンの間を観客もまた通り抜けさせられるという仕掛けになっている)、スタン・ダグラスの《Journey into Fear》(2001)——ノーマン・フォスター/ウェルズの同名の映画が元になっているはずの、15分ほどのシングル・チャンネル・ヴィデオ作品——の謎めいた物語(の断片)は港と貨物船を背景としている(この作品の物語が謎めいているのは、各セクションの台詞がコンピュータによってランダムに選ばれているという、レフ・マノヴィッチの《ソフト・シネマ》にも似た仕掛けによって、あえて明快な脈絡が欠落させられていることにもよる。すべてのパターンを合わせると652通りに及ぶという)。さらに、ハンス・オプ・デ・ビークの短い映像作品《Border》(2001)では、不法移民あるいは難民を思わせる数人のグループが大型トラックの積み荷の中に潜んでいるさまが、最後にX線写真のごとく明らかにされる。
だが、総じてより興味深いのは、コンテナの中に収めるというコンセプトからはみ出る作品の方だろう。たとえば、カタログの表紙を飾っているフィオナ・タンの《Saint Sebastian》(2001)。三十三間堂での新成人女子による弓道大会(通し矢)に取材したこの作品は、吊り下げられた一枚のスクリーンの両側に映像が投影されており、片面では矢を射る瞬間の女性たちの表情が、もう片面では彼女たちの髪飾りや項が、スローモーションでの注視の対象となっている(この作品は2001年の横浜トリエンナーレでも見ることができた)。
あるいは、ダヴィッド・クラエバウトの《American Car》(2002/04)。正対する2つのスクリーンの一方には、乗用車の運転席と助手席に座っている二人の男が、左側の窓の外側をずっと注視しているさまが、後部座席からの固定ショットでずっと映される(写真右)。車外では豪雨が降っており、運転席の男がワイパーを一度だけ動かすのが唯一の目立ったアクションだ。もう一方のスクリーンには、今度はちょうど彼らに見られているはずの場所にカメラが置かれ、そこから、二人の男が乗っているかもしれない停車中のフォード・サンダーバードが画面奥に見据えられている。雨は上がっており、車内の映像と時間がずれていることだけがはっきりしているほかは、特に出来事は起こらない。だが、このミニマルで断片的な状況設定が、なんと豊かに観客の想像力を刺激することだろう。これはまぎれもなく、今回の展覧会で最も印象的な作品だった。ともあれ、この2つの作品では、たまたまどちらも、作品を構成する2つの画面を同時に見ることができない作りになっており、単なるマルチ・スクリーン作品よりもはるかに面白いそうした「装置」(dispositif)としての側面も見所であろう。
スウェーデンの人気作家ナタリー・ユールベリの《The Experiment》(2009、写真右)は、最も「凝った」ヴィデオ・インスタレーションだったと言えるかもしれない。不気味な植物のオブジェでできた庭園の中に3つのヴィデオが流されており、それぞれクレイメーションにより、性的なモチーフに溢れた侵犯的で陰惨な情景が展開されるというもの。ただ、こうした大がかりな舞台背景は、「装置」の次元で工夫というよりは、単に感情移入的な雰囲気作りに寄与しているだけであって、所詮、子供だましの張りぼてでしかない。
それよりは、たとえばフランシス・アリスの2つの作品の方が、「装置」としての面白味に溢れていると言える(いささかあざとくはあるが)。《Cantos Patrióticos》(1988/99、写真右)では、2台のテレビ・モニターでメキシコ・シティのストリート・ミュージシャンたちの演奏が流され、それが時おり突然、フリーズ・フレームのかたちで中断させられるのだが、モニターと向き合っている壁面のスクリーンには、数人の男たちがいわゆる椅子取りゲームをしているさまを真上から撮った映像が順送りと逆回しでループされており、実のところ、こちらの映像で男たちが椅子に座るタイミングでモニターの音楽が中断させられていることが分かる。会場中に散らばった9つのフラット・ディスプレイから成る《Choques》(2005/06)は、アリス本人が街を歩いていてイヌと衝突するという小事件が、イヌの視点をも含んださまざまなアングルから撮られており、展覧会の訪問者の作品との思わぬ遭遇を提喩的に表しているかのような作品だ。
アーティストによる映像作品を見るときにつねに気になるのが、「映画」との距離の取り方である。もちろん、「映画」とほとんど関係ない映像作品があってもいいし、そうした作品の中にも興味深いものはたくさんある(たとえば、今回の展示では、ロビン・ロードの作品など)。だが、20世紀最大の映像メディアと言ってよい「映画」との緊張感に充ちた対峙を欠いたあげく、「映画」の縮小再生産にしかなっていない作品が散見されたのも事実である(同じ展覧会を見て、総合的な判断をおおむね共有した前川修氏の「現在のメディアアートにおける映像が20年を経てきわめて透明なものになっている」という第一印象も、この点に関わっているのではないか。彼のブログのこの記事を参照)。たとえば、イェスパー・ユストの3つのシングル・チャンネルのヴィデオ作品など出来の悪い短編でしかないし、カタログの説明によれば、30年代の上海映画とゴダールにインスパイアされたらしいヤン・フードンの《Honey (mi)》など弛緩ぶりが目に余る。フレンチ・ホラーの監督ジャン・ロランの人と作品に傾倒したアイダ・ルイロヴァの《life like》(2006、写真)は参照項がピンポイントすぎて映像もなにやら病的だが、映画史に対する一種の緊張感は漂っており、まだしも好感の持てる作品だった。
《fast forward 2》は企画展であり(吹き抜けの分だけ表面積の小さい上の階では、ユルゲン・クラウケ展なども開催)、ZKMにはさらに同じくらいの規模の常設展もある。そちらも7年前とは様変わりしていたが、メディア・アートやインタラクティヴ・ゲームの重要作品を通覧することができる点は変わらない。3階の一区画が様々なゲームの筐体とソフトの歴史にあてられており、実際にプレイできるようにもなっている。訪れた日はたまたま18歳未満が無料で入れる日曜日で、地元の子供たちがひしめき合ってゲームに熱中しており、さながらゲームセンターのよう。なるほどこれがZKMの正しい使い方なのかもしれないと妙に納得しつつ、帰路についた。