科学者と幸せの星

 ある国に、天才的な科学者がいました。
 彼は、誰も思いつかないような素晴らしい発想を、息を吸うたび思いつき、誰も取り組まないような素晴らしい発明を、食事をするたび成功させ、誰も作れないような素晴らしい装置を、眠りから覚めるたび完成させていきました。
 彼の完成させたさまざまな装置は、この国を豊かにし、人々を便利にさせ、そして、軍隊を強くしていきました。
 せまい国土はみてくれの幸せでうめつくされ、あまりにも幸せをもてあました人々は、それをごみ箱に捨てていってしまいました。
 豊かさにおごり、便利さになまけ、強さにうぬぼれたこの国の人々は、何の理由もなくとなりの国を攻め始めます。そこに住む人々に災いをもたらし、彼らの不幸と比べることでしか、自分たちの幸せを感じることができなくなっていたのです。
 けれど、この国と人々のそんなありさまにかまうことなく、彼はひとり研究室にこもり続けました。
 彼にとって世界とは、発明と、最愛の人が全てでした。


 この国に攻められ滅亡の淵にあったとなりの国の人々は、怨みを集め大いなる悪魔を召喚しました。
 どうせ残りいくばくもない自分たちの命を、「彼」にいけにえとして差し出すことで、あの国に最高の不幸をもたらすことと契ったのです。
 しかうして、となりの国は滅びました。そして、悪魔は契約を果たしました。


 天才的な科学者にとって世界のはんぶんをしめていた最愛の人が、とつぜん病に倒れてしまいました。
 彼はそれまで取り組んでいた研究をいっさいほうり投げ、いそいで家に戻りました。
 彼の持つすべての知識と発明をそそいで、彼女の病を治療しようとしました。
 けれども、その病は科学の力の遠く及ばない、悪魔的なしわざであることが判明したのです。
 彼は三日三晩絶望にくれました。そのような悪魔のしわざをなさしめた相手を心から憎しみました。とはいえ、その相手はとうにこの世にはいなかったのでした。


 最愛の人を冒すその病は、まず彼女の四肢を奪いました。
 彼女は最愛の彼の頬に触れることすら、できなくなってしまいました。
 しかし、天才的な科学者はその知識と能力のすべてをもって、一晩にして素晴らしい装置を完成させます。
 その装置をまとうことで、最愛の人は奪われた四肢を取り戻しました。
 最愛の人は涙を浮かべながら、彼に感謝の言葉を伝えました。


 最愛の人を冒すその病は、つぎに彼女の眼を奪いました。
 彼女は最愛の彼の顔を見ることすら、できなくなってしまいました。
 しかし、天才的な科学者はその知識と能力のすべてをもって、一晩にして素晴らしい装置を完成させます。
 その装置をまとうことで、最愛の人は奪われた眼を取り戻しました。
 最愛の人は涙を浮かべながら、彼に感謝の言葉を伝えました。


 最愛の人を冒すその病は、さらに彼女の耳と声を奪いました。
 彼女は最愛の彼に愛をささやくことすら、彼の愛のささやきを聞くことすら、できなくなってしまいました。
 しかし、天才的な科学者はその知識と能力のすべてをもって、一晩にして素晴らしい装置を完成させます。
 その装置をまとうことで、最愛の人は奪われた耳と眼を取り戻しました。
 最愛の人は涙を浮かべながら、彼に感謝の言葉を伝えました。


 最愛の人を冒すその病は、ついに彼女の命を奪いました。
 彼女は最愛の彼に自らのぬくもりを感じさせることすら、彼のぬくもりを感じることすら、できなくなってしまいました。
 しかし、天才的な科学者はその知識と能力のすべてをもって、一晩にして素晴らしい装置を完成させます。


 その装置の起動スイッチを押しました。すると、とても不思議な青白い光が、天才的な科学者と、最愛の人の体を包みこみます。
 お互いが強く引かれあうように、ついにひとつへと重なりあおうかというまぎわ。彼は涙を浮かべながら、最愛の人に感謝の言葉を伝えたのです。


 その哀しい残響が静寂によって飲みこまれたとたん、青白い光をまとい重なりあっていたふたりの体は、パチンという音をたてて、あとかたもなく消え去ってしまいました。
 そのときにはじけた光のうずは、一気に天上へと駆けのぼっていきます。
 すると、暗黒色のぶ厚い雲から青白い光の粒子がたくさん、降りそそいできました。
 その不思議な雪は、この国を覆い人々が纏い軍隊が装備する装置、あの天才的な科学者が作り出したすべてのものに触れると、パチンという音をたてて、たちまち装置ごと消え去ってしまいました。
 青白い処女雪が国のあらゆるすべてをおおいつくし、まるでうたかたの夢であったかのようにさらりと溶け去ってしまったとき、この国には"なにもなく"、人々は"なにもまとってはいなかったのです"。


 すべてを失ったこの国と人々が、そのあとどうなってしまったのかはわかりません。
 かつて滅ぼしたとなりの国の残党によってことごとく復讐されたとも、すべての人が国を捨てて逃げちってしまったとも、伝えられています。
 ただ、この国を長くおおっていた暗黒色の雲が晴れたとき、現れた星空の神々しいまでの美しさと、そのうちにひときわ青白く輝く新星のあったことが、人々の間で鮮やかに語り継がれているのでした。
 そう、その星はいまも夜空よりの煌々としたぬくもりを、地平の人々にもたらしているのです。

ちいさく、みじかく、ささやかなゆめの物語

 この作品は、小さいスケールのなかで非常に完成された、短いストーリーのなかで非常に感動的な、ささやかな訴求性のなかで非常に鮮烈な、美しくも悲劇的な叙情SF物語である。

 退廃し滅亡を目前にした近未来世界を舞台に、冗長になりがちな世界観説明的テキストを大胆に省き、その代わりにシナリオライターの豊かなSF的薀蓄をどっしりと風格ある態度で描写に織り混ぜ、また主人公の過去の追想を気まぐれなフラッシュバックのように折々挿入することで、プレイヤーのイメージ世界に直接世界設定を鋭く深く刻み込むことに成功している。この作品のヒロインであるプラネタリウム解説員、人の造りしロボットである「ほしのゆめみ」と、"屑屋"である主人公の不可思議で滑稽な交流、"雑談"というスタイルによってヒロインを繊細に温かく描き、同時に世界と主人公とを雄弁に圧倒的に表現していく。雨と泥にまみれた灰色の世界と、「ほしのゆめみ」と屑屋が形作る深蒼色の世界の、瞭とした対比、テキストは淡々としているのにもかかわらず緻密で、とても印象深い。

 また、作品の表現しているテーマが、幾重にも折り重ねられ、読者の視座とEnterキーを折り目にして美しくも単純なシンメトリー構造をしていて、それは読後の余韻を味わおうとするたびさまざまな事柄が結びつき、対称化していることに気づかされていく。ごく短いテキスト量であるもかかわらず、である。それは、人の造りしロボットという存在、とても醜くそしてとても美しい人という存在、現在と未来、ありうべからざる世界と、ありうべき世界…。多くのテーマが小さなスケールで"同居"し、鮮やかなシンメトリーを描くことで、プレイヤーは極自然に、とてもピュアな態度で、たったひとつの大きなテーマに収斂していく自らの心のひだを見出すことができるのだろう。物語が紡がれている"場所"そのものの狭さに比して奥行きがあり、幾層にも積み重ねられているにも関わらずとてもわかりやすいメッセージ性を読者に与えているのは、そのためだ。

 そして、「ほしのゆめみ」と名付けられたロボットであるヒロインに、ラストシーンで人間の心を持ったりするような"ありがちな奇跡"は起こらず、ストイックなまでに最初から最期までロボットであり続ける。主人公は最初から最期まで名前がなく、ヒロインや他の誰かを救ったり、世界を変えたりそれらを叶える特別な力を持っているわけでもない、ほとんど無力な存在。しかしこのふたりが世界に対し当然抱くべき絶望を、物語は声高に叫ぶわけではなく、なにひとつ抗うことなく、痛ましいほどに粛然と結末は訪れる。この潔癖なまでに徹底された救われなさと、主人公の非英雄性が痛切なまでに浮かび上がらせている作品テーマを、あるいは具現化している"幸せな悲劇"そのものが、何にも変え難い、そして何にもまして強烈な、読者に対する訴求性を内包している。

 テーマが、語られることによって初めて実在化するのではなく、この物語、というよりこの作品の存在自体がテーマそのものだったのだということを僕らは、いくらかの感慨をもって思い知らさせるのであり、作品のささやかなプレイ時間はただ、本当にささやかで、本当にかけがえのないそれに気づくためのタイムラグと言ってしまっても良いと思う。

ゲームであってゲームでない アンビバレンツなゲーム性が目指すもの

 この作品は"ゲームではない"。そもそもゲームとは何なのか、ここでゲームの本質について論ずるのはほとんど不毛なので辞めるけれど、簡単に表現してしまうと、ゲームとは、プレイヤーが、ゲーム側の用意したデバイスを任意に駆使することによって、物語及びその世界に対して介入し、変質させることができるという公式を実施している、仮想的なインタラクティブチャンネルである、といえる。そしてこの「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品が本来的に指向しているゲームジャンルは、ノベル形式の美少女アドベンチャーであり、その一般的なゲームデバイスは、選択肢による分岐と繰り返しプレイである。通常このジャンルのゲーム作品であるならば、この2つのデバイスはまず使用できると断言してもいいくらい普遍的な装置なのだ。

 しかし当該作品において、この一般的なゲームデバイスは実施されていない。劇中に選択肢が発生することはなく、繰り返しプレイによってエンディングが変化するというようなことも、おそらくないのだろう。機能的な装置を欠いている時点で、この作品は実質的にゲームではない。ただ、概念的なゲームデバイスとして、プレイヤーがキーボードのEnterキーやマウスのクリックを押さなければ物語が先に進まないという公式は実施されているので(プレイヤーの入力なしで物語が自動で進行する『オートプレイ』という機能も実装されているが、そもそもその機能を使用するかしないかはプレイヤーが選択するのだ)、建前的にいえば、この作品はゲームである。そして何事よりも雄弁にこの作品がゲームであるということを物語っているのは、この作品を制作したkeyというメーカーが、ゲームメーカーであるということ、もしくは多くのプレイヤーにそう認識されているということであろう。

 つまり「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品は、ゲームであるにもかかわらずゲームではない。概念的にはゲームであるにもかかわらず機能的にはゲームではない。なにしろ僕らプレイヤーは、プレイヤーであるのに、この物語に対して、この世界に対して、この作品自体にたいして"なにもすることができない"のだから。この二律背反的なゲーム性が、作品テーマというものに絶対的な"救われなさ"を付与しているのだ。「読むだけ」という危機的なゲーム性状態を、ストーリーを純粋に楽しむことができるという表面的意味をもって再定義するだけではなく、作品の存在自体に対する構造的な演出技法として活用している、この点が、「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品を"ゲーム作品として"批評する際の、唯一にして無二のポイントなのではないだろうか。

テーマを普遍化するために用いられる冷酷な非ゲーム性

 この作品が機能的な意味においてもゲームであるのならば、作品で描かれているシーンはプロローグとして位置づけるはずではないだろうか。ヒロインの希望をその胸に受け継いだ主人公が、人類解放と地球再生のために立ち上がる、壮大で苛烈な大河ゲームが完成するはずだ。「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品が、プレイ開始当初より結末の予想がついたのと同じ次元において、僕が妄想するこの壮大なゲーム作品のエンディングもまた、「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品をプレイし終えた誰しもが望んでいるものになっていることを、僕は確信している。

 しかしそれが叶えられるようなことは、きっとないのだろう。この作品の潔癖性は、そのような大掛かりな救いさえ"安易なもの"として決して許してはくれないのだろうから。物語自体が描き出している徹底的な救われなさは、あってなきがごとしのゲーム性が構造的に究極化してしまっているのだ。

 そしてそれは、普遍性というベクトルを帯びてプレイヤーに届けられる、そう、静かに、怒涛のように。先に述べたように「ほしのゆめみ」と名付けられたロボットであるヒロインは、劇中はひたすらロボットであり続ける。心をもたないロボットとして描かれている。彼女が心をもっているように感じられるのは、主人公の心情ゆえであろう。その主人公ですら、名前はなく、ヒロインに名で呼ばれることはない。あくまで彼女は主人公のことを「お客さま」と呼ぶ。しかも美少女ノベルゲーム作品における一般的なゲームデバイスを欠いているこの作品においては、ヒロインの好感度が上がるような選択肢を選ぶことはできないし、何度プレイしたところでヒロインに心は生まれないだろう、主人公に対する(普遍性の対義語であるところの)個別的な恋とか愛とは無縁で、結末もきっと変わらない。

 「ほしのゆめみ」はあくまで、無名の主人公を介してプレイヤーという「お客さま」に対して語りかけているのであり、主人公の心情を察してあまりあるプレイヤーだけれども、彼の気持ちを汲んで行動を起こすことができず、このどうにもならないジレンマが、冷酷無比な普遍性というベクトルの存在を突き止める。そしてそのことに気づいたときにはもう、そのベクトルはプレイヤーの心に深く突き刺さっているのだ。

 2次元美少女が登場するゲーム作品であるならば当然のように報われるであろう、プレイヤーのほとんどがそう無条件で信じ込んでいる主人公のヒロインに対する想いは、ストイックなまでのロボット性と、どうしようとどうしようもない非ゲーム性によって敢然と拒絶される。主人公とヒロインの擬似恋愛的やりとりさえ刹那的な慰めとして忌避され、送り返された彼の想いは僕らプレイヤーが抱いているしかないのだ。しかも主人公は自らの想いが報われないことに対して、辛いとか悲しいといった気持ちを残して劇から去っていったわけではない。果たしてこれほど辛く悲しいことはないんじゃないだろうか、プレイヤーにとっては。

この"プロローグ"を受け継いで始まるべき本編は、僕らの手に委ねられる

 主人公の気持ちとプレイヤーの気持ちは、感情的な温かさと冷たさという意味で対称化し、それは互いに損い合うのではなくむしろ互いを高め合い、深め合っている。主人公と同一であり、かつ全く別の存在としてプレイヤーを位置づけることの可能なゲームというメディアであるからこそ可能な、神秘的な関係性。もしかしたらこの作品自体に対する評価というものも、この領域に含まれるのかもしれない。何しろ僕は、あるいはこの作品を辛らつに批判することもできるのだから。

 作品内に存在する全てのファクターが対称化し、両義的であり互いが互いを研ぎ澄ましているこれは、リアルに向けたプロローグなのだ、双方を司り統合させる存在としての僕らが何を感じ、どう考えるかという"この作品の本編"にとっての。「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品の本編は、リアルにおいてあらゆるデバイスを駆使することのできる(あるいはその可能性を秘めた)僕らの一人称視点において、ゲーム時空を超えて開幕するのだ。

 「止まらない雨に腐り落ちた現実を、彼女が語るささやかな現実と交換する。そんな方法が、どこかにないものだろうか?」

 「天国をふたつに、わけないでください。ロボットと、人間の、ふたつに、わけないでください」

 このプロローグがテキストとゲーム性の総力をあげて完膚なきまでに救われないものであったことの中に、それは僕ら自身が救っていかなければならないのだという切実な訴えを聞かなければならない。「ほしのゆめみ」のほのかに温かいメモリー(希望)は、主人公でも誰でもない、僕らプレイヤーが受け継いでいたのだ。そして、彼女の夢見た世界、誰もが妄想する幸せなエピローグは、僕ら自身の手で実現していくのだ。それこそが、本当にささやかで、本当にかけがえのない彼女の願い。

 2時間もかからないあまりにささやかなプレイ時間で得られるにしては、あまりに桁外れの骨太なメッセージに、僕はただ感服する。と同時に、意表をついた、というより反則的なゲーム性の活用方法に苦笑を浮かべる。そうして僕は何を考えるわけでもなく、"ロボットとは思えない"豊かな表情と屈託のない笑みを浮かべるほしのゆめみちゃんのことを思い浮かべながら、酔いしれるのだろう、「Gentle Jena」をエンドレスで聴きながら。対称化している主人公とプレイヤーとで、もし共感できるものがあるとするならば、それは今僕が感じているこの心地良さくらいなものなのだろうから…。