常用漢字表は不要

例によって、正字・正假名使ひの爲のアンテナ経由で。

前半については特に無し。たぶんもっともな指摘なんだらう。
後半。絵に描いた餅、それもうまいかどうか分らない餅、と評すれば足りる。


「まぜがき」についても反対です。「憂うつ」を「憂鬱」と書くことにも反対です。では、どう書けばいいのかといいますと、「ゆううつ」「ユウウツ」でいいのです。「ユーウツ」という書きかたが普通になるかもしれません。「ゆううつ」という語は一般化しており、同音異義語もありませんので「ユ ウ ウ ツ」という音でことばを判断できます。「ここ数日、憂鬱で、憂鬱で」と言うかわりに「ここ数日、気がはれなくて」でもいいのです。

常用漢字表の見なおし常用漢字をふやすことをしない限りまぜがきを強要される場合が(今と同じく)あり得る。代用できる語が無いが、その字が使へないとなれば交ぜ書きしかない。
「でいい」「でもいい」は飽くまでも「でいい」「でもいい」でしかない。「漢字を使はない方がいい」といふ考への人に限り「その方がいい」となる。

文明開化の時代にヨーロッパのことばを日本語に翻訳するにあたり、漢字を使ったり、漢字で造語したのがまちがいだったのです。男尊女卑の伝統のうえで、"かな"は女こどものものとされ、漢字よりも程度の低いものとされたことが影響していたのでしょう。先祖が開発したひらかな・カタカナを使って、日本本来のことばである やまとことばで造語すればよかったのです。旧字体を知らなければ 過去の書物を読めないことと同様に、やまとことばを知らなければ、いにしえの文学や かきものの意味が把握できません。

まちがいだったのですとかすればよかったのですとか今さら文句を言っても何にもならないのだが、それはまあいいとしても、抽象的にはともかく現実に具体的に可能だと思へるのだらうか。
それで、例へば「憂鬱」といふ言葉を滅ぼすと後代の人が過去の書物を読めないなんてことにならないのか。

普段よく使われているために、聞いてすぐに意味の把握できる漢語は漢字で書いていいでしょう。しかし、そうではない漢字の熟語、耳なれない漢語は、やまとことばを復活させる、やまとことばで造語するといった方法で置きかえ、中国文字の使用を次第に減らしてゆくことが大切ではないかと思います。副産物として、同音異義語が減ることが想定されます。いにしえの中国からの輸入文字を使うことが日本語を大事にする"みち"ではなく、やまとことばを大切にすることこそ「日本語」を大事にする日本人のすすむべき"みち"だと考えます。

どうせ次第に減らしてゆくことしかできないのだから、「まぜがき」についても反対する人としては、暫定的に常用漢字をふやすことに賛成した方がいいのでは。

どうもうまくまとめられないから適当に書き連ねる。
手元の新聞に、「覚せい剤」とか「はく奪」とか「団らん」とかの表記がある。これは漢字制限のせいで交ぜ書きをせざるを得ないのだらうが、このことは漢字制限をしたところで漢語を減らすことにはつながらないことを証明してゐるのではないのか。それならば常用漢字をふやすことには反対などしても意味はない。
書く場合には気がはれなくては「張れなくて」と誤解されるおそれもあるがどうか。もっとも趣旨はあまり変らないが。

余力あるひとは、表外漢字の読みを覚えればいいでしょう。物知りだと思ってもらえます。漢字をたくさん知っていて 漢字の読み書きができれば 尊敬されていた昔のように、尊敬されるかもしれませんョ。

個人的な感想だが、このくだりには腹が立ちますョ。見下して揶揄してゐるのか余裕があることを(わざとらしく)示してゐるのか知らないけど。「「余力ある」人は、日本本来のことばである やまとことばを学べばいいですョ。物知りだと思ってもらえますョ」とでも言ってみようか。
具体的にどの程度が「余力あるひと」なのか分らないが、さういふ人がみんな物知り自慢のために覚えてゐるとでも言ふのか。大和言葉をよく知ってゐたり「日本語」を大事にする日本人のすすむべき道を考へたりするのは「余力ある人」のすることではないのか。