リアリティとは何か結局わからないまま書いてみる

僕は今でこそ空気を吸い込むようにアニメを見る生活が続いているのですが、それほど遠くない昔はそうでもありませんでした。せいぜい中学生の時『ナデシコ』に熱中して赤点をとったとか、『ガンダムX』の後半のグダグダさに辟易したとか……あんまり今と変わっていませんね。
それはともかく、僕にとってひとつの転機になったのが、高校生のときに見た『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でした。少し前に見直したのですが、今見てもやっぱり面白い。洗練されているというか、非常にスマートな作品。しかし、それ以上に当時の僕を感動させたのが、この作品の持つ「リアリティ」でした。
SFで、サイバーパンクで、未来都市で電脳化が進んだこの作品世界は、確かに現実の「何か」を捉えていた。それがリアリティだ、みたいなことを考えました。その「何か」を未だに言語化できないのですから、本当に理解できたのか疑問ですけど。
僕と「リアリティ」との出会いは、たぶんその辺にあるのだと思います。ただ「この作品にはリアリティがある」とか「リアリティがない」とか言いつつも、やっぱりその「リアリティ」が何なのか、言っている自分だって良くわかっていない。言葉を知って、それでわかったつもりになっているだけだという気がします。


近頃『コードギアス 反逆のルルーシュ』という作品を見ています。『攻殻』と同じく積極的に社会問題を作品の中に取り入れているのですが、『攻殻』のようにリアリティを感じるのかといえば、そうでもない。しかし「現実への近さ」という点では、はっきりいって大差ありません。では、どこでリアリティの差が生まれているのでしょうか?
描かれている主義主張の妥当性なのか?それとも単なる親近感なのか?どうせ避けては通れない問題なのだから、この際真剣に考えてみるのも面白いかもしれません。



1.究極のリアリティ=現実か?

リアリティーがあるかないか?それは小説の言葉、文章、イメージ、すべてのレヴェルにおいて、作品には生きるか死ぬかの問題です。しかし誰にも明らかなように、現実の等価物と直接むすびつくから、というのでリアリティーがあるとはいえない。現実にはちがった事物があり、そのことを書き手も読み手も知っていながら、当の現実とはちがうつくりものにリアリティーを感じることがあります。それを考えるということが、小説のリアリティーの秘密への手がかりをなすと思います。
大江健三郎『小説のたくらみ、知のたくらみ』より―

リアリティの問題を考える上で、非常に含蓄のある言葉と言えるでしょう。現実と似ているからリアリティがあるわけではない、という点は大いに納得できます。
とはいえ、物語が現実を媒介とし、読んでいる人間も現実に生きている以上、リアリティと現実とがまるで無関係だとは、とても考えられません。要するに
①読者の「現実」がリアリティの根底にあるのは間違いないだろう。
②しかし「現実」そのままがリアリティではない。
ということであり、問われているのはリアリティの元となる現実が「どのような現実」かということでは、と考えられます。


2.物語における「現実」
天空のエスカフローネ』を見ながらこの記事を書いています。
主人公が突然異世界に連れて行かれる話なのですが、結構すぐに順応してしまいまって、僕がひとりで「着替えどうするのかな」とか現実的な部分が気にしているのが馬鹿みたいなんですけど、普通はそういうことを気にしないでしょうし、「登場人物がトイレに行かないなんて、リアリティがない!」という人もいないでしょう。
例えとしてトイレを出しましたが、これって中々示唆に富んだ材料かもしれません。トイレは必ず使うものであるにも関わらず、物語に出てこなくてもリアリティが損なわれないのは、結局のところ「必然性」の問題と関わっているからだと考えられます。
トイレは確かに「いつかは使う」所ですが、「いつでもいい」所でもあります。夜眠らないキャラクターがいたら変ですけど、夜トイレに行かないキャラクターがいてもおかしいとは思いません。つまり、必然となるタイミングが存在すること、そこに過不足無くピースが嵌ること、この2点がリアリティにおいて重要な役割を果たしているのです。
このことから、リアリティの有無は個別の描写ではなく、物語上の必然性など、全体とのつながりによって判断されるものであると言うことが出来ると思います。「リアリティのある世界」というのも、言い換えれば「必然性の世界」、「出来事は起るべくして起る世界」となるのでしょうが、これについては次節でもう少し検討します。


3.「典型化」されるリアリティ
簡単に「必然性がある」といっても、実際の人間はきまぐれで、「起るべくして起る」出来事なんてあるのか、という疑問が浮かんできます。しかし、キャラクターが特徴によって分類され、抽象化されるようになれば、かなりの蓋然性をもって「必然である」と言えるようになるのではないでしょうか。
具体例を出してみます。京アニ版Kanonの第13話冒頭で、北川から「舞が退学になるかもしれない」という話を聞いた祐一が突然走り出すシーンがありした。この場合他に考えられる反応として「考え込む」、「周囲と話し込む」あるいは「気にしない振りをする」というのも考えられます。そのシーンだけの整合性を考えれば、上に挙げたどの選択を採ってもおかしくはありません。
しかし、もしも祐一に対して「普段は見せないが、内側に激情を隠している」という分類化が行われていたのだとしたらどうでしょうか。「突然走り出す」という選択肢を択ぶのが「必然」だと言えるのではないでしょうか。
つまり、リアリティというのはキャラクターの内面ではなく、作品の外側において行われるキャラクターの分類によって生じるのだと言えるでしょう。
そのため「リアリティを描く(言い換えれば必然性を描く)」という過程においては、典型化、あるいは普遍化と呼ぶべき変化が無意識のうちに行われていることになります。普遍化というのは、ある意味では個別の題材を扱う物語が目指すべき方向性でもあるため、リアリティを求める動機というのも、ここに求められるのではないでしょうか。しかし、精緻な書き分けの対極にある「単純化」によってリアリティが出てくると結論付けるのは、自分でも納得できない気が……


4.今後の課題
どうも「作品のテーマ」というか、表現したい内容そのもののリアリティに対する言及が弱くなったので、そのうち補強したいと思います。
でもなー。「リアリティのあるテーマ」って何でしょうね?「このテーマはリアリティがあるな!」という場合、それはキャラクターの立ち居振る舞いに対する感想以上に個人の主観に因るところが多い気がします。
ただ、テーマの設定が個々のキャラクターから感じるリアリティに対してどのような影響を与えているのか、その辺はもう少し研究した方が良かったかも。誰もやらなかったら、いつかやります。いつか。