アルトネリコ〜世界の終わりで詩い続ける少女〜

アルトネリコ 世界の終わりで詩い続ける少女

アルトネリコ 世界の終わりで詩い続ける少女

天まで届く1本の塔、神秘と機械の混然とする創り込まれた世界・文明観、美しい声楽曲<ヒュムノス>を歌うヒロイン<レーヴァテイル>、アトリエシリーズで培った調合を冒険を進めていく上で重荷とならない程度に簡素化したグラスメルクシステム、レーヴァテイルであるヒロインたちの内面に介入するダイブシステムなど。
世界として、ゲームとして、何より音楽としてオリジナリティに溢れたこの内容を、わかりやすく解説しアドバイスしてくれるヘルプ機能や、ストーリー上の配慮によってプレイヤーにスムーズに伝え、またヒロインたちの個性をよく表した宿会話システムやアイテム命名イベント(新しいアイテムをグラスメルクで作り出すたびヒロインが楽しいコメントを付けてくれます)、ヒロインコスチュームの獲得や変更、ヒロインの"恥かしい部分"に宝石を挿し込むインストールシステムなど、プレイヤーの萌え心をくすぐる楽しい仕掛けも充実。
興味をそそられるものがあって、丁寧に導かれて、そしてあざといほどに面白い。
「アトリエ」シリーズからはしばらく離れていたけれど、個人的には「さすがはガスト」と思える<美少女的ゲーム>でした。ただ、「ムスメ調合RPG」とか「レーヴァテイルを開発する」という表現に対する違和感は最後まで消えませんでしたが。あと酒井香奈子
このゲームをプレイしていて僕は、ゲームにおける音楽<BGM>の意味のようなことについてずっと考えていました。
ゲームのBGM(バックグラウンドミュージック)とは、水のようなものです。河川や海を流れる水。絶えず流れ、止まることのない。そして山の高きから平野の低きへ、岸壁に打ちつけられ高く舞い上がることもあります。ゲームにおいても大抵絶えず流れていますよね。緊迫から平穏へ音色はたゆたい、大きな転換点では旋律もまた感情を高ぶらせるでしょう。
BGMとしての音楽は、物語とプレイヤーの隙間を埋める存在だと僕は思います。物語が大きく転換し、主人公が強引に連れ上げられていった際、万が一プレイヤーを取りこぼしてしまうことを防ぐために、音楽は意味を持つのです。世界と物語があって、そこに付き従いプレイヤーの<手>を引っ張る、演出と感情の形なき接合剤、それがゲーム音楽の役割なのです。
そういう意味で、音楽とはテキストよりもプレイヤーにとって身近な存在です。絶えず流れている、それは空間的な意味であり同時に時間的な意味も持ちます。アドベンチャーゲームにおける改ページのように、決定ボタンやクリックを押さなければ次の小節が演奏されないということはありませんよね。音楽は、主人公が物語上で何をしていようと、ぶっちゃけどうなっていようと、プレイヤーの1秒が音楽の1秒として刻々と流れていく。
ヒロインと話をしているときに突如、何十頁にも及ぶ思考をめぐらせることはあっても(本当はありえないけれども)、音楽はそういうわけにはいきません。どこまでもプレイヤーの1秒が音楽の1秒。トイレに行ってもamazonからの荷物を受け取りに行っても、ゲームの電源を落とすことさえしなければ、音楽はまず間違いなく止まることなく演奏を続けていたことでしょう。
僕は実は、ゲームをつけっぱなしで席を外して、戻ってきてゲームを再開させるのがけっこう好きです。テキストは席を外したときのままなんだけれども、音楽は何回目かの全然違う小節を演奏しているのわけで、そのことに気づいたとき、そのゲームが少しだけ身近に感じられるからです。同じ時間を存在している。本当はそんなとき「ちょっとあんた、あたしを放っておいてどこ行ってたのよ!」なんてヒロインに言われたら最高に嬉しいんですけどね。
さて。バックグラウンドミュージックとしてのゲーム音楽を考えたとき、ボーカル曲はBGMとはなりえません。これは僕の中では前提事項です。インストゥルメンタルを聞きながら勉強することはできるけれども、ボーカル曲を聞きながら勉強することはできないというのがもっとも分かりやすい理由なんですが。
歌うという演奏行為ほど、人間にとって体力と意識を使うものはありません。自分の声帯と横隔膜を震わせて声を出すのですから体力を使うのは当たり前ですし、ミスを楽器のせいにできないという意味で歌唱というものは大変意識せざるをえません。
体力はともかく、他者が多大な意識を送っている物事に対して、人は案外無視できないものです。どうしても気づきます。気づいちゃいます。小学生のとき好きな女の子を意識していると、「あの頃私のこと好きだったでしょ」と同窓会で指摘されてしまうものです。それはきっと僕だけではないはずです(ないよね?)。
意識に込めるメッセージやセンチメントを、歌・言葉という形式で他者へと表出する。それを僕は受容せざるをえません。何しろ奏でられ伝えられるその意味や感情がわかってしまうのですから、わかるという時点でもう取り返しがつかないほど意識してしまっているのです。意識してしまえば、もう勉強どころではありません。音楽にプレイヤーの意識が占有されることは、ゲーム性という意味では(活用の仕方次第ではあるけれど)減点対象。せいぜい「ゲーム付きミュージッククリップ」止まりでしょう。ボーカル曲はボーカル曲、そしてBGMはBGMという住み分けが無難ですよね。
そこで、「アルトネリコ〜世界の終わりで詩い続ける少女〜」で使用されている音楽、<ヒュムノス>と呼ばれる声楽曲を始めとするBGMについてですが。それらがBGMにしてはボーカル曲的で、ボーカル曲にしてはBGM的、非常にあいまいで独特な位置づけであることがこの際重要です。
まず、フィールドやヒロインの内面で流れるBGMには、旋律であり時に打楽器のように音声が絶妙に溶け合っていて、歌や歌うことを普通の、日常的なものとしてプレイヤーに感じさせます。であればこそ、物語のキーとして奏でられる<ヒュムノス>、この奇跡は、物語としてだけではなく音楽としての感動ももたらす。BGMという意味が、深遠なハーモニーを織り込む<ヒュムノス>、それは僕にとっても確かに聞き惚れる音色としてゲームと対等に直結していくのです。僕が感動しているように、世界は震えているというシンクロニシティ
その<ヒュムノス>についても、ヒロインをイメージした各アーティストが歌うボーカル曲であることは確かなのに、志方あきこさんによる重厚で神秘的なポリフォニーが強烈なBGMとしての効能を発揮、ボーカル曲でありながらBGM的ともいえるこの<ヒュムノス>が、そもそも世界そのものを成り立たせているというわけです。音声を織り込んで息をするBGMと、BGM的なまでに高潔なボーカル曲。
言うなれば、物語に追従する形で注がれ、山の高きから平野の低きへ、岸壁に打ちつけられ高く舞い上がる、水であるべきはずだったそれが、この作品では<血>であり、ビブラートのように脈動し、世界と物語<肉>を駆け巡りプレイヤーへとほとばしる。プレイヤーと空間を同じうし、プレイヤーと時を同じうし、さらにはプレイヤーと意識を同じうする「アルトネリコ」という音楽は、ゲーム的というよりゲームそのものだといっても過言ではないでしょう。
ディレクターである土屋暁さんが音楽家であることからも分かるとおり、<ヒュムノス>というメディアが何よりも作品のテーマでありロマンであり、メッセージを饒舌に紡いでいる。それが歌という形式を取るばかりに容易に無視できない意識として僕らに蔓延し、しかもバックグラウンドミュージックとしての回路を伝って僕らプレイヤーの同一時間軸に"襲い掛かってくる"。これが僕がこの作品で受けたもっとも正直な感慨です。
ゲーム性をも包含する雄大で繊細で身近な音楽性をもってして、プレイヤーは「アルトネリコ」の世界をこうも鮮やかに体感することが叶ったのだと、僕はしみじと思うわけです。体感し、そしてPHASE3のエンディングではついにプレイヤー自身が歌っています。いや、実際は歌っていないんだけれども歌っているような気分にさせられる曲であることは、あの曲を聴いた人ならばわかっていただけるはず。世界中の人々のうちのひとりとして!
すばらしいRPGをクリアした後の、共感的でスケールの大きいボーカル曲を聴き終えた後の、清々しい余韻に浸りながら(エピローグは味気ないけれど)、今回ゲーム音楽という切り口で「アルトネリコ」を振り返ってみて、思うことがあります。
レーヴァテイルなヒロインへダイブすることで詩を紡ぎだせるというシステム、ファンシーな世界観に似合わない深刻な心理葛藤(生々しい欲望や憎悪)をかいま見せられずいぶんドッキリしたものでしたが。しかし、内面の問題を解決することでより深い層に入れて、最終的には深層心理にわだかまる問題を全て解決して終了(CLEARED)といういかにもゲーム的なやりようは、そもそもゲームなのだからしょうがないけれど、心の問題を扱う姿勢としてどうなのかな、と。
少なくとも、歌というものを聞き手の心に好く響かせるためには、心の問題を解決してクリアーするのではなく、心の問題を受け止めること・それはそれとして拒絶せず付き合っていくことが重要だと思うのですよ(多分に文学的に)。心に一点の曇りのない、晴れやかな気持ちであれば好い歌が歌えるかといわれれば決してそんなことはなく。歌が表現する思い・悩みを共に抱えているから、歌は生き生きと歌われ、聞き手の心に響くという面もあるでしょう。
人としてのありのままの姿を、明け透けの醜い姿を、克服すべき問題としてではなく、安易にキレイゴトを並び立ててクリアーするのではなく、そういうものだとして認める、ダメな部分も嫌がらず受け止めていこうよというささやかな方向性を感じさせるような終わり方が良かったのではないかなと(さすがに「アルトネリコ」のダイブシステムから最近のいじめ問題について語ろうなんて企んでいませんよ?)。
僕のこの思いつきを表現するのはかなり難しいことだろうけれども、とはいえ「アルトネリコ」のやりようはあまりにこどもっぽい。心が粗末。そしてこのこどもっぽさ(CLEARED)を肯定すると、そもそもレーヴァテイルという存在が非常に安っぽくなります。たったひとりのガキ風情に御しえる心しか持ちえないのだとしたら、ダイブし終わった後も"へらへら"していられる程度のものだというのなら、「換えのきく武器」だと認識しているボルドを非難できないのではないでしょうか。レーヴァテイルの心に価値を見出せない(人間ほどの価値はない)のだとしたら、残るのは道具としての愛着しかないでしょうから。
「ムスメ調合RPG」「レーヴァテイルを開発する」
そういう心ない言葉の裏腹で、彼女たちはいったいどういう気持ちで歌っていたのか。<ヒュムノス>という音楽、架空言語による意味不明な神秘主義に心を奪われ、歌に接する第三者にとって最も重要である、歌っている貴女の心の描写が疎かになっているのではないかと、ちょっぴり思いました。思い返してみれば、ヒロインたるレーヴァテイルたちが「楽しそうに歌っている」とか、「辛そうに歌っている」とか、そういうセリフをライナーは一度でも吐いたことがあったろうかと……。
だからこそ、クレアの歌う「そよかぜのうた」に異様に感動してしまうのかもしれません。この作品の中で、歌とはクレアの歌う2曲のみで、それ以外はやっぱり、僕らの知ってる歌ではないのかもしれませんね(「歌」ではなく「詩」)。クレアという存在は、オリカやレーヴァテイルという存在そのものについての真面目なアンチテーゼ。心を置き去りにしてしまった、もしくは心を必要としない<ヒュムノス>。それはまさにBGMのあるべき姿。だからどうしたと言われれば、どうもしませんけど。