小沢信男著作 152

 小沢信男さんの文章に従って、本所にいろいろな事業がおこってきたことを記して
きました。そのなかのあるものは、後世に大きな事業体となって世界的にも有名と
なるのですが、ほとんどは家族規模でのものであり、そうした家族(父と息子)の
仕事風景を取り上げたのが高田行庸さんの写真集です。
 小沢さんの文章は、本所という地勢についてかたり、地の利を生かしておこった
産業について言及し、それに従事する人々を取り上げます。
 本所に暮らす家族のものとして、写真家 高田行庸家の明治以降の足取りが記録され
ています。ここでは、明治に生まれた高田家の有名人のことが話題になります。
「彼は『アララギ』の編集にかかわり、のち歌誌『川波』を主宰し、専門歌人として
後半生をすごし、昭和三十七年、六十四歳で没した。」
この方は、写真家のおじさんとなります。
「近代日本短歌史の大牙城『アララギ』は、ルーツが本所なのである。」
アララギ」といえば、斎藤茂吉土屋文明といった歌人が率いた短歌グループであり
ますが、これのルーツが本所とは、思ってもみませんでした。
 これは「アララギ」の編集・発行人をつとめた伊藤左千夫が、本所区で牧場を経営し
ていたことによります。
「本所ステイションは、現・錦糸町駅だが、いまより両国寄りにあり、南口の駅前広場
のあたりにデボン舎という牧場があった。約百年前、大横川より東は南葛飾郡なみに
田園的だったわけだ。その牧場主が伊藤左千夫
 牛飼いが歌詠む時に世のなかの新しき歌大いにおこる
 
 牛飼いも牛乳販売という文明開化の新事業であって、その牧場の脇の土手をSLさえが
走り出す。『世のなかの新しき事業が大いにおこる』という自負から、この歌の力強さ
は生まれているのだろう。」
 伊藤左千夫が中心となって創刊したのは、1908年(明治41年)のことだそうです。
明治26年服部金太郎によって精工舎が創立されましたので、その15年後のことです。