「知の創出」のコモディティ化への戸惑い

コメントやトラックバックを拝見しつつ、難しいことを書き始めてしまったなと思う。今日は
「「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050618/p1
「「勉強能力」と「村の中での対人能力」」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050620/p1
の続きだ。結論があって書き始めているのではなくて、書くことで考えてみようという試みだ。元「勉強好きな少年」の一人として、今起きている大きな流れについて、僕自身も実は戸惑っているのである。
世の中は日に日に複雑化し、「勉強能力」「学習能力」が仕事上ますます大切になっているのは事実である。ただその一方で、それだけで飯が食える場(チャンス)が確実に減っている気がしている。インターネットのおかげで。あるいはインターネットのせいで。
それで一つの仮説として、「飯を食うための仕事」と「人生を豊かにする趣味」はきっちり分けて考え、「勉強好き」な部分というのは「音楽好き」「野球好き」「将棋好き」と同じ意味で後者に位置づけて生きるものなのだ、と考えるってのはアリなのかもしれないなと思い始めているのである。文学や哲学が好きで文学部に進んだ人なんかの場合は、「最初から就職先あんまりないぞ」みたいな覚悟があって、ほんの一握りの才能を持った人以外は、「勉強好き」(自分が楽しめると思える領域の勉強)の部分を仕事で活かせるなんて、はなから諦めていた。そしてその部分を「人生を豊かにする趣味」と位置づけて生きるのは、これまでも当たり前の流れだったのだろうと思う。その感じが、文系世界では経済学部や法学部のほうまで、そしてさらに理系にまで、どんどん侵食してくるイメージ。そう言ったらわかりやすいだろうか。同意できる仮説かどうかは別として。
では「飯を食うための仕事」という部分では純粋に何が大切なの? という話になるとやはり「対人能力」なんだろうな。そこをきちんと意識しておかないと、つぶしが利かないんじゃないかなぁ。そんなことが言いたかったのである。ここでいう「対人能力」は前エントリーで述べた「村の中での対人能力」ではない。組織の外に向かって開かれた「対人能力」のことだ。
トラックバックいただいたRingo's Weblogの「ハッカーという言葉の意味」
http://www.ce-lab.net/ringo/archives/2005/06/21/index.html#000046
で、Ringo氏はこう語る。

ソフトウェアを使って行動するのは人間なので、人間の動きをよく知っていることが、ソフトウェア開発者の必須条件なのだ。だから、良いソフトウェアを書く人は、人間の扱いに長けていなければならない。

ハッカーの定義を狭くすることで、現在日本にいる「ハッカー」の多くはハッカーではなくなる。プログラミングが大得意だからといって、対人コミュニケーションや人間観察をおろそかにしているプログラマは、コンピューターの達人であって、コンピューターと人間の達人、つまりハッカーではないからだ。
だから、ハッカーになるためにきわめて大切なことは、日ごろから、歴史、経済、政治、芸術(文学、音楽、、、)、恋愛、などについて興味をもって勉強をし続け、人間の理解を深めることなのだ。

今後、ハッカーを雇いたいソフト開発会社の経営者は、面接のときに「コミュニケーション力」を見るのではなく、「人間に対する興味」を見るようにすればいいのではないかと思う。

ひょっとすると誤読かもしれないけれど、ここで経営者でもあるRingo氏が書かれているこの「ハッカーの条件」とは「飯を食うことができるハッカーの条件」なのではないかなと思った。
逆にいえば、そうでないハッカー、つまり「対人コミュニケーションや人間観察をおろそかにしているプログラマ」が開発できるソフトウェアは、だいたい皆、遅かれ早かれ、今は200万人とも言われているオープンソースプログラマーたち(米国以外に住む25歳以下の学生がかなり多く、これからも世界中でその層がどんどん増えていく)によって、無償提供される世界になるのではないか。
「対人能力は陳腐化しないよね」と僕は「これからの10年飲み会」の冒頭で話したが、そのときにイメージした「対人能力」のベースっていうのは、Ringo氏の言葉である「人間に対する興味」と全く同義だ。それさえあれば「対人能力」は場数を踏んでいくと、どんどん磨かれていく。

10年経とうが20年経とうが、人間が生きて暮らしていくこの社会において絶対不変の価値である「対人能力」「営業能力」を身につけた人(Toplineを稼げる人)が、「チープ革命」や溢れかえる情報やITツールの恩恵を受けて(Toplineを稼ぐために必要なコストは年々下がっていく-->Bottomlineは改善されていく)サバイバルする時代に入る。

と前々エントリーで書いたが、この能力を身につけておけば、かなりつぶしが利く。
むろん「そんなものは要らんのだ、頭さえよければ」と思って「勉強好き」少年が人生を見つめるのは自由だが、それで「飯が食える」可能性は、野球や将棋や音楽のプロとして飯を食っていける可能性とまではいかないまでも、けっこう厳しくなるんだろうな、これから。そんなことを最近すごく思うわけだ。
今のグーグルの技術陣ってのは、「対人能力なんてものは要らんのだ、頭さえよければ」というタイプのハッカーにとっての「最後の楽園」という感じがする。だから世界中から入社希望者の列ができているのではないか。グーグルが「狭き門」化していて、グーグルに入れなかったハッカーたちが「グーグルしか行きたいところないんだよなぁ」と言っている姿を見ると、これは何かを象徴しているのかもしれないなぁ、なんて思ったりする。
(このグーグルについてのパラグラフはid:kazamaさんからのトラックバックの指摘が正しい。ご指摘の通りこの文脈ではやや唐突である。グーグルの採用思想に知能偏重がかなり強いのでふっとここで書いてしまった。ご指摘内容について考えた上でいずれ改めて稿を起こしたい)
「知の創出」という言葉が適切かどうかわからないが、知を創出しても、それをデジタル・コンテンツとして定着させたとたんに一気にコモディティ化していく。ならばデジタル化せずに隠しておけばいいか、といえば、大きな流れとしてそういう考え方は淘汰されていくだろう。よって「何か知を創出してそれをコンテンツにまとめてそこで終わり」というタイプの仕事の価値は下落する。「発明とか特許とか世界初の「知の創出」に関わるような仕事はこれからもっと大切になっていく」というのは真実だが、そういうことができる人以外は皆ダメよ、というのは厳しいよなぁ。少なくとも今はもっと「知の創出」をめぐる世界はのんびりしている。多くの人にとって、「知を創出」したら、それを「対人能力」をもって自ら味付けしてカネに変えなければ「飯が食えない」時代が到来する。本当にそうかなぁと自問し、また戸惑いながらも、今、そんなことを考えているわけである。