寺社参詣と拝観料

拝観料という制度が生まれたのは江戸時代に入ってからのことであるが、ただ、鎌倉時代の後期ごろから一般の拝観者がお賽銭を投げるという制度は存在しており、これが実質的には拝観料の代わりとなっていたと考えられている。
中世史を専攻している知人に聞いた話だと、金銭を投げる賽銭と平行して、米を納めることも行われていた。これは私鋳銭や破欠銭などの悪銭が一般に流通し、貨幣の価値が安定していなかったためである。16世紀ごろから戦国大名が年貢を銭納から穀納に切り替えるのだが、これとほぼ同じ理由であると言えるだろう。
ただ、やはり米は重い。特に遠方から参詣に来る人たちにとっては米を持ち歩くことなど考えられない。そのような事情から、やがて銭納が一般化した。
16世紀に描かれた狩野永徳『洛外名所遊楽図屏風』を見ると、清涼寺の前に賽銭箱が置かれており、さらにその隣で、お坊さんが参拝者に向けて柄杓を突き出している。これは参拝者から寄進の銭を受け取るための道具で、勧進柄杓と呼ばれるものである。目の前に柄杓を突き出されて、寄進を断れる人はめったにいないだろう。


寺社参詣は近世に入ると大衆化の傾向を強めた。五街道の整備、農村の生産力の増大、ことに商品作物の栽培によって消費の余裕が生まれたことなどが原因として挙げられる。さらに、1804年に始まった難波講に代表される「安心してとまれる」ことをキャッチフレーズにした指定旅館制度など、旅行関連サービス業の発展も見逃せない。こうして、旅は民衆にとって苦しいものからレジャーへと変質していった。
例えば伊勢神宮への参拝(お伊勢参り)の場合、ただ伊勢神宮だけを見、来た道をまた戻って帰ることは少なく、多くは奈良や京都の諸社寺を見て歩く巡礼の要素を持っていた。『文政十三年・天保十二年伊勢参宮道中日記』という文書では、現在の福島県から、文政十三年に9人でお伊勢参りに出かけた記録が残されている。正月に出発し、伊勢から熊野、高野山金刀比羅宮善光寺を経て地元に戻るまでの記録で、88日間の大旅行であった。正月に出発しているのは、農閑期を選んだため。
このときの費用は、記録に残されているだけで1人当たり2両3分。雑費を含めて3両ほどだと推測される。当時の物価だと、1両あれば一家4人が一ヶ月は楽に暮らせたので、庶民にとってはやはり「一生に一度は」という話だったと考えられる。


一方で、寺社の側にも近世以降において名所化を進めていく、内在的な要因があった。中世後期から近世にかけて多くの寺社が荘園を失い、それに代わる経済基盤が求められるようになるにつれて、寺社は次第に参詣者や檀家からの奉納・賽銭に対する依存を深めていくことになったのである。
延暦寺末社(北野社・祇園社など)では、境内諸堂の賽銭が宮仕(社殿の管理人)の取り分と定められており、これを巡って争論も起こっている。例えば、やはり延暦寺末社である唐崎社では運営の主体を担っていた飛鳥井家に対し、分家である鈴木家、杉生家から賽銭の配分を求める訴えが延暦寺に出されている。それについて延暦寺は、賽銭の配分を2・1・1とするように命じると共に、謹仕もやはり三者が交代で行うように命じた。寺社経営の構造が参拝者からの収入と不可分のものとして定着していく過程として、この争論を捉えることが出来るだろう。
また、拝観に際して賽銭ではなく一定の拝観料を徴収するシステムは、上述した名所化が特に進んでいた畿内の有名寺院においてその嚆矢が見られる。金閣寺(正しくは鹿苑寺)の住持鳳林承章の日記『隔冥記』には、早くも1642年11月7日の日記で舎利殿へ入る際に布施を取る例が記載いる。これも一種の拝観料と考えられるが、一律の料金を取るという意味では、1789年3月、司馬江漢の書いた紀行文『江漢西遊日記』に記録が残ってているので、一部抜粋して紹介しよう。

金閣寺の寺へ行く、十人にて銀二匁出し見物す、三階の額には究意頂(原文ママ)とあり、池に色々の名石あり」

1802年滝沢馬琴『羇旅漫録』からも紹介。

金閣拝見の者、一人より十人までは銀二匁なり、これを寺僧に投ずれば則庭の門をひらく、東山銀閣寺もまたかくのごとし」

ひとりから十人までまとめて銀二匁というのもずいぶん大雑把なやり方だが、拝観者の数が少なく、個別に対応することが可能な間はこれでもよかったのだろう。しかし、19世紀に入って巡礼熱がさらに加熱すると、ひとりづつ拝観料を徴収する現在と同じシステムが定着することになる。1839年の木村啓胤『たびまくら』から抜粋して紹介。

「拝見料弐百文差出し勝手より切手を受取、脇之方なる小門より入」

これによって寺院の「名所化」は完成を迎えたと言える訳だが、明治以降に入ると「名所」としての価値に加え、教育施設としての「文化財」的価値が有名寺院に与えられる。それによって寺社参詣のあり方もまた変化していくわけだが、その点については別の機会にということで。

トラウマ

最近は本来の意味を外れ、単に「嫌な出来事」「ことあるごとに思い出してしまう記憶」くらいの軽い意味で用いられることが多い。過去のある出来事が現在のこれこれな状態を形成している、というわかりやすさ、単純さが、人に「トラウマ」という言葉を使わしめるのだろう。
思うに、他者からの影響によって現在の自分が形成されている、という物語を作り上げることは、世界と自分との間に確かなつながりを感じさせ、心に安定をもたらす効果がある。物語は科学ではない、しかし、幸せをもたらすためのちょっとした知恵であるとは言えるだろう。

スティーブン・スピルバーグ監督『ジョーズ』

ハリウッド映画で「最後の敵」の死に方は、「爆発」「転落」「激突」にパターン化されていて、雑魚のように撃ち殺されることはない(あったとしても例外的)。銃社会という現実に対する、アメリカ人の屈折したマッチョイズムが現れているような気がする。
イージー・ライダー』や『俺たちに明日はない』だと、主人公が「唐突に」撃ち殺されてエンディングを迎える。やはり銃というのは日常の中に潜んでいるもので……と、この辺の感覚はアメリカに住んでみないとわからないのかも。
ジョーズ』は最後の爆発オチで「なるほどハリウッド映画だなぁ」という感じがした。