メイドと紅茶にまつわる連篇集Ⅱ

 「おじいさんは本当に、お孫さんが大好きなのですね」
 「そりゃあもう、目に入れても痛くないくらい愛しておるのじゃ」
 「でもそんなに目を細めていたら、入るものも入りませんね」
 「それもそうじゃの、かーっかっかっかっ!」
 「あはは」
 とある屋敷の一室で、老人と若者が椅子に腰かけ和やかに会話をしていました――。


 「お前も門前払いか……」
 自室に入ってきた部下の報告を受けて、ハリスはげんなりとしていました。
 彼らはある地方にやってきていました。
 何の特産品もなく商業もまったく栄えていない、辺鄙なこの地域に興味を示す事業家はありません。中央の発展から疎外されますます寂れていくこの地で、先日のことです。
 気まぐれで訪れた探検家があり、暇つぶしに洞窟を探索していった結果、未採掘の鉱脈が発見されたのです。
 専門家が詳しく調査してみると、この地方一帯に広大な鉱床が無傷で埋まっていることが判明しました。
 それを知った国中の事業家は我先にとこの地方を訪れ、当地の領主に商談を持ちかけました。けれど領主は決して首を縦に振りません。どれほどの好条件を提示しようが、脅迫まがいのことをしようが、領主は頑健に採掘権を譲り渡しませんでした。
 それはハリスにしたところで同じでした。彼とその部下はすでにこの地にひと月近く滞在していて、もう何度となく交渉を持ちかけていましたが、まったく相手にしてくれません。そろそろあきらめて引き上げたほうがいいのでは、誰もがそう考え始めていた頃でした。
 「おい」
 隅の小机に座って何か読み物をしている人物をハリスは呼びかけました。
 顔を上げるその人物は、まだ少年のあどけなさを残し、本人は真剣でいるつもりなのでしょうが、どこか間の抜けた、無邪気な微笑みの絶えない青年でした。
 「どうだ、勉強は進んでいるか」
 「いえ、この地方の風土記が手に入ったので読んでいたところです。勉強ではありません」
 「――そうか、それならちょうどいい」
 「はい?」
 「お前、行ってこい」
 「行ってこいって、どこにです?」
 「決まってるだろう、ここの領主のところへさ――」


 「わしがこんなに可愛がっておるのに、最近あの孫ときたら悪さばかりしおるのじゃ」
 「はぁ」
 「花瓶は割るわ、絵に落書きするわ、わしが怒るようなことばかりしおるのじゃよ」
 「それは大変ですねぇ」
 「うむ」
 「でもその気持ち、わかるなぁ」
 「そうかの?」
 「ええ。そのお孫さんはきっと、お祖父ちゃんのことが大好きでたまらないんですよ」
 「はて?」
 「気を引きたいといいますか……。おじいちゃんに、怒るくらい真剣に自分のことを見てほしい、ずっと自分のことを思っててほしい、それくらい大好きなんです」
 「……」
 「僕にはわかるなぁ、子どものときのそういう気持ち。ぶつける相手が僕にはいませんでしたから……」
 「……すまぬ」
 どこまでも穏やかな彼の横顔に、橙色の影が差していました。
 「もうこんな時間でしたか。僕はそろそろおいとまさせていただきます」
 「あ、あぁ……」
 「お孫さんによろしくお伝えください。大好きなお祖父さんをあまり困らせちゃダメだぞって」
 彼は老人に深くお辞儀して、部屋を退出しようとします。
 「お前さん……名は?」
 彼はドアノブに手をかけたまま振り向き、答えました。
 「……ルーウェンと申します」
 「ルーウェン……いい名じゃな」
 「ええ、僕も気に入っているんです。父が僕に残してくれたたったひとつの宝物ですから」


 「どうだった?交渉はまとまったか?」
 ルーウェンは、逗留する邸宅に帰り着くなりハリスに尋ねられます。
 「交渉と言われても……。ずっとお孫さんの話を聞いていただけですし」
 「まご!?」
 はぁぁ〜。
 体中の酸素を搾り出すようなため息がハリスの口から吐かれました。
 「期待した私がどうかしてた……。ルーウェン、もう個室で休んでいいぞ」
 「はい」
 姿勢を一瞬正して、ルーウェンは部屋を後にしました。
 入れ違いに部下が部屋に入ってきます。
 「あのー」
 「なんだっ!」
 「ひっ!あ、あのですね、例の領主の使者という者が先ほどやってきて、これを渡してくれと……」
 「ん?」
 その手紙の文面を要約すると、こうでした――。
 この地域には産業もなく貧しい住民が多いので、新しく見つかった鉱脈を採掘することで彼らが豊かになるのなら、それは望ましい。
 しかし採掘による環境汚染で住民、特に子どもたちの健康に害が及ぶようなことは避けたい。
 この地域では、子どもを神と同じように敬い大切にする土着の習俗が根強く、彼らをないがしろにするような事業家に採掘を委ねたくなかった。
 そこで、この地の鉱脈採掘権を貴殿の事業に委ねることにした。
 ただし条件として、毎日の採掘量の上限を定め、廃棄物の厳密な管理をお願いしたい。
 鉱脈の利益を住民に分け隔てなく与え、この地域全体が豊かになるような事業を行って欲しい。
 そして、この地に関する全ての事業を、先ほど訪ねてきたルーウェンという若者にお任せしたい――。


 「また、やったのか……」
 ルーウェンは実に奇妙な人間でした。
 彼はハリスの館に勤めているメイド、シーリアの弟でした。高校を立派な成績で卒業したものの、両親はとうになく、その身を保証してくれる確かな人物がいなかったために、就職がうまくいきませんでした。
 それで困っているという話をシーリアから聞いたハリスは、ルーウェンを助けてやろうという気になったのでした。
 彼女には以前より何かと世話になっていましたし、それに――
 「ごほっ、それはいい……」
 とにかく、ハリスはルーウェンに事業経営を通して社会勉強をさせ、しかるべき時期にしかるべき仕事を紹介する腹づもりでいました。
 しかし、ルーウェンはその不思議な才覚をすぐさま発揮していきました。
 彼は何より、人とうち解けあうのがどうしてか得意でした。
 ぶしつけでない自然体に、鼻につかない気品をバランスよく兼ね備えた丁寧な物腰は、相手を安心させました。
 わざとらしさの微塵も感じられない微笑みを始終絶やすことなく、生来の穏やかさが相手の心を解きほぐしていきました。
 今回のケースのように、部下やハリス自身が交渉でしくじり、相手方の不興を買ってしまったときにルーウェンが間を取り持つと、当初予想もしていなかった奇妙な形で交渉がまとまりました。
 「ルーウェンくんにお願いしたい」
 「彼に全てを取りしきって欲しい」
 相手方が決まってそう申し出てくるのです。
 ルーウェンは経営に関してはまったく未熟で、そのほとんどが部下のサポートを必要としましたが、それでも相手の期待に沿わなければという責任感をもって、真摯に取り組んでいきました。
 そうして、ルーウェンの経営に関する手並みは目覚ましく成長していきました。まるで砂が水を含むかのように、ハリスの指導をみるみる身につけていきました。
 ハリスは当初ルーウェンを助けてあげるつもりでいました。しかし今となっては、ハリス自身が彼に助けられていました。しかるべきときにしかるべき仕事を紹介するつもりでもいました。しかし今となっては、ルーウェンを手放す気などハリスには全くなくなっていたのでした。


 「どうだ、やってみるか」
 「はいっ、ぜひやらせてください」
 「――よし。一ヵ月後には正式の責任者を決めて赴任させる。それまでルーウェンはこの地にとどまって、領主や住人たちの要望を十分に聞き、お前の率直な意見も添えて私に報告してくれ」
 「はい」
 「それを元に私が事業計画を立てる。ルーウェンは現地と私を繋ぐパイプ役として、私と対等であるように振舞って欲しい。これならむこうの領主も納得するだろう」
 「……」
 ルーウェンは、絶句とも感激ともつかない表情でハリスを見ていました。
 「ん?計画が決定するまではひとりで事に当たらせることになるが、頑張ってくれ。私はひとまず引き上げないことには、次の仕事もあるしな」
 ハリスはそこまで言うと、机に置いてあったカップを手に取り口につけました。
 「ちっ!」
 顔をしかめ、勢いよくカップを机に戻します。
 「つくづくコーヒーとはまずい飲み物だな」
 「あの、僕が紅茶淹れましょうか?」
 「なっ……。シーリアの淹れる以外の紅茶など飲めるか……」
 「は?」
 「男の淹れた紅茶など飲めるものかと言ったのだっ!」
 吹き出したいのを必死に堪えてルーウェンは部屋を後にします。ハリスの胸元に下がる懐中時計がそのとき、白銀の光にまばゆいでいました。


 ――親愛なるシーリア姉さん。
 お元気ですか?僕はなんとかやっています。
 仕事の都合で僕はまだしばらくこの地に留まることになりました。姉さんに早く今回の旅の話などをしたかったのだけれど、ハリス様のご好意で大きな仕事を任せていただいたので、精一杯頑張りたいと思っています。
 そうそう、ハリス様はあと1週間ほどすれば館へお帰りになります。この手紙が着く頃には到着されているでしょうか。
 この地は日中よく暖まるので薄着をする癖がついてしまっています。館ではハリス様のお召し物には注意したほうがいいかもしれません。
 あと、ハリス様はこの滞在中コーヒーばかり飲んで、「まずい」とばかり言っていました。そのくせ僕が紅茶を淹れてあげようとすると子どものように嫌がるんですよ。
 昔、母さんが仕事でいない日中、姉さんの淹れてくれる紅茶が飲みたいとだだをこねていた子どもの頃の自分の姿を思い出してしまいました。
 きっとハリス様は、姉さんの淹れてくれる紅茶を楽しみに旅先の仕事に精励していらっしゃるのでしょう。どうぞ姉さんにおかれては、帰宅されたハリス様に心のこもった一服を差し上げてくださいね――。


 ルーウェンはそこまで手紙を書き進めて、いつだったか、シーリアの部屋で話したときのことを思い出していました。
 精巧な装飾の施された細身の銀時計を、シーリアは嬉しそうに見やりながら、
 「ハリス様からね、これをいただいて、こうおっしゃったのよ――、『これからも私の……館にいて欲しい』って。そんなの、こちらからお願いしたいくらいなのにね」
 メイドの仕事をすることに決めたと、親戚の家に預けられていた自分に告げに来たときの、不安に沈んだ表情をしていたシーリアを、今ではその影すら想像することのできないくらい、明るさと安らぎに満ちた表情をしていました。
 姉さんをこんなにも幸せにしてくれたのはハリス様に違いなくて、ルーウェンは、姉さんを愛する気持ちと同じくらい、いつか彼の力になれるような人間になりたくありましたし、彼のような兄さんができたらどんなにか素晴らしいことだろうと、心から思わずにいられないのでした。


 それから1週間ほどして、ハリスとその部下たちは予定通り首都にある本部へ出発しました。
 この地に残ったルーウェンは、一行の定宿だった邸宅をそのまま借り受け、そこにひとり住まいながらあの孫好きな領主の元に通い、彼の話を直接聞いたり、彼の紹介する住民たちと話をしたり、あるいは街の盛り場で人々の話に聞き耳を立てたりしていました。
 住民のうちの働き手の多くは、産業のないこの地を離れ、遠方の発展した町に長期間出稼ぎに出ていました。それゆえ街には女性や子ども、老人たちしかいなく、どこかうらぶれて、活気に乏しい様相を呈していました。
 この地に採掘を中心とした産業を根付かせるには、まず彼らを呼び戻すのはもちろんのこと、人々の生活を支える街自体から再生していかなければなりません。
 ただ炭鉱夫を雇って働かせるだけでは産業は育たないのです。領主が自分に寄せてくれた期待に応えるために、ルーウェンは聞いた話や自らの足で行った調査を家に持ち帰り、毎日深夜に及ぶまで思案に暮れていました。
 そんなある夜のこと。帰り道に寄った閉店間際のパン屋で買ってきた、ひからびたパンをかじりながら机の上でペンを走らせていたとき、ドアをノックするようなささやかな音がルーウェンの耳に入ってきました。
 領主からの使いか何かかと思い、ルーウェンはドアを開けました。
 するとそこにはひとりの女の子が立っていました。
 背丈はルーウェンの胸ほどもなく、年のころは13,4といったところでしょうか。部屋の明かりがほのかに照らす彼女の顔は、端正だけれども奇妙なまでに表情が乏しく、それはまるで暗闇に浮かび上がるフランス人形のようでした。
 「ぁ……」
 彼女は、ほんのわずか口を開いて意味のない言葉を発したかと思うと、手に持っていた紙をルーウェンに突き出しました。
 「?」
 それは手紙でした。ずっと握りしめていたのでしょう、しわだらけになっていたそれをルーウェンは受け取ると、その場に開封し読んでみました。


 ――前略。ルーウェンへ。
 元気でやっているか。困ったことがあったら遠慮せず電報で知らせろ。
 というより私がこれからお前に困ったことを押しつけることになるのだが。
 この手紙を持つ女の子についてだ。
 私がかつて世話になった知り合いが事業に失敗して、その居館を引き払うことになった。
 その後始末を私が引き受けることになったのだが、その館で養われていたのがこの子だ。どうやらその知り合いの温情でどこからか引き取ってきたらしい。
 館に勤めていた者については全て、再就職を斡旋するなり退職金を払うなりして始末がついた。だが、この子はメイドではない。とはいえ身寄りもないようなので扱いに困り果てていたときに、お前のことを思い出した。
 ひとりでは何かと不便が多かろう。彼女はまだ幼いが家事全般得意なのだそうだ。
 彼女のことをどうにかしろとか、そんな無責任なことを言うつもりはない。
 知り合いの館がたまたまお前の今いる地に近かったこともあったので、ひとまず預かって欲しい。
 無口だが賢い子なので迷惑にはならないだろう。
 彼女の身の振り方はこちらでまとまり次第すぐに連絡する。それまでは悪いがよろしく頼む。以上。
 追伸。シーリアさんを悲しませるようなことをしたら、承知しないからな。
 ――ハリス


 ルーウェンはあきれたように軽く手で天を煽いだものの、すぐ直って彼女に向きあいました。
 「どうぞ」
 とりあえず彼女を部屋に招き入れます。ぴとぴとと彼女は中に入っていきました。
 「僕はルーウェン。ハリス様から話は聞いてると思うけど――」
 「……」
 「その、よろしく……。えっと……君の名は?」
 「……フィリスフィア。ご主人様」
 「ご、ご主人様!?それはちょっと、違うような……」
 「ご主人様、ちがう、の?」
 表情こそ変わらないものの、声に少し不安色が混じっていました。
 「身の回りの世話をしてくれる、んだよね?」
 こくり。
 「お世話するとき、前は『ご主人様』って呼んでた」
 「僕の名前は、ルーウェンっていうんだ」
 「うん、ルーウェン、わかった。ご主人様」
 「……」
 自分が給金を払っているわけではないのに、ましてやメイドでもない幼い女の子に「ご主人様」と呼ばれるのはどうにもくすぐったい気持ちがしたけれど、フィリスフィアが呼びたいようにさせてあげたいとも、ルーウェンはなんとなく思いました。
 「とにかく、よろしくね、フィリスフィア」
 こくり。
 彼女はこじんまりとした顔でうなづくと、手提げ袋を椅子に置きました。肩にかかっていた長髪をごく自然に軽く払うと、両手をそのまま背中に伸ばします。
 じぃぃぃぃ。
 首元に当てられた両手で、フィリスフィアはおもむろにホックを下げていきました。
 「え?」
 ルーウェンが驚く隙もなく、フィリスフィアの着ていたワンピースはするりと地面に脱ぎ落とされていました。純白のシミーズと、それに勝るとも劣らない肌色の胸元があらわになります。
 「あぁ……」
 それは自分が見ていいものなのか、見てはいけないものなのか判断する余裕すらルーウェンは持ち得ずに、ただフィリスフィアの幼くすべらかな肢体を茫然と眺めていました。
 「ん……と」
 彼女はルーウェンのことなどまるで構わずに、ひょう然とした態度で手提げ袋の中に手を入れると、中から衣服を――メイド服でした――を取り出しました。
 それをフィリスフィアは手際よく着ていきます。するするという衣擦れの音が静かな部屋に染み渡っていきます。
 「は……ふぃ」
 ルーウェンが3回目の息をしないうちに、フィリスフィアが平べったい息を吐くころには、幼いメイド嬢が完成していました。
 ことことこと。
 フィリスフィアは次に部屋を物色し始めました。長いレースのスカートを地面すれすれで揺らしながら、戸棚を開け、台所の食器を確認したあとは、部屋を出て、寝室や納戸があるほうの廊下を歩いていきました。
 「うーん……」
 開け放たれたドアの先から物音が聞こえてくるのを意識しながら、ルーウェンは、ハリスから託された手紙の追伸を頭の中でかみしめるようにして、何度も反芻しているのでした。
 ごとっ。
 「ぁわっ」
 ――。


 そうして。ルーウェンとフィリスフィアの奇妙な生活が始まりました。
 朝。ルーウェンはスープとパンの焼ける匂いで目が覚めました。
 張りのあるスーツとしゃきっとしたブラウスが壁に掛けられ、家を出る時刻になると、いつ作ったのか定かにできない恰幅のいいお弁当が、可愛らしい花柄の小袋に入れられ、ルーウェン愛用のクラシックなバッグと並んで置いてありました。
 「えーっと、行ってきま、す?」
 あまりにも出来すぎた朝の諸儀礼に現実味のいっさいわかないルーウェンは、疑問系のあいさつを発します。
 こくり。
 フィリスフィアは無言のまま、無表情の顔で、ベランダから落ちた鉢植えみたいに”すとん”とうなずきます。
 夜。ルーウェンが帰宅しドアを開けると、玄関には必ずフィリスフィアが立っていました。彼の顔ではなく、自分の目線の水平にある彼の胸元を見つめています。
 「た、ただいま」
 戸惑いながらルーウェンがあいさつすると、フィリスフィアはやはり、
 こくり。
 うなずきます。
 ルーウェンがスーツの上下を脱いでハンガーに通して壁に掛け、ブラウスを洗濯かごに入れ部屋着に着替え終わる頃には、居間から肉の焼かれる匂いが漂ってきます。このときになって初めて、ルーウェンは自分がお腹の空いていることを思い出すのでした。
 掃除の行き届いたお風呂場で、浴槽をきゅっきゅっと鳴らしながらルーウェンは湯船に浸かります。趣味の長風呂を堪能してあがってみると、脱ぎ捨てた下着を入れたはずのかごに、洗濯された下着がきれいにたたみ掛けてありました。
 お風呂からあがり全裸のまま真っ白な下着を見つめているこのときほど、ルーウェンはこう思わずにはいられないものでした。
 メイドという職業が今日のように不人気となってしまった原因は、お金持ちという人種が性質的に人の痛みがわからないためにメイドにひどい仕打ちをしてしまうから、ではなく、お金持ちが、お金持ちとしてのプライドを保つためにメイドをたくさん雇い、こうも至れり尽くせりに奉仕させていると、どうしたって人として堕落してしまうから、それが結果的にメイドに不幸をもたらしてしまうことになるのではないか、と。
我田引水というつもりはないけれど、お金持ちが戦わなければならない相手は、ライバルでも政府でもなく、むしろ堕落にかしぐ自らの怠惰そのものなのだ、ということは確かのような気がしました。
 そして、まるでそういう世界とは一生無縁であるはずだった自分が、こんな場違いでそんな勘違いのご奉仕を受け、仮初の堕落の淵に立たされながら、せんなき考えをめぐらせているこの状況こそ、ルーウェンにとっては滑稽以外の何者でもありませんでした。
 へっくしゅん。
 ふと我に返ると、ルーウェンの体はすっかり冷めきっていました。あわてて、下着を取ろうと屈みながら手を伸ばしたとき、彼は自分の股の間から逆さまのフィリスフィアの顔を見つけました。
 「ご……ぅ……ぁ」
 ドアから顔だけ覗かせていたフィリスフィアは、口と視線を固まらせています。その視線の先には、ルーウェンの逆さまの顔だけがあるわけではありませんでした。
 「や、やぁフィリスフィア。こ、こっちはいいから、向こうに……」
 なんとなく起き上がれない気がしたルーウェンは、そのままの体勢で、股の間からフィリスフィアに話しかけました。
 こくり。
 彼女はいつもよりちょっと高速でうなずくと、小走りで廊下を戻っていきました。
 こざっぱりとした下着の感触を嗜みながら、ルーウェンはまたしても、ハリスから託された手紙の追伸を頭の中でそしゃくするようにして、何度も反芻しているのでした。


 夜も更けて、ルーウェンはその日に見聞きしたことを書斎の机でレポートにまとめていました。
 コーヒーを淹れて持ってきたフィリスフィアは、お盆を胸に抱えたまま書斎の中で手持ちぶさたにしています。
 一息ついてルーウェンが顔を上げると、フィリスフィアは壁を一心に見つめながら、バレリーナみたく片足のつま先を地面に着けてくるくるさせていました。
 「フィリスフィア?」
 ルーウェンは声をかけます。彼女は足のしぐさを止め彼のほうを向きました。
 「僕もこれ書き終えたら眠るだけだし、先に寝てていいよ」
 こく。
 フィリスフィアは半端にうなずきつつも、再び壁をにらみ始めます。壁に何かあるのだろうかと、ルーウェンは気になってその壁を見ますが、取り立てて特徴のない、シンプルな壁紙が張ってあるだけでした。
 「そういえば――」
 ルーウェンはさらに続けます。
 「フィリスフィアは日中何してるの?」
 彼女はルーウェンのほうを横目で見ながら、
 「……お買い物…とか、お掃除」
 「そっか」
 またしばらく時間が流れました。フィリスフィアが、自分が寝に行ったあとでなければ眠らないことにうすうす感づいたルーウェンは、書き物を八分目で切りあげて、就寝することにしました。
 明かりを消し、別々の寝所へ向かう廊下を歩きながら、ルーウェンはフィリスフィアが日中暇をつぶせる何かを用意しようと思っていました。それは彼女のためというより、ただ彼女から一方的に奉仕されているだけだと自分の身がもちそうもないので、むしろ自分のためというほうが大きいのでした。


 「フィリスフィア、ちょっとおいで」
 翌夜。家に帰り着いたルーウェンには、彼女に渡すものがありました。
 こくり。
 小走りで駆け寄ってくるフィリスフィアに、ルーウェンは鞄の中から何冊かの本を取り出し、手渡します。それは、領主の家にあるたくさんの本の中から彼が選んで借りてきた、絵本でした。
 「?」
 フィリスフィアは小首を傾げています。さすがにこの年齢で絵本はないだろうとルーウェンも思いましたが、彼には暇つぶしの手段として本を読むことくらいしか思いつかず、街で一番の蔵書量を誇ると言われている領主の家には、絵本か、さもなければ難しい学術書の類しかありませんでした。
 「日中の暇なときにでも、読んでみるといいよ。子どもっぽいかもしれないけれど、きっと楽しいから」
 いくらか神妙な手つきで、フィリスフィアは数冊の絵本を胸に抱え込みました。本の匂いを嗅ぐようなしぐさをします。
 「ぁ……」
 はっとしたように、フィリスフィアの無味な表情が少しほころびたような気がルーウェンはしましたが、彼女はすぐに振り返り、自室のほうへ駆け出して行ってしまいました。


 朝。
 いつもは絶妙の半熟具合と、やわらかさとカリカリ感がバランスよく焼きあがっていたベーコンエッグが、今日のは黄身に歯ごたえがあり、ベーコンはカリカリ感しかありません。
 「?」
 ルーウェンは不審に思ってフィリスフィアのほうを見やると、小さなあくびをひとつ、していました。


 朝。
 いつもは壁に掛けてあるスーツとブラウスが、今日はズボンが欠けていて、ブラウスがちょっとだけよれていました。
 「フィリスフィア、ズボンは?」
 ルーウェンはフィリスフィアに尋ねると、彼女は顔いっぱいのあくびを手で押さえながら、多少慌てているような雰囲気でズボンを持って来ました。そのとき、どうしてか絵本も一緒に渡してきます。
 「ん?もう読み終わったの?」
 こくり。
 「もっと、借りてくる?」
 こくりこくり。
 フィリスフィアは二度もうなずきました。朝日の加減でそう見えるのかわかりませんでしたが、そのときの彼女の表情が、薄く明るんでいるのにルーウェンは気づきました。
 「わかった」
 絵本を鞄にしまいながら、ルーウェンはなるべく鞄の容量を空けておくために、いくつかの書類を取り出して机に戻していました。


 朝。
 着替え終えて居間にやってくると、朝食の支度はしてありません。フィリスフィアは、テーブルの横でフライ返しを片手に持ちながら、寝ぼけまなこをその細い腕でこすっています。
 「コーヒー、くれるかな」
 そういう日もあるだろう、ルーウェンはそう思い、フィリスフィアの淹れた苦いコーヒーでとたんに眠気を追い払ってから、家を出ました。


 朝。
 ルーウェンは顔を洗ったあと着替えをしようとしたものの、いつもスーツが掛けてある場所にスーツはありません。居間に行ってみたものの朝食の支度はなく、ついにはフィリスフィアの姿すらありませんでした。
 やむなく彼女の寝室を覗いてみます。
 すぅー……すぅー……ーむにゃむにゃ。
 フィリスフィアはこれ以上ないというくらいの健やかな寝息を立てていました。
 「そういう日も、あるよね……」
 ルーウェンは軽く笑いながら、まずスーツがどこにしまってあるのか探索することから始めなければなりませんでした。


 ルーウェンは街の大通りに面したおもちゃ屋に来ていました。
 それは元おもちゃ屋でした。ほこりが積み重なり、明かりもないために薄暗く、今となってはかつてそこがおもちゃ屋であったことを証明するのは、奥の棚に取り残された一体のぬいぐるみくらいのものでしょう。
 童話じみたあどけない表情の熊のぬいぐるみは、茶褐色であったはずの肌を白く濁らせ、肩の部分に赤い札が付けられていました。それは差し押さえ物であることを示す札でした。
 役人にすらその存在を忘れ去られ、収奪しそこなわれたそのぬいぐるみは、埋め込まれた笑顔がいっそう悲しみをそそります。
 このおもちゃ屋の店主であった人物は、かつて街の商店街連のリーダーでした。若いけれど思慮深く、やわらかな笑顔と物腰が子どもたちにたいへん慕われ、おもちゃ屋はいつも子どもたちで賑わっていました。
 この若きリーダーの元で商店街の再興が試みられた時期もありました。けれど、どんなに子どもたちに慕われようと、おもちゃを買ってくれる親がいなければおもちゃは売れません。親たちは外地へ出稼ぎに出ていて、とてもではないけれどおもちゃを子どもに買ってあげられる経済的・精神的余裕はありませんでした。
 それでも、商店街にかつての活気を取り戻すため、リーダーであり続けるために彼は借金を重ねながら自分の店を維持していきました。
 しかし、そんな状態は長く続きませんでした。
 ある日。彼は、家族ともども突然おもちゃ屋からいなくなっていました。人々が店の前で訝しがっていると、役人たちがいきなりやってきて店のあらゆる物品に赤い札を付けていきました。
 取り巻きの店主たちは全ての事情を察しました。そして、リーダーを失った商店街に再起の機運が盛り上がることはなく、ひとり、またひとりと店をたたんでいくばかりとなっていきました。
 領主は言います、おもちゃ屋が子どもたちで溢れ、しかも繁盛している街こそが、本当に豊かな街なのだと。ルーウェンもまったく同じ思いでした。そして、豊かな街というものを心から知っていて、自らの身を削ってまで街の再興に賭けていたおもちゃ屋の若き店主こそ、これから産業を起こし、人々の生活を支えていかなければならないこの街の商店街にとって、不可欠な人物だという思いもまた、同じなのでした。
 「……」
 ルーウェンはなぜだか居たたまれなくなって、ほこりに煤けたぬいぐるみを手に取り、丁寧に払ってあげます。
 そのとき、通りに面した店のドアがぎぎぎと壊れかけの音を立てて開かれました。
 「ん?」
 ルーウェンは振り返ります。するとそこにはフィリスフィアが立っていました。手にはいつもお弁当箱の入っていた、あの花柄の小袋がありました。
 「ご主人様……おべんと…持ってき――」
 フィリスフィアはそこまで言って、ぷつんと止まりました。
 「?」
 ルーウェンは不思議に思ってフィリスフィアをよく見ます。すると、彼女の体が小刻みに震えているのがわかりました。
 「ぁ……ぅぅ……ぃ……ゃ」
 「ど、どうし――」
 「い、いやあああああああああああああっっ!!」
 フィリスフィアとは思えないほどの大きな悲鳴をあげて、彼女は慄然としました。お弁当箱の入った小袋が地面に落ちた音がしたかと思うと、痛々しげに歪んでいた顔がいつもの無表情に戻り、すとんと地面に崩れていきました。
 「フィリスフィアっ!?」
 ルーウェンは慌てて彼女の元に駆け寄っていきました。抱きかかえてみると、既にフィリスフィアの意識はありませんでした――。


 夢を、見ていました。
 目の前に大きな男の人が立っています。でものどから下しか見えなくて、顔は真っ黒く塗りつぶされていました。
 「父親は、どこにいる?」
 その人は、大好きなパパに買ってもらった大好きな人形を無造作に握りしめていました。熊の頭がぐんにょりとつぶれていました。
 「あたしのぬいぐるみかえしてっ」
 「父親はどこにいると、聞いている」
 その人は手をさらに力むと、ぬいぐるみの頭は彼の手にすっぽりと納まってしまいました。指の間からちょっとはみ出したぬいぐるみの肌に、自分の付けた覚えのない赤い紙がちらりと見えました。
 「あたしのぬいぐるみ、かえしてっっ!」
 「父親はどこにいったと、聞いているっ!」
 その人はまるでお話に出てくる怪物のような恐ろしい怒りを叫び、おもむろにぬいぐるみの手をつかむと――
 びりびりびり。
 引き裂いていきました。
 肩の部分がざっくりと割れて、中から白い綿が脹れ落ちていきました。
 大好きなパパの買ってくれた大好きな熊のぬいぐるみでした。
 あってはならないことでした。あるはずのないことでした。
 顔を漆黒に包んだ怪物が自分に手を伸ばしてきます。熊のぬいぐるみを引き裂いたその手で、肩をつかみました。
 痛い――
 「い、いやあああああああああああああっっ!!」
 「フィリスフィアっ!」
 ルーウェンは彼女の肩をつかみ、揺さぶっていました。
 「ぅ……ぁぁ」
 フィリスフィアは意識を取り戻しました。彼女は自室のベッドに寝かされていました。
 着ていたはずのメイド服ではなく、愛用の寝巻きを着ています。
 フィリスフィアの額で玉を作っている汗を、ルーウェンはタオルでふき取りました。
 「大丈夫?落ち着いた?」
 頬を湿らす汗か涙もふき取りながら、ルーウェンはフィリスフィアにやさしくたずねました。
こく。
 彼女はわずかにうなずきます。けれどシーツを握る手には力がこもり、フランスパンの先っぽのようなあごが小さく震えているのが見て取れました。
 「そうだ、のどが渇いたでしょ。ちょっと待ってて」
 ルーウェンはそう言うと椅子を立ち、部屋から出て行きました。
 フィリスフィアは、目を閉じるとまたさっきの光景がよみがえってきそうで怖かったので、なるべくまばたきしないように、天井の水玉模様を数えていました。
 ルーウェンはお盆を持って部屋に戻ってきました。
 お盆には、美しい装飾の施されたティーポットと、おそろいのカップが載せられています。
 「紅茶は、口にあうといいけれど」
 ルーウェンは椅子に座り、お盆を膝の上に乗せると、カップに紅茶を注いでいきます。
 とぽとぽとぽ。
 「……」
 紅茶を注ぐルーウェンの様子は、どうしてかひどくさわやかでした。
 怖い夢のあとにおびえていたフィリスフィアは、彼の様子を見つめていると、自分の気持ちがまるで紅茶に沈んでいく角砂糖みたいに、ゆるゆると溶きほぐれていくのを感じていました。
 「はい、どうぞ」
 知らぬ間に起き上がっていたフィリスフィアは、カップを貰い受けました。
 ぴと。
 んくくく。
 フィリスフィアはなんとなく目を閉じて、紅茶を飲んでいきます。
 予想していた沸かし立ての熱さではなく、ほどよい温かさが体にそのまま染み落ちていきます。ほのやかな甘みと清涼な茶味が胸に広がっていきます。
 ほんのわずかに上気した目元の、フィリスフィアは閉じていた目を開けます。
 「……ん」
 フィリスフィアはこのとき初めて、ルーウェンの顔をちゃんと見ました。
 彼女は、背の高い人物を見上げるのがどうしても嫌でした。苦手でした。
 けれど、今はまぶたを開けるとそのままの目線で彼の顔が入ってきました。
 そして、湯気の向こうに浮かんでいるルーウェンのひどく穏やかなまなざしに、フィリスフィアはここではないどこかをうっとりと見つめているのでした。
 そこでは、夢の中で引き裂かれていたぬいぐるみのように突然いなくなってしまったパパが、自分の元に帰ってきてくれたかのような心地がしました。
 とたんにフィリスフィアの心を、のどの奥がつーんとするみたいな幸せと、泣きたくなるくらいのどきどきが満ち溢れます。
 思わず目を閉じなければいられなくなって、フィリスフィアは目を閉じて、残りの紅茶を飲んでしまおうとしました。
 本当はもっとゆっくり味わって飲みたかったのだけれど、そうしているとこぼれてしまうそうだったからです。
 全てを飲んで、空のティーカップをルーウェンに突き返すように渡します。
 「あ、口にあわなかったかな」
 ルーウェンは残念そうにティーカップを受け取り、お盆に戻しました。
 「ち、違っ!ぁ……」
 むきになって否定してから、そんな自分の態度に驚いたように、
 「おいし……かった……」
 フィリスフィアは素直な感想をぽつり口にしていました。
 「そっか、良かったぁ」
 とたんくつろいだようにルーウェンは息を吐きます。そんな彼の様子が気になったフィリスフィアは、薄目を開けてみました。
 「ぅぁ……」
 フィリスフィアは勢いよく枕に頭を落とし込むと、ルーウェンを背に片寝を決め込みました。
 「ん?そうだね、もっと休んだほうがいいかもね。今日はお仕事のことは気にしなくていいから」
 フィリスフィアは、自分でもよくわからない心の作用で涙が止まらなくなっていました。
 「何かあったら呼んで。今日は僕も家にいるから」
 そう言って、ルーウェンはお盆を持って椅子を立ち上がろうとしました。
 すると、彼のスーツの端を布団から伸びてきた手がつかみます。
 「ご主人、さま……」
 「ん?」
 「もっと……そばに、いて……」
 いつものように小さな声で、けれどはっきりとフィリスフィアは伝えてきました。ルーウェンはそれが、彼女が初めて示した意思だということに気がつきました。それを大切にしてあげたいと、ルーウェンは心のごく深い部分から思いました。
 「うん、わかったよ……」
 持っていたお盆を地面に置いて、ルーウェンは椅子に座りなおしました。
 フィリスフィアの息のリズムと、肩がわずかに上下するのをおぼろげに気にしていると、彼女は安らかな寝息を立て始めていました。
 「……んん、パパ……パパぁ」
 まるで遊園地に遊びに行った幼子がパパを連れまわしているかのような、嬉々としてパパを呼ぶフィリスフィアの寝言が聞こえてきました。
 ルーウェンは、彼女の幸せな夢がどうかこれからも損なわれることのありませんようにと、おまじないみたいに彼女の額に唇を当ててから、部屋を後にしました。


 朝。
 ルーウェンはスープとパンの焼ける匂いで目が覚めました。
 張りのあるスーツとしゃきっとしたブラウスが壁に掛けられていました。
 絶妙の半熟具合と、やわらかさとカリカリ感がバランスよく焼きあがっていたベーコンエッグと、鮮やかな色合いのサラダ、こんがり焼けたトーストが2枚の朝食。
 家を出る時刻になると、いつ作ったのか定かにできない恰幅のいいお弁当が、可愛らしい花柄の小袋に入れられ、ルーウェン愛用のクラシックなバッグと並んで置いてありました。
 フィリスフィアはまったくいつも通りの彼女に戻っていました。
 あえていつも通りとはいえない点を探せば、それまではルーウェンが「おはよう」とあいさつしても彼女はうなずくだけだったのが、「おは、よう……」と、ぎこちないながらどことなくさわやかな雰囲気で返すようになったこと。
 それまではルーウェンが「行ってきます」と家を出るとき、フィリスフィアはやはりうなづくだけだったのが、「いって、らっしゃい……」と、ぎこちなくどことなく寂しげな雰囲気で返すようになったことでした。
 「……」
 家のドアを閉め通りに出ようとしたとき、ルーウェンは足を止めました。
 送り際のフィリスフィアの寂しげな表情と、昨日ベッドでの彼女の態度が脳裏に浮かび、あるいは日中彼女をひとりにしておくことへの不安から、その結論はごくあっさりと導かれていきました。
 ルーウェンは振り返り玄関にとって返すと、自らのぬくもりがまだ残るドアノブを握りドアを開けました。
 「ぅぁ?お、おかえ――」
 フィリスフィアはついさっきルーウェンを送ったときのままの佇まいで、きょとんとしながら彼を迎えました。
 「フィリスフィア、一緒に行こうか?」
 「ふぇ?」
 ルーウェンは思わずフィリスフィアの手を取り、家から連れ出していました――。


 「そういうことなら、構わんよ」
 ルーウェンはフィリスフィアを連れて領主の館に訪れていました。もちろん、彼は毎日決まって朝一番でこの館を訪ねることにしていました。
 以前ルーウェンが借りてきたこともある、この館に豊富にある絵本は、ただのコレクションではなく、実際に子どもたちが読み、領主が聞かせてあげるためにある、まさに生きた絵本でした。
 領主の館にはいつも子どもたちが溢れています。ある子は図書室で絵本を静かに読み、またある子は館の外に広がる豊かな自然を駆け回り、木登りをしたり、あるいはおままごとやお花摘みに興じていました。
 出稼ぎに出ている父親と、街中で働く母親のために面倒を見てもらえない子どもたちを、領主は自宅に預かり、世話をしているのでした。
 また、この地には公設の学校もなく、貧しい子達は満足な教育を受けることもかないません。子どもたちの行く末も考えて、領主は地道に教科書や文学書・歴史書なども収集していました。
 ルーウェンはこの館で、日中のフィリスフィアを預かってもらうことにしたのです。
 「フィリスフィア、この館は気に入ったかな?」
 領主との快諾を取り付けて、ルーウェンはさっそく彼女に尋ねてみました。しかしフィリスフィアは既に地べたに座り込み、壁を背もたれにして絵本に夢中となって彼の言葉に聞く耳を持ちません。
 「良い読みっぷりですな」
 「す、すいません」
 かーっかっかっかっ!
 領主の豪快な笑い声が部屋を埋めつくしていきました。


 それからフィリスフィアは、日中のほとんどの時間を領主の家で過ごすようになりました。
 朝、ルーウェンと一緒に家を出て、夕、ルーウェンが迎えに来るまで、彼女は時も忘れて絵本を読みふけるようになっていました。
 昼食の準備やおやつの支度は、いつの間にか当然のことのようにフィリスフィアが担当していました。
 「フィリスフィア、料理を作ってくれるかね?」
 先日のこと。領主は彼女にそう促し、彼女は、
 こくん。
 うなずいたのです。
 子どもたちや館の勤め人たちは当初心配そうに見ていましたが(領主はルーウェンから聞いていたので安心して見ていました)、彼女の年齢や言動からは想像もつかない手際のよさで、美味しい料理や甘いお菓子を次々作っていきました。
 魔法みたいなフィリスフィリアの姿は、来て間もないというのに、ましてや無口で無表情の彼女だというのに、あっという間にみんなに受け入れられていきました。今では頼りになるお姉さんとして、子どもたちの間で引っ張りだことなっているくらいです。
 太陽が傾く時刻になると、それまで夢中になって読んでいた絵本を本棚にしまって、フィリスフィアは時計を気にしながらそわそわし始めます。
 「フィリスフィア、迎えに来たよー」
 玄関からルーウェンの呼び声が聞こえてくると、待ってましたとばかりに勢いよく駆けていきます。そうして、ふたり手を繋ぎながら商店街で夕食の買い物をして、帰宅するのでした。
 ルーウェンは書斎の机でいつものレポートを書いています。
 フィリスフィアは館から借りてきた本を椅子に座って読んでいます。
 ルーウェンがペンを置きます。フィリスフィアは本を閉じます。
 「おやすみ、フィリスフィア」
 ルーウェンは彼女にそうあいさつし、
 「おやす、み、なさい……」
 ぎこちない、あるいははにかむようにフィリスフィアはあいさつを返しました。
 彼女はベッドに入り、その日にあったことを思い出しながら目を閉じました。
 これから眠るときに見るかもしれない夢よりも、夢みたいな、穏やかで幸せな日々を、フィリスフィアはルーウェンと共に過ごしていたのでした。


 フィリスフィアの読む本は初め絵本ばかりだったものが、日を負うごとに字の多い本に変わっていって、今では説話本や童話文学などを読むようになっていました。
 フィリスフィアは1冊の本を読み終えるたびに、口数を少しずつ増やしていき、1冊の本に感動するたび、表情を少しずつ増やしていきました。
 「今日はどんな本を読んでいたの?」
 「今日はね、えっとね……」
 ルーウェンは夕食のときに決まって読んだ本の感想を聞き、フィリスフィアは食べることも忘れて夢中で話しました。彼もまた食べることを中断して彼女の話を聞いています。まだたどたどしいフィリスフィアの話を、けれどルーウェンはとても嬉しそうに聞いていたし、彼女もそんな彼に話を聞いてもらうのが何よりの楽しみだったのです。
 食後、フィリスフィアは決まってルーウェンに紅茶をせがみました。彼は愛用のティーセットで彼女のための紅茶を淹れながら、自分がかつて姉にそうして紅茶をせがんでいたことを思い出します。
 引き取り手のない女の子を預かってからのこの奇妙な共同生活が、これほどまでに穏やかで幸せなものとなるとは、ルーウェンはついぞ想像すらしなかったものでした。


 ある日。
 夕飯の買い物をするためにルーウェンとフィリスフィアは商店街を歩いていました。彼女が肉を買うのに店主と話しているとき、ルーウェンは急ぎ足でその場を離れます。
 「あ……れ?」
 愛想のいい肉屋店主の話に相づちをうっているうちルーウェンがいなくなってしまったことに、フィリスフィアは気づきました。つと不安に襲われてしまい、まるで迷子の子どもみたいに泣きそうな顔であたりをさかんに見回しています。
 「ご、ご主人様ぁー」
 打ち捨てられた小猫のようにフィリスフィアが鳴いていると、遠くから駆けてくる人がありました。
 ルーウェンでした。彼は両脇に大きな包みを抱えて、戻ってきました。
 「はぁはぁ、ごめんごめん、ちょっと買いたいものがあってね」
 「?」
 「買い物は終わった?」
 こくり。
 「それじゃ、帰ろっか」
 包みを持つ手を、フィリスフィアは支えるようにして握りました。


 夕飯の後片付けを終えて、フィリスフィアが本を持ってルーウェンのいる書斎に入ると、その机の上に、2体のぬいぐるみが置いてありました。
 「っ!」
 熊のぬいぐるみでした。
 フィルスフィアは、自分の体がみるみる硬直していくのを感じていました。かつて見た夢の続きが恐怖の予感をともなって、彼女に訪れようとしていました。
 「あ、フィリスフィア」
 ルーウェンは彼女に気づくと、そのぬいぐるみの片方を持って近づいていきました。
 「日頃からお世話になっているお礼に、プレゼントをと思ってね」
 ルーウェンは熊のぬいぐるみをフィリスフィアに差し出しました。
 「ぅぁ……」
 無意識のうちにのけぞります。心の闇がどくどくと脈うっているのを覚えました。
 しかし、かつて大好きだった熊のぬいぐるみを抱えているのは、顔を真っ黒に塗りつぶされていた知らない人ではなく、確かなルーウェンでした。
 心を穏やかにしてやまない彼の輝やかなまなざしは、フィリスフィアに一片の勇気を与えました。
 「ん……っ」
 フィリスフィアは意を決してぬいぐるみを受け取り、胸にいっぱい抱きしめました。
 夢で引き裂かれていた肩に口を寄せて、首根っこのあたりをなで、いとおしげに匂いを吸い込みます。
 「ぁ……」
 同じ匂いがしました。
 昔パパに買ってもらったぬいぐるみを思わず抱きしめて、吸い込んだときと同じ匂いが、今フィリスフィリアの鼻腔と涙腺を他愛もなくくすぐっていきました。
 「……っく、えぐっ……ぐすっ」
 気がつくと、涙がとめどなく溢れていました。
 「え?フィリスフィア、ど、どうしたの?」
 ルーウェンは慌てふためいて彼女の元に駆け寄ろうとします。腿の付け根が机の角に景気よくぶつかって、彼は顔をしかめます。
 その振動で、机の上に置かれていたもう1体の熊のぬいぐるみが、お腹に抱え持っていた1通の手紙が、するりと抜け落ちて机の上に横たわりました。
 その手紙の表面には、こう書かれていました。
 ――忘れ物を、取りにきてください。
 あて先は、かつてこの街の商店街連のリーダーであった人物でした。


 週に1度ハリスの元へ郵送することにしているレポートが、4度目を数え、ルーウェンの元に送られてくる事業計画の概略が、明確な構想を形成するようになってきた頃のこと。
 ルーウェンはあるひとつの提案を領主に行い、熱心に話しあっていました。
 「この地に、学校を作るべきだと思うんです」
 「学校、じゃと?」
 ルーウェンは語りました。
 子どもたちが本当の幸せを得るためには、幸せが何なのかということを知らなければなりません。幸せを実現するための手段を身に付けなければなりません。幸せは、誰かから与えられるものではなく、自分で得るものだからです。そのために、教育は子どもたちにとってのみちしるべとなり、それを子供たちに与えるのは大人たちに課せられた責任。大人たちが子どもたちへと受け継いでいく教育というともし火は、たとえどんなに困難な状況であろうとも、子どもたちを決して照らし続けていくのだという事を。
 この地に産業を起こそうという大人の責任において、教育施設の整備をまず図っていかなければならないのだということを、ルーウェンは訥々と領主に話したのです。
 「それはまったくその通りじゃとは思うが……」
 領主が心配しているのは、理念よりも資金でした。学校を作ると簡単にいっても、それに要するお金は莫大なものとなるでしょう。しかも貧富の区別なく全ての子どもたちを広く受け入れるとなると、利益を期待することもできません。
 それは領主の資産だけでは到底及ばない計画であり、利益追求を至上命題としているハリスの事業とも相容れないものでしょう。
 「大丈夫です、きっと、大丈夫ですから……」
 ルーウェンは根拠なく、自信を持って約束しました。彼はただ信じているだけでした。自分と、シーリア姉さんにとって2番目に大切なハリスのことを。
 そしてその信頼は、即日届いた電報によって報われることになるのでした。


 ――前略。ルーウェンへ。
 学校設立の件、了承した。領主殿の思うとおりの学校を作って欲しい、資金のほうはこちらからいくらでも提供するからと先方に伝えてくれ。
 まさかお前からこんな大それた提案が聞けるとは思ってもみなかったぞ。
 あと、商店街復興の件も了承した。お前が呼び寄せようとしている人物をリーダーにして商店組合を作らせ、そこに無利子で資金を貸し付けるような形がいいだろう。
 少々痛い出費であるのは確かだが、なーに、採掘事業が軌道に乗りさえすればどこからでも返ってくるさ。
 1週間後の帰還を待っている。くだらないお土産はいらないからな。紅茶の茶葉もいらない。当地のめぼしい特産茶葉は全品種買い占めてシーリアさんに贈ってあるからな。
 ――ハリス
 ルーウェンはハリスからのことづてを領主に伝えました。
 「ありがとう、本当に、ありがとう……」
 領主は涙ながらにルーウェンの手を握りしめ、何度も感謝の言葉を述べました。
 「い、いえ、これはハリス様の思し召しですから……」
 そう謙遜しながら、ルーウェンもまた涙ぐんでいるのでした。
 それから領主がすぐさま表した学校設立計画は、ルーウェンの度肝を抜くほどの綿密さと、広大な構想をもったものでした。自らの邸宅を含めた自然豊かな敷地に、幼稚園から大学までを備えた一貫教育学校。領主はこれまで何度となく思い描き、膨らませ、修正してきたのでした、全ての子どもたちのための理想の学校を設立するという夢を。
 ルーウェンは純粋に、老いてなお壮大な夢を語れるこの領主の手助けをしたかったし、自分自身、かつて姉に苦労をかけて学んでいたこともあり、教育は全ての子どもたちに平等に施されるべきだと思っていました。
 そして何より、ルーウェンはたったひとりの、今となってはもっとも身近にいる女の子の幸せと将来のことを一番に考えていました。身寄りがなく、人との触れあいを渇望している彼女に本当の笑顔を見つけてもらうために、ルーウェンは本当の何かをしてあげたいと切に思っていたのです。
 ルーウェンは部屋の窓から外を見ました。木の下で子どもたちが輪になってフィリスフィアを囲み、彼女はその中心で絵本を読んでいるようでした。
 彼はまるでその光景を目に焼きつけでもしているかのように、いつまでも眺めていました。


 「フィリスフィア、明日はちょっと一緒に出掛けたい所があるんだけど、つきあってくれるかな?」
 夕飯のとき。彼女が今日読んだ本の旺盛な感想を話し終えた頃あいに、ルーウェンはそう切り出しました。
 「え、どこ…に?」
 「領主様の敷地にね、ピクニックがてらお邪魔したいと思ってるんだ」
 「毎日、行っているよ?」
 「うん、明日行くのはお館からもっと遠くのほう。森と草原がいっぱいに広がっているんだよ」
 「へぇ〜。うん行く。ご主人様と一緒に行くっ」
 フィリスフィアは嬉々とした表情をルーウェンに向け、手に持ったナイフとフォークを忙しなく上下させていました。
 「明日の朝はふたりで……っ、お弁当を作ろうね」
 どうしてかルーウェンは、彼女の顔をずっと見ていることができませんでした。


 草原を吹き抜ける果てしない風。
 森を包み込む生命の息吹の匂い。
 澄み切った青空を滑走する鳥のいななき。
 ルーウェンとフィリスフィアは池のほとりで寝転がりながら、まるで飛翔しているような心地で、どこまでも青く続く宇宙の辺縁へ吸い込まれてゆく命のありのまま、身を委ねていました。
 ルーウェンは左手を伸ばすと、そこにはバスケットケースがあります。中から残ったサンドイッチを取り出し、食べてみます。
 瑞々しいレタスの歯ざわりに芳味あるソースがからみ、とても美味しいものでした。
 このサンドイッチも、この自分も、そして美味しいと思うこの気持ちも、まったく自然の一部であり、全部なのだということをルーウェンは感じていました。
 右手を伸ばすと、そこにはフィリスフィアが寝転がっています。少しためらったものの、彼女の頭に手を当てて、髪をすいてあげました。
 「ぅあ〜、く、くすぐったいょぉ」
 フィリスフィアは体をくねらせて嫌がったものの、手で払いのけたりはしませんでした。
 彼女も、自分も、そして彼女にやさしくありたいと思うこの気持ちも、まったく自然の一部であり、全部なのだということをルーウェンは感じていました。
 そして、これから告げなければならないことも、フィリスフィアにやさしくありたいと思う気持ちの一部なのだということを。
 「フィリスフィア」
 「んぅ?」
 髪をすくルーウェンのしぐさに目を細めながら、フィリスフィアはのどを鳴らしました。
 「ここは、いい場所だね」
 「んん、気持ち、いい」
 「髪をすいてもらうことが?」
 「ううん、ここの場所もだよ」
 「はは。ここは〜いい場所だねえ」
 こくり。
 「お友達は、できた?」
 こくり。
 「みんなとずっと一緒にいたい?」
 こくりこくり。
 「本は、面白い?」
 こくり。
 「もっとたくさんの本を読みたい?」
 こくりこくり。
 「そっかぁ〜」
 ルーウェンは髪をすく手を止め、両腕を広げて大の字で草原に広がりました。顔をフィリスフィアのほうに向けます。
 「ここの領主様はね、このひろーい場所全部を使って、おっきな学校を作るんだよ」
 「がっこう?」
 「うん、童話にも出てくるでしょ。友達がたくさんいて、本がいっぱい読めて、先生がいて、教室で勉強するところだよ」
 「あ、知ってるー」
 「学校ができるのはね、もうちょっと先の話なんだけれど。僕はね、フィリスフィアがその学校に入ったらいいと思ってるんだ」
 「え?」
 「もっとたくさんの友達と仲良くなって、もっといっぱいの本を読んでお利口さんになって、それから――」
 「ご主人様は…どうするの?」
 「……」
 「一緒に学校、入る?」
 「…いや、入らないよ」
 「それじゃあ、先生やるの?」
 「…いや、先生はやらない」
 「領主様に、変るの?」
 「…ううん、領主様はこれからもずっと領主様だよ」
 「それじゃあ……、えっと、それじゃあ……」
 気がつくとフィリスフィアは半身を起こして、寝転がるルーウェンを頭上から覗き込んでいました。天頂を過ぎた太陽が、彼女の顔をくっきりとした明暗に染め上げていました。
 「僕は……帰らなくちゃ」
 「うん、夕飯の買い物、してからね」
 「ううん、僕は明日ここを離れなくちゃ、ならないんだ」
 「っ!いやっ!」
 それは、フィリスフィアが2度目に示した意思だということはわかっていました。それを大切にしてあげたいと心のごく深い部分から思ったけれども。彼女にとって本当に望ましい必要なことを、ルーウェンはどんなに心が張り裂けそうでも大切にしていこうと、既に決心していたのでした。
 「それならあたしが、ご主人様についてく!」
 「ダメだ。せっかくできたお友達と離れ離れになってもいいの?領主様も館の人もやさしくしてくれたでしょ。そんなひどいわがままを言う子、僕は嫌いだ」
 「ひぁっ!」
 本当に嫌いなのは、そんな人でなしの理屈をフィリスフィアに平気で押し付ける自分自身だと、ルーウェンは思わずにはいられませんでした。
 「いや、いやだよぉ」
 こんなにも空は清清しく晴れ渡っているというのに、
 「いっちゃいや!ずっと…そばに……」
 ルーウェンの顔に雨は降り注ぎ、
 「ご主人様のそばに、いたいだけなんだよぉぉっっ!!」
 フィリスフィアの嗚咽は豪雨となって、彼の心に吹きすさぶ雷雨と共振するかのように、ルーウェンの決心を軋みをあげて痛めつけるのでした。


 その夜。フィリスフィアは寝室から出てくることはありませんでした。
 ルーウェンはお腹も空かなかったので夕飯を食べることなく、どこか虚ろな雰囲気で、けれどもてきぱきと旅立ちの準備をしていました。
 フィリスフィアの身の振り方はこちらで決めたということを、ハリスに電報で知らせます。
 学校の仮校舎ができるまで、彼女を邸宅で預かって欲しい旨は既に領主に伝えてありました。また、彼女の後見人となることも領主は承諾していました。
 養育費や学費などはこちらで負担すると申し出ましたが、領主は、
 「フィリスフィアはうちの勤め人たちよりよっぽど働き者じゃからのう」
 そう言って、断ってきたのでした。
 「んー……」
 フィリスフィアには口で伝えようと思っていたけれど、それはもう叶わないような気がしたので、当面のこと、これからのこと、そして将来のことについて自分が考えていることを、ルーウェンは手紙にしたためておきました。
 「はぁ」
 ルーウェンはため息を吐きます。帰り支度はあっという間に終わってしまいました。
 大変な作業になるだろうと心のどこかで思っていたルーウェンは、拍子抜けしてしまうほど、簡単に始末がついてしまいました。
 とはいえ、彼の持ち物など始めから少なく、そう思えたのは、思いがけず大きくなってしまったフィリスフィアの存在と、彼女と過ごす時間を大切に思うルーウェンの心ゆえなのでした。
 それはどんなに入念に支度しようとも、決して持ち帰れないものでした。
 かちっ。
 愛用のバッグの錠を閉め手に持つと、ルーウェンは書斎の明かりを消し、2度と訪れないであろうこの部屋を後にしました。


 夜半すぎ。
 ルーウェンは寝室のベッドで寝ていました。
 朝に起きたら、そのまま午前の列車で出立する予定でした。
 「……」
 とはいえ、ルーウェンはあまり眠れそうな気がしません。というより、眠りたくなかったのかもしれません。
 窓からこぼれる月明かりでほのやかに明るい室内の、天井をなんとなく眺めていました。
 きぃぃぃ。
 ばたん。
 そんなとき、不意にドアの開閉する音がしました。
 ルーウェンは不審に思うことはありませんでした。
 すー。
 寝巻きの裾が地面にすれるかすかな音がします。天井を眺めていたルーウェンの視界の端に、フィリスフィアが現れてきました。
 「……っ、ひっく……すん」
 月光に照らされたその横顔が、濃い灰白色ににじんでいました。胸にはいつかルーウェンが贈った熊のぬいぐるみが抱えられていました。
 思わず頬に手を伸ばします。濃銀の目元をやさしく撫でます。
 「ご、しゅじ――」
 「もう僕は君のご主人様じゃ、ないよ」
 「ぅ……」
 ルーウェンは初めからフィリスフィアの”ご主人様”ではありませんでした。
 「僕の名は、ルーウェンって言うんだ」
 「?」
 友達。
 「ルーウェンって、呼んで欲しいな。フィリスフィア」
 「……ルーウェン、……ルーウェン――」
 フィリスフィアは心に刻み込んでいるみたいに、何度もつぶやきました。
 「フィア」
 「ん?」
「あたしのこと、は、フィアって、呼んで、欲しい……」
 「フィア?」
 こくり。
 「パパは、あたしのこと、フィアって、呼んでくれてた……」
 フィリスフィアは胸のぬいぐるみを強く抱きしめました。
 「そっか……フィア、フィア――」
 ルーウェンもまた心に刻むように、何度もつぶやきます。
 しゅる。
 フィリスフィアは片膝をベッドのシーツに乗せます。ルーウェンは片手で掛け布団を持ち上げます。
 「おいで、フィア」
 「ルーウェン……っ」
 フィリスフィアはベッドにもぐりこむと、ルーウェンの胸にしがみつきます。
 すり寄り、抱きしめます。
 「ルーウェン、っく、るーぇ〜ん……ぐす」
 甘えるように、しゃくりあげるように、フィリスフィアはただルーウェンの名を呼び続けました。
 「フィア……」
 ゆるやかにフィリスフィアの頭を撫でながら、ルーウェンは静かに目を閉じます。
 深まっていく夜の刻はまるでふたりを猶予するみたいに、ゆっくりと沈み込んでいきます。
 フィリスフィアは、ルーウェンの鼓動を感じ匂いに浸りながら、懐かしくてほっとするような心地と、苦しくてどきどきするような心地を抱いていました。
 その片方が恋というものだと知るには、彼女はまだ幼なすぎました。
 ルーウェンは、フィリスフィアの髪のしなやかさと華奢な温もりに触れながら、やわらかい幸せを感じていました。
 それがいったいどういう気持ちなのかということを明瞭に認識するには、彼はまだ若すぎました。


 朝。
 すずめの鳴き声が窓から聞こえてきます。
 「すぅー……すぅー……」
 ベッドでおだやかな寝息を立てているフィリスフィアの隣に、人の姿はありませんでした。
 その代わりみたいに、熊のぬいぐるみが置いてありました。
 そのぬいぐるみは両手で手紙を抱えていました。
 その手紙の表面には、こう書かれていました。
 ――フィア、僕の大切な友達へ
 ――ルーウェン


 「はぁ……」
 ルーウェンはその日何十度目かのため息を吐きました。
 夕刻過ぎて首都に到着し、本部に寄りあいさつと簡単な報告をハリスにした後、館にやってきていました。
 夜にハリスが慰労会を催してくれるというのです。
 ハリスが帰宅するまで、ルーウェンは館のテラスで暇をつぶすつもりでいました。
 すぐ下を流れる川の面に満月が浮かび、青白くたゆとうています。せせらぎに月影がにじんで川底の深蒼と混ざりあうたび、ルーウェンの脳裏に、昨夜のフィリスフィアの顔が浮かんできました。
 頬に触れたあの手触りがよみがえってきました。
 「フィア……」
 思わず彼女の名が口をついてしまいます。
 「フィア?恋人の名前?」
 思いもしない問いかけに驚いてルーウェンは振り返ると、そこにはシーリアがいました。
 「ね、姉さんっ!?」
 「ねぇ、フィアって誰なのよー?」
 シーリアはどこかいたずらっぽくルーウェンを覗きこんできます。
 「こ、恋人なんかじゃないよっ!あっちで出来た、えーっと、そう!友達」
 しどろもどろになりながら、ルーウェンは答えました。
 友達。
 「女の子の、友達ぃ?」
 「そ、そうだよ?なにかおかしい?」
 シーリアはくすくすと笑っています。実はハリスから聞かされていたのでした、「どうやらルーウェンが私の遣わせた女の子と懇意らしい」と。
 それどころかハリスは、ルーウェンが彼女を連れ帰ってきてもいいように、通わせる学校や住居の手配まで済ませていたのです。なのでハリスにとっては、ルーウェンが彼女を当地に残し帰ってきたことのほうがむしろ驚きでした。
 「手紙に余計な文面を入れておかなければよかったな……」
 ハリスは館へ向かう車の中でほくそ笑んでいました。
 シーリアはすっかり笑い終えると、ルーウェンをまっすぐ見ました。
 「ルーウェン、おかえり」
 「ただいま、シーリア姉さん」
 「少し、大きくなったかな」
 「大して変りはしないよ」
 「女の子の友達ができた記念に、久しぶりに姉さんの紅茶を淹れてあげよっか?」
 白木のテーブルにはシーリア愛用のティーセットが置いてありました。
 「むぅ、姉さんはもうハリス様以外の人に紅茶を淹れちゃ、いけないんだよ?」
 「なっ!何よそれはぁ、もうっ」
 シーリアの可憐な怒鳴り声が聞こえてきます。
 ルーウェンは童心に返って逃げ回っていました。
 とはいえ、子どものときみたいにシーリアの淹れてくれた紅茶で癒されたり、慰められたりするのは違うとルーウェンは思っていました。この寂しい気持ちや、漠然とした空しさは、いつかきっと満たされる時がくるから、満たしてくれる人があるから、いつまでもそのまま取っておかなければならないのだと、ルーウェンは思っていたのでした。
 「あっ、この匂いはっ!」
 館の中から甘く芳ばしいシチューの匂いがとろけるように漂ってきました。
 「ミゼールさんのシチューだっ!」
 ルーウェンは、美味しそうな夕飯の匂いに誘われ公園から飛び出していく子どもさながらの勢いで、「ミゼールさーん」と無邪気に連呼ながら館の中に入っていきました。
 「な、なによ。私の作る料理だって、は、ハリス様は美味しいって言ってくださるんだから……」
 人知れず頬を上気させたシーリアは、柵に背中から寄りかかって、冷やそうとでもいうように夜空を見上げます。
 大地の露を拾い集めた夜風が静寂になびきます。
 雲ひとつないホールを星々で埋めつくし、月の女王が煌々と疾光の歌曲を謳いあげていました。

主人公が攻略される恋愛ゲーム

 「計算高い振りをして、嘘をついて(略)でももっと単純に、クリスの側にいられるだけで幸せだと感じられるのも、また真実だった」
 「本当に、クリスは馬鹿だった。でも、そこが良いところでもある」
 この作品は、主人公(クリス・男)がヒロインによって"攻略"される恋愛ゲーム作品である。通常の恋愛ゲーム作品のように、純粋無垢で無邪気で健気なヒロインに対し、主人公がときに策を弄し、演技をし、嘘をつき、彼女の好意をゲットするというスタイルではなく、純粋無垢で無邪気で健気な主人公を、ヒロインがときに策を弄し、演技をし、嘘をつき、彼の好意をゲットするというスタイルであったことが、のちに判明する。主人公の好意、或いはその高い音楽的才能、もしくは”囚われの自分を助け出してくれる"存在として主人公は、利用される。たいていの恋愛ゲーム作品でヒロインが体現している、純粋できらびやかな恋愛という"萌え"の根本を構成するテーマ性は、この作品においては主人公が司っているといっても過言ではない。とはいえ主人公に"萌える"ことは、少なくとも僕にはできそうもないが。
 柔和で軟弱、子供っぽくて覇気のない、それでいて音楽的才能に恵まれた主人公は、ヒロインたちに"愛される存在"としてあるのだ。主人公をモノにするために、打算的な恋愛を駆使して愛情をゲットする、この作品を多少穿った見方で捉えれば、こういう表現になるのかもしれない。極端に誇張された幼女性、純粋無垢を形にしたかのようなキャラクターデザインは、ギャップによってその印象をさらに鮮烈なものにしている。
 けれども、そういった言葉どおりの醜さ・胡散臭さが劇中に溢れているのかといわれれば、決してそうではない。それどころか美しくさえある。テキストで語られる語られないに関わらず、打算的で嘘にまみれたヒロインたちの恋愛、その内に秘められた強い想いはとても純粋であることがどうしようもなくわかってしまうからだ。美しい、それはありのままの人間として。表層的な恋愛がキレイではないからこそ、萌えられないからこそ、むしろ心のうちにある本当の気持ち、純粋で激しくて譲れない想いが際だち、はっきりと感じられる。
 人間とはそもそもそれほどキレイな存在ではない。その人間を美しいと表現できるとすれば、それはまさに彼女たちのような心のありようなのではないだろうか。善悪や道徳、常識といった通り一般の価値判断を超越して、ありのままの人間の想いこそが、本当はほんとうに美しいのではないだろうか。そんなことを考えさせられた。

雨の意味するもの

 雨というものは、性質的に世界を閉鎖する。雨音は他の音を消し去り、雨雫は他者との関係を拒絶し、雨雲は太陽光を遮断し、雨色は世界のカラフルを無効にする。閉じられた雨の世界。それが劇中、主人公のそのときの感情や心境によって雨音や雨勢を変化させていることがわかる。そして主人公が演奏することのできるフォルテールという特殊な楽器は、奏者の感情や心境といったメンタルなものを"魔力"によって注ぐことで音色を変えていく楽器であるらしい。
 主人公は自らの感情や心境によって、雨によって閉ざされた世界の内でフォルテールを奏で、世界を閉じている雨という交響楽団に向けて指揮棒を振るい、重厚なフォルテール協奏曲を変幻自在に演奏している。このように概念的な意味合いで、「シンフォニック=レイン」という作品はその名に相応しく、極めて音楽的なのである。
 内と外に向けられた彼の音楽は、うちひしがれた哀しみの叫び。外へ向けられるその調べは物語に吸収され、内へ向けられるその調べは、卒業演奏のパートナーであるヒロインに、同じく吸い込まれるように聴かれていく。まさに主人公の音楽が物語を形作り、主人公の音楽が言葉となって、ヒロインに自らの哀しみと想いを告白しているのだ。
 主人公もまた、ヒロインによって救われることを求めているのである。深い哀しみを湛えているからこそ評価されている彼の音楽性、束の間訪れた幸せな感情でフォルテールを演奏すると途端に魅力のない音楽となってしまう、残酷なパラドックスからの脱出を、祈るように。ファルシータ編のエピローグにおいて、それまで自らの夢のために主人公の音楽的才能の獲得のみを目指していたはずの彼女が、外では雨の降り続けるひっそりとした部屋で、一心にフォルテールを奏でる彼を抱きしめて言う。
 「愛してる、クリス。あなたも、あなたの奏でるフォルテールの音も」
 社会的に大成功を収めているファルシータの晴れ姿を描写するのではない、かといって残酷なパラドックスから開放された主人公を描くのでもない、そのパラドックスごと、ふたりの哀しみごと包み込むようなぬくもり。非現実的で妄想的なハッピーエンドを仕立て上げるではなく、ありのままであることの温かさと、人間的な美しさを感じさせるエンディングに、なんとも大人の深い味わいを感じた。そうそう世の中、メルヘンのような奇跡など起こりはしないのだ。

シリーズ宿命の演奏パートが奪った表現可能性

 「シンフォニック=レイン」という作品が、ミュージックアドベンチャーゲームと名づけられたシリーズに列なる作品であることの宿命として挿入される、コナミの「ビートマニア」を彷彿とさせるゲームパートは、「シンフォニック=レイン」という作品にとって果たして意味があったのだろうか。衝撃的で悲劇的な、非常に"重い"物語にとって、このゲームパートはどういった意味を持たせることができたのだろうか。僕にはそれが疑問に思わずにはいられない。
 そもそも演奏パートは、譜面通りに演奏することを目指して課させるものであるが、だいたい音楽学校に入学できるほどの技術力をもつ主人公が、譜面どおり演奏することなど何もプレイヤーが手助けせずとも難なくこなせるはずではないだろうか。それにこの物語において音楽技術が重要となってくることはなく、技術的に未熟であることや、練習によって向上しているといった描写がなされることもない。音楽技術面を超えた表現性・精神性が、フォルテールという楽器の特殊性により奏者である主人公の感情・精神状態と直結していることを基盤にして、物語はそのオリジナリティを構築している。
 ヒロインと一体になって音楽を演奏しているという感覚をプレイヤーに与える、演奏パートのゲーム性の意義は確かに良いと思う。であるならば、その演奏パートは卒業演奏に課される厳めしい課題曲として、その演奏にのみ限定し、同時に演奏されることになる自由曲に、各ヒロインのテーマに沿った岡崎律子さんの素晴らしいイメージソングを当てる。その自由曲を練習・演奏するシーンは、アンサンブルをする主人公とヒロインの心象風景、演奏を通した心の交流を中心に描写をすべきだったのではないだろうか。何枚かのイベント絵と組み合わせ、テキスト表示とページ送りを含めて全て岡崎律子さんのボーカル曲に連動させた演出として、演奏中はカラオケ映像か映画の字幕のように歌詞を表示させ、間奏シーンは主人公・ヒロインの心象描写に当てる。自由曲のアンサンブルシーンを音楽的に物語化するのだ。
 主人公の奏でるフォルテールという楽器は、奏者の感情を如実に反映するという設定だけれども、歌はそんなわざとらしい設定を持ち込まなくても、奏者の感情を如実に反映するものである。主人公によって奏でられるフォルテールの調べによって、ヒロインが何かを感じ、そのうえで奏でられるヒロインの歌声が、主人公に何かを感じさせる。そういった、この作品のオリジナリティである音楽を通した双方向の心の交流の描写が驚くほど少なく感じられたのが、シリーズ作品として宿命的に背負わされた演奏パートによるものであるなら、これほど悲しいことはない。

岡崎律子さんに対してひどく申し訳ないゲームクォリティ、深く反省せよ

 岡崎律子さんの音楽のファンであり、Q'tronのシナリオのファンであるからこの作品をプレイし、そもそもミュージックアドベンチャーなどどうでも良かったし、というより「演奏パート?何それ」な僕の見解である。取るに足らないものである。どうしてもゲーム性を維持したいのなら、「技術力」「表現力」「指のスタミナ」「指のしなやかさ」「度胸」といった各パラメータを設定して、それをヒロインとのアンサンブルや自宅・練習室での個人練習で任意に向上させ、ヒロインごとに設定された理想値にいかに近づけるかで、卒業演奏の成功失敗が判定されるようなゲームシステムにでもすればいい。
 僕にはどうしても、演奏シーンのゲームパート化が物語と、音楽のさらなる表現可能性を奪っている気がしてならないのだ。演奏は演奏としてじっくり聴きたい、演奏からテキスト外のメッセージを感じ取りたい。それほどまでに岡崎律子さんが歌詞で表現しているメッセージは極めて"シンフォニック=レイン"的であり、その歌詞をプレイ後聴くボーカルCDの歌詞カードにおいてではなく、プレイ中に読み、味わい、感じることができたなら、それは「シンフォニック=レイン」というゲームにとって、物語にとって最高の演出となり、最上の幸せでもある。演奏パート進行中に歌詞は表示されるが、実際にゲームをこなしている人には味わう余裕がないだろうし、自動演奏プレイにすればじっくり歌詞を味わえますよというのなら、そもそも演奏パートは作品理解にとっての桎梏に他ならないではないか。
 そして、各ヒロインのグッドエンドで流れるエンディング曲(スタッフロール時に流れる曲)は、エピローグでこの曲を演奏するふたりのイベント絵幾枚と歌詞を織り交ぜてスタッフロール化して欲しかった。というかスタッフロールで星空にくねくねと漂ってるアレはなんだよ。意味わかんないよ。
 このように、僕でさえ思いつくようなそつのない演出すら、どこまでも欠けているこの作品は、ゲーム面で岡崎律子さんとQ'tronに対してひどく申し訳ないことをしていると自覚して欲しい。蛇足気味に言えば、既に聞いた声優の演技がバックログで再生できないことや、そもそもバックログをワンクリックで読めないのも不便だ。シーン最初のテキストがなぜか強制送りになってること、どのシーンでセーブしたか全く分からないセーブ/ロード機能など、システム面での些細な問題点も多い。イベントCGも絶対的に少ない。最後のは文脈とは関係ないけれど、絶対言っておきたかった。

拍子抜けしてしまった、グランドエンドへの願い

 この作品のヒロインシナリオ攻略順序には規制がかかっていて、ファルシータ、リセ、トルタのGood Endを経た後、新たな2つのシナリオと3つのGood Endが開放される仕組みになっている。後半の2つのシナリオは、真トルタシナリオと、フォーニシナリオ。しかもそのフォーニシナリオは、真トルタエンドを経た後でなければ進むことができない。つまりフォーニシナリオのエンディングは、作品のグランドエンドを要請されるシナリオでもあるのだ。ファルシータ、リセのGood Endと、トルタにまつわるGood End2種が、それぞれ一抹の物足りなさ、報われなさを感じさせる終わり方だったのも手伝って、益々グランドエンドを望んでしまうのだけれど、それが叶えられているとはいいがたいエンディングであったのが、ことさら残念だった。僕は、この作品に登場する全てのヒロインも満遍なく好きになってしまったので。
 フォーニシナリオで描かれる途方もなくささやかな奇跡と、無邪気で子供染みたメルヘンは、それ自体ほのぼのとした余韻を抱かせるものではあったけれど、他のシナリオをクリアしなければ得ることができないプレイ後感としては、あまりに罪悪感を感じさせるのほほんさといえるのではないだろうか。ただ僕が「そう感じる」というだけで、不毛で無意味な指摘だというのは承知しているのだけれど。
 僕は、フォーニシナリオのエンディングで感じられる幸せなのんきさ、穏やかなのほほんさを、全てのヒロインの将来にわたって"伝染"させて欲しいと願った。例えばフォーニの歌が、姿が見えないのにもかかわらず多くの聴衆の耳に届いた卒業演奏での奇跡を、主人公であるクリスが、各ヒロインシナリオの次元を超越して起こして欲しいと思ったのだ。クリスの存在はないけれども、彼に導かれ自由に歌う事を許される居場所を見つけたリセ。クリスの存在はないけれども、彼の音楽に自分に欠けた何かを見つけ出し、アーシノに罵声を浴びせながらも共にアンサンブルしているファルシータ。そして、トルタは……。
 どんな幸せの形でも構わない。ただ、全てのヒロインに途方もなくささやかな奇跡と、無邪気で子供染みたメルヘンを与えて欲しい。そう願わずにはいられないほど、ありのまま美しいヒロインたちなのだから。

I'm always close to you

 岡崎律子さん、素敵な音楽をどうもありがとう。本当に。
 そして、ゲームの出来はともかく、岡崎律子さんの音楽を採用した企画自体は素晴らしい。「シンフォニック=レイン」も、"一応"ありがとう。