決められない男の人

 ある町に、ひとりの男の人が住んでいました。
 彼は会社に勤めています。その働きぶりはとても真面目で、有能でした。
 彼は、上司に言いつけられた仕事を常に完璧にこなすことができ、誰に対しても誠実で、同僚からの信頼も厚いのです。
 しかし彼は、自分ひとりでは何も決めることができませんでした。
 上司から命令された仕事であれば何でもきちんとこなすことができるのですが、それ以外のこととなると、どんなにささいな、どうってことのない仕事でさえ、自分ひとりでは決められず、成し遂げることができなかったのです。
 なので、周りの同僚がどんどん昇進していくのに、彼はずっと平社員のまま。
 以前の同僚が上司になって、自分に命令を出すようなこともあるけれども、でもその男の人はめげずに、毎日いっしょうけんめい働いていたのでした。


 男の人はひとり暮らしをしています。
 ひとりで暮らすということは、いろいろなことを自分で決めなければならないはずです。
 けれども彼は、"自分で決めなくても済むような"生活を送ることがとても得意でした。
 食べるものは、お店が勝手に決めたメニューを家まで届けてもらっています。
 着るものは、雑誌に載っている服を全部注文してそのページ順通りに着ています。
 それ以外のいろいろなことも、お店の人に聞いたり雑誌に載っている通りにしています。
 その店や雑誌も、「家から一番近い店」「本屋さんで最初に目についた雑誌」といった理由で選ばれています。
 時には食べたくない食べ物を食べなくてはならなくなったり、むやみに高い品を買うはめになったり、着たくない服を着なければならなくなることもあるけれども、でもその男の人はめげずに、毎日規則正しく生活していたのでした。


 ある暑い月、男の人に恋人ができました。
 ほんのささやかな幸運でめぐり会えたその女の人は、何でも自分で決めることのできる、しっかりとした知性的な女性でした。
 男の人は、自分にできないことができる彼女に惹かれ、女の人は、何事に対しても誠実で真面目な彼に惹かれたのでした。


 休みになるとふたりはよくデートに出かけました。
 いつも行く先を決めるのは女の人です。
 映画館、水族館、レストラン。
 てきぱきと女の人が決めた行き先に、男の人は文句ひとつ言わずに着いていきます。
 そして、どんな場所に行っても彼は、彼女をとびきり楽しませてくれました。
 映画館では、いま一番面白い映画のことや、観た映画がもっとよくわかる話をしてくれて、水族館では、かわいらしい魚の場所や、館員さんより詳しい魚の話をしてくれて、レストランでは、いま一番おいしいメニューや、合うお酒を教えてくれます。
 ふたりのデートはいつも楽しくて、男の人も、女の人も、同じくらいとても幸せでした。
 いつまでも一緒にいたいと思わずにはいられないものでした。


 ある寒い、女の人の誕生日がある月のことです。
 男の人は彼女に誕生日のお祝いを贈ろうと思いました。
 けれども困りました。彼女にいったい何を贈ったら、彼女は喜んでくれるのでしょう。
 いつも読んでいる雑誌を調べてみても、いつも注文している店の人に聞いてみても、はっきりとした贈り物がわかりません。
 だいいち、雑誌や店の人は彼の恋人のことを知らないのですから、彼女がもらって喜ぶ贈り物についてわかるはずがなかったのです。
 男の人はいよいよ困り果ててしまいました。


 女の人の誕生日は、この寒い月でも特に冷え込んだ日となりました。
 彼女と夜に会う約束をしていた男の人は、でもまだ彼女のための贈り物を用意できないでいました。
 途中どこかの店で買うことにして、約束の時間より前に町へ出ました。
 けれでも、あっちの店でもない、こっちの店でもない、どっちの店でもない、町中の、店という店をぐるぐるとまわり続けましたが、彼女への贈り物をどうしても決めることができません。
 約束の時間はとうに過ぎてしまっていました。彼は焦りばかりがつのっていきます。


 男の人は、もう3回は訪れた女の人向けの服屋さんにまた入って、あれこれ悩んでいます。
 すると、ショウウィンドウ越しにあの女の人がふらふらと通りを歩いているのが見えました。
 彼女は、寒さのためか首をすくめるようにしながら、手に真っ白な息を吹きかけています。
 それを見た彼は思わず、店の棚に並んでいたマフラーと手ぶくろを握りしめ、店員さんに大きなお金を何枚か渡すと、いちもくさんに彼女の元へと駆けつけました。
 そして、あわてて彼女の寒たげな首にマフラーを巻きつけ、彼女の手に無理やり手ぶくろをかぶせました。
 長いマフラーは片方の端が地べたにつくほどにたれ下がり、ふわふわの手ぶくろは小指がだらりと折れ、くすり指がきゅうくつそうです。


 男の人はすまなそうに言いました。
 「ごめんなさい。貴方の誕生日の贈り物を何にしようか決められなくて、約束の時間をたくさん過ぎてしまいました。それに結局贈り物も決められなくて、貴方に誕生日のお祝いを贈ることができません」
 すると女の人は、不器用に巻きつけられたマフラーを、不自然にかぶせられた手ぶくろでなでながら、こう言いました。
 「いいえ。私は貴方からこんなに素敵な誕生日の贈り物をいただきました。それに私は、貴方が何を贈ってくれたかということよりも、何かを贈ろうとずっと悩み続けてくださっていたということが、何よりも嬉しいんです」
 女の人は、たれ下がったマフラーの端を男の人の首に巻きつけようとした、その手を彼はしっかりと握り、ふたりは、とみに冷え込んだこの夜の街で、温かな口づけを交わしたのでした。


 男の人は今日も会社で上司に怒られています。
 これまでは決してしなかった、上司の言いつけ以外のことについて自分で決めて取り組んだばっかりに、失敗をしてしまったからです。
 どうしてか男の人は、上司の命令ですることなら相変わらず見事に成し遂げることができるというのに、自分で決めてすることにかけては、ことごとくしくじってしまいます。
 最近では上司も同僚もあきれぎみです。
 そもそも彼は、"自分で決めて自分でする"ということに慣れていなかったのですから。
 とはいえ彼は、日に日に元気になっていきました。
 彼のポケットから、あの夜の日に降っていた雪の結晶のような指輪がきらりと光ります。
 雪の季節にそろそろお別れを告げる清々しい陽気が、外に広がっていました。

ゲーム作品として論評するに値しないモノ

 とにかくこの作品はすごかった…。何がすごいってそりゃあ、バグの質と量が、である。というよりこんな状態でよく発売することができたものだと、その並外れた無神経さに率直に賞賛を送りたくなるくらいのスバラシサ。この作品をプレイすることで僕は、作品内容とは全く別の、本当に貴重な体験をさせてもらったような気がした。感謝は…しないが。

 まず当然のことながらテキストは誤字・脱字多数標準装備。誤変換も酷く、ひらがな表記であるべき単語に漢字が当てられていたり、漢字表記であるべき単語がカタカナ表記になっていたり、文節が入れ替わって前衛的な表現と化していたり、ウィンドウの左上、会話(テキスト)の主体名(主人公の名前やヒロインの名前)が表示される箇所にテキストの文頭部分が混じったり。していないはずなのに、「あのときは〜したよね」という会話が出てきて首を捻ってみたり、果ては1センテンスまるごと抜け落ちていて文章の脈絡が途切れていたりする始末。音声との関連では、声優の演技内容とテキスト内容が違っていたり、ヒロインの相槌の音声が抜けていたり、句読点の位置がずれているのはともかく、音声とテキスト表示がまるまる1センテンス分ずれていたり、前後で入れ替わっていたりもしていた。グラフィックとの関連ではヒロインの表情がテキスト内容とあまりにもかけ離れたものであったり(悲しいシーンでもないのに泣いていたり、恥ずかしがるシーンでもないのに頬を紅くしていたり)、同じ画面に同一のヒロインが別表情で2人存在していたり(分身)、さらには場面とは全く違う背景が表示されたり、学校の制服を着ていたはずのヒロインが次の瞬間私服に着替えていたり(歌舞伎役者もビックリだ)、ヒロインの立ち絵と主人公の親友の立ち絵が入れ替わっていて、まるでヒロインが親友の変装をして喋っているようで大笑いモノだった。

 そう、この程度(とていっても格別すごい程度なのだが)ならゲームの進行上それほど問題となるものではないと強弁する事ができ、苦笑・失笑・大爆笑するだけで済ませられるのだが、この作品に巣くうバグの質は笑って済ませられる域をはるかに超えていた。エピローグのCGが表示されなかったり、肝心のSEXシーンでCGが表示されなかったり間違って表示されるのも怒り心頭モノだったが、あるヒロインの1イベントがまるごと抜け落ちていたりするのだ。つまり、学園祭のクラスの看板をヒロインと一緒に製作するイベントをまるごとすっ飛ばしておいて、その学園祭が終わった後の打ち上げで主人公はヒロインに、「一緒に看板作ってくれてありがとう」などと言い放ちやがる。このイベントのCGはOPムービーにもしっかり挿入されていて、どんなイベントなのか楽しみにしていたのに…。これはあまりにあんまりだ。

 さらに作品存在の根本を否定する致命的なバグとして、Windows2000でプレイすると、とあるイベントで特別なCGを表示するときにエラーが発生しゲームが強制終了してしまうものがある。確かに僕がこの作品を最初にインストールしたのはWindowsXPだ。パッケージにはWindows2000まで対応と書いてあったからそういうエラーが発生してもやむをえないかもしれない。だが、パッケージにはWindows2000まで対応と書いてあるのでサブマシンのOS(これもWindowsXP)をフォーマットしてWindows2000を再インストールしたのに、再度同じシーンでエラー落ちしてしまうのはどういうことだ!しょうがないのでWindows2000もフォーマットしWindowsMEまで遡ってインストールしてようやくそのイベントCGを拝むことができるようになったのだが、それはヒロインが居眠りをしているシーン。「おい樹里先輩!(ヒロインの名前)眠ってないでちゃんと起きてエラー直しとけよっ!!」と怒鳴ってしまったものだ(ちょっと誇張表現)。

 もちろん、発売直後に修正パッチがメーカーWebで配布され、その後バージョンを重ねたようだが、僕がプレイを始めた2004年11月24日現在、メーカーWebは消失し、修正パッチファイルをミラーで置いてあるWebも見つからなかった。まぁ「今頃中古で安く買ってプレイしているお前が悪い」、と言われれば返す言葉もないのだが、それにしてもClearはどこいったんだよー…。

変わらない世界、変わっていく主人公

 これほどの怒涛なバグがありながら、あまつさえ修正パッチファイルも見つからずOS上の問題でまともにプレイすることができないのにも関わらず、わざわざOSを旧バージョンに入れ替えてまでこの作品をプレイすることに執着してしまったのは、この作品における主人公に興味を持ったからだ。彼は、本来の人間ではなく、システムと呼ばれる機関によって遺伝子操作の結果作り上げられた、試験体としての、人によく似た、けれども決して人ではない存在。その彼がとある目的の元、物語の舞台となる学校に編入してくる、その目的とは、「感情を理解することができるか」というものだった。

 当初僕は、そんな埃と胡散臭さに満ちた悪の組織から実験として現実社会に送り出された主人公が、ヒロインと出会い感情(愛情)を芽生えさせ、正義をもって悪の組織との対決を通して自由を獲得していく、というような波乱万丈のストーリーを想像していたのだが、それは全く裏切られる。システムと呼ばれる組織は、その持つ胡散臭い技術の割に、物語(主人公)に対していたって不干渉であり、物語自体、大それた事件や感動的なエピソードがあるわけでもない。システムの重要な秘密を握ったヒロインが登場するわけでもなく、かといって幼馴染もいなければ妹キャラも出てこない、ちょっと変わったところはあるけれど至って普通、というよりは面白みに欠けるくらいの(ギャルゲー世界においては、という意味で)ヒロインたち。そして、淡々とした平凡な学園生活と、賑やかな学園祭を織りこみ、趣のある落ち着いた初秋〜初冬の風景。それらの印象はエンディングを迎えてもなお、変わらない。結末は実験延長か実験失敗(回収)のどちらか。あらゆる意味において妥当なエンディングといえる、実験を終えた主人公がシステムの手を離れて、1人の人間として完全なる自由を得るということもない。

 このように、物語の始まりと終わりを通して、主人公を取り巻く現実は全く変わらない。冷酷であるというより、ストイックで超然とした世界観。それはまさに物語を彩る季節と同じように、静かに厳かに存在している。ただ、唯一変わるものとして挙げなければならないのは、主人公の精神面での変質、つまり心の誕生、である。ヒロインの気持ちも主人公に惹かれるという意味で変わっていくのだが、それは主人公の心の現れの副次的作用と言うべきで、この作品物語の主眼はやはり、主人公の心にあると言えるだろうと思う。閉鎖的で静溢、不変的な世界の中で主人公の心の中の世界だけが変化し、激しく揺れ動き、それは止まった現実ゆえに際立って印象的に感じられていく。

主人公の心の器に不合理を注ぎ込むプレイヤー

 "頭"は知識を詰め込むものであり、"心"は感情を注ぐものであるという。そして、"頭"は知識が詰め込まれていなくとも"頭"たり得るが、"心"は感情が注がれていなければ"心"たり得ない。物語開始当初の主人公は、頭は濃密だが心がない(空虚である)状態であるが、その彼の心に感情を注いでいくのが、プレイヤーの役目となる。主人公は頭による合理的な判断で、彼の常識的な論理からすると違和感を覚える行動をとるヒロインに、当然疑問を感じ、それについて主人公がどういった行動をとるべきかというケースで、プレイヤーに選択を問うてくることが多いのはそのためである。ヒロインの違和感に対する主人公の不合理な行為(干渉)、これが「TALK to TALK」という作品の恋愛ルーチンである。

 しかしながら、この物語の主人公は当然彼であり、描写は一貫して主人公の一人称視点であり、物語のテーマが彼の心の誕生であることの逆説的な意味において、ヒロインの心情の変化についての描写がかなり不足しているのは、宿命的な欠陥と言わざるをえないのかもしれない。自らの感情を理解することのできない主人公が、ヒロインの気持ちを慮ることができるはずもないのだから、そういった描写ができようはずもない。ヒロインにひたすら干渉すること、そのことで生じるヒロインについての不可解さと自らの執着心から主人公は、自身(頭が断定するところ)の不合理さのなかから、異性に対する「好き」という恋愛感情を見つけ出していく。その二次的作用としてヒロインは主人公に惹かれていくのであるが、その反面ヒロインは主人公に惹かれていかなければならない。なぜなら主人公とヒロインが結びつかなければ主人公の心は誕生せず、彼は回収されてしまうのだから。

 「恋愛が成就しなければ心は誕生しない」
 「しかし、失恋による心の痛みから心が誕生してもいいじゃないか」
 という意味で、法月みさきシナリオは他の4ヒロインのシナリオとは別格的に深いテーマ性と、作品にとって重要な意義をもつといえる。このシナリオは失恋の苦しみと、恋愛の本当の意味・大切さを主人公はその心をもって受け止めていくもので、実験目的である「感情の理解」にとって、これほど説得力をもったスタイルはないのではないか。感情を普通に理解している僕ですら(であるからこそ)、涙が溢れてくるくらいに。

 しかし、これとは別に問題となるべきは、自らの感情というものを理解することができず、しいてはヒロインの気持ちを慮ることができるはずもない、つまり相手を思いやるという意味が(物語当初)根本的に理解できないような主人公が、なぜヒロインの好意を得ることができるのか、ということである。

 「ヒロインはどうして主人公に惹かれるのか」
 それはもちろんプレイヤーが、ヒロインが主人公に対し好意を抱くように選択肢を選んでいるからであるが、主人公がヒロインに何をしたのか、ということ以上に、主人公の"人となり"についての要素が大きいように思う。まぁ彼は本当の人ではないのだから、人となりというのもおかしな話であるが。僕がこの作品に好感を抱いた最大の理由は、やはりこの主人公の人となりであり、ヒロインと同じように、僕もまた、彼に惹かれた一人であるのかもしれない…。

テスト期間というカレの人生、かけがえのないまがいモノ

 主人公は、感情というものに対して馬鹿らしいほどに素直であり、愚直なまでに謙虚である。この主人公の人となりは劇中を通して変わる事がない(それはベッドの上でも)、この点が、彼の最大の魅力であり、僕にとっては純粋に羨ましく、共感できるというのではなくむしろ共感したい、そういう願望すら抱かせるのである。

 実験体としての主人公がテストとして学園に編入されることになるその目的が、「感情を認識すること」である以上、その萌芽ともいうべき微細な心理作用に対してひとしずくも洩らすことなく捉えようとし、その意味するところ(正体)が全くわからない以上、とりあえず、そのありのままを見ようとする、そのことが主人公の人となりの根源であるのだから、彼の人となりの大部分はシステム側の要因であり、また別の意味で"人となり"とはいえないのかもしれないが。

 自分の感情に素直であること、これは非常に難しい。人はときに自らの感情を都合よく解釈し、またときには卑屈に捉え、感情を歪めて認識してしまいがちである。

 自分の感情に謙虚であること、これも非常に難しい。人はときに自らの感情が世界の中心であるかのように錯覚し、自己中心的に暴走してしまい周りの人や、自分の大切な人を傷つけてしまうことがある。

 確かに主人公には、感情を認識できず、情緒や感性を理解することができないために普通の人間には考えられないような不器用さや、無遠慮さを示し相手との円滑なコミュニケーションを取ることができない場合もあるが、その人となりの根本にある素直さ・謙虚さが彼の言動からあられもなく感じられるのだから、ヒロインは惹かれていくのではないだろうか。ヒロインが主人公のためにお弁当を作ってきてもその意味を察することはできないけれども、「一緒にいることが主でどこに行くかは従に過ぎない」といった恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく吐き、無用の気を使うことなくヒロインと一緒に楽しむことのできる、そういったチグハグな子供っぽさが彼の魅力なのだと僕は思う。と同時にその際立った純粋さが羨ましくなる点でもある。

 そういったものをひっくるめた上での主人公の人となりは、それでもシステムが予めプログラムした結果の表層に過ぎないのかもしれない。しかし感情というものは相手がいて初めて湧き上がるものである。相手がいるという現実は時空に漂う塵の数ほど膨大な可能性の、そのうちの1つとして成立していて、その現実を選択するのは本人である。つまり同じ現実は二度繰り返すことはできないし、同じ相手に同じ感情を抱くこともできない。現実は常に新しく、感情も常に新しくなっていくという意味で、それらはかけがえがない。かけがえのないものを持つことのできる"カレ"は、コピーだろうがまがいモノだろうが、「かけがえのない存在」になりえるのである。

 システムがこのテストを通して主人公に「感情を認識」させようと目論んだ事の本質は、つまり彼をして"人"とならせることであったのだ。そして、主人公が実験目的の成就によって得られたものは、自らの心の自由であり、エンディングを迎えてもなおシステムのくびきから逃れることができないのは、彼にとってのテスト期間が僕らにとっての人生を意味するものだからだ。なんとなくスッキリしないエンディングだと感じられるのは、僕らの人生もまだ中途であるから。主人公にとってテスト期間が僕らにとっての人生そのものだとするならば、そのテスト期間の延長はすなわち、人生の転機、心の自由の飛翔。

 僕らはいずれ死ぬであろうことを気に病んで毎日を生きているわけではない。主人公は当初、テスト期間がいつか終了することを常に念頭に入れ、自らの行動を規律し限定していたが、エピローグの彼はそれとは全く正反対のベクトルを向いていた。このことに考え至ったとき、この作品の終幕の本当の晴れ晴れしさを味わうことができるだろう。

プラネタリウムを出ていつも見ている夜空を眺めに行こう

 「これが人工的に作り出した夜空だとはとても信じられないほどの臨場感だった。ただ、現実にありえないほどの無数の光であるがゆえに、これは人工物なのだという事を認識させられてしまうのだが。」

 ヒロインとのデートで訪れたプラネタリウムについて、主人公はこう語る。これは、実験体としての主人公自身、(外見上)同年代の高校生にありえないほどの明晰な頭脳・論理的な思考と博識を持ちながら感情を理解することのできない彼の、オマージュである。完璧であるからこそ、親しみを感じられない。これに対し、いつも見ている星数の寂しい夜空、完全とは程遠いがゆえに親しみが感じられる。

 この作品は、主人公が『完全』から『不完全』になっていく、例えば『純水』から『飲料水』になっていく、『プラネタリウム』から出て『いつも見ている夜空』を眺める、つまり『合理的存在』から『不合理的存在』になっていく、そういう物語である。純水は飲みすぎると死んでしまうという。物語開幕当初(『純水』状態)の主人公を見ていると、「死んでしまう」というのが妙にしっくりきてしまう。おそらく「荻谷」という不純極まる友達ができなければ、主人公はヒロインと出会う前に「死んで」しまっていたのではないだろうか。社会的に、という意味で。

 人はときに、自分が不完全で堕落した存在に思われ、醜く、汚れている今の自分と比べ、無邪気で純真だった子供の頃を憧れるように懐かしく思ったりする。しかし子供時分において、自らの堕落した姿、醜く、汚れた状態を想像することはできない。年をとることによってどうしようもなく心に染み付いてしまうそれらの不純物を通してしか、「本当の美しいもの」を見つけることができないのだ。主人公の内面には最初から感情というものがあった。それならばどうして認識することができなかったのか。それは、彼があまりにも『完全』であり、『合理的存在』であったため。感情という「本当の美しいもの」は、自らの心に不純物を取り込まなければ見つけ出すことができないのだ。

 プレイヤーは、そしてヒロインは主人公の心の器に注ぎ込んでいく、恋という不純物を、愛すべき不合理を。そうして僕らはひとりの"人"を誕生させる、『不完全』であるからこそ個性があり、『不合理』であるからこそ愛し合う、そんじょそこらにいるような人間を。

 もしかしたら「TALK to TALK」という作品自体が、このテーマの壮大なオマージュなのかもしれない。無数の誤字脱字、音声・グラフィックとのミスマッチ、CG表示の不具合にイベント丸ごとすっ飛ばしといった『不完全』さ。Windows2000対応と謳っているにもかかわらずエラー落ちし、修正パッチファイルも残さずメーカー自体がこの世から消えてるという『不合理』(というか不条理)さ。この作品のテーマに沿った形で、個性ある『不完全』さをプログラムにわざと仕組み、致命的な『不合理』によってプレイヤーの皆さんに「TALK to TALK」という作品を愛してもらいたい、そんな製作者のメッセージが込められているのかもしれない。

 たとえそうだとしたら、僕は、魂の叫びをあげることになるだろう…。

 「責任者出てこーーーーいっ!!」