本の匂い

 昨日、「月に100冊読むのは大変だ」と言った。そしたら女優のミムラさんは月に200冊を読んでいるという。スゲ!この人はエッセイも書いているし、奥山景布子さんの『たらふくつるてん』(中央公論新社)の帯に推薦書きをしていた。そうか、とてつもない読書家だから奥山さんと知り合いだったのか。
 そのミムラさんがNHKの「ごごナマ」という番組で「朗読」をしていた。ワシャは見てはいないのだが、本好きなミムラさんが本を紹介したらしい。紹介した本はおそらくジョン・アガード『わたしの名前は「本」』であったろう。その本を読んでいないので、なんとも言えないが「電子書籍には本の匂いがない」というようなことが書いてあるのではないか。
今、ネットで調べたらわかりもした。ミムラさんが「大岡越前」の番宣で「ごごナマ」に出ていたんですな。「大岡越前」のついでに「西郷どん」の番宣もしておられもした。そこで「本なしでは生きられない!」とか「月の読書量 最大200冊」とか「好きな本は声を出して読む」とか言っていたらしい。ううむ、ミムラさん、本物の読書家のようじゃ。
ミムラさんのことを調べていたら、こんなのも見つけましたぞ。
http://logmi.jp/156793
 書店にいった時のパリッとした書籍の新鮮な匂い。図書館の重厚感のある香ばしいような甘いような独特の匂い。古本屋のカビ臭さホコリ臭さの混じったような、でも「臭い」とは言いたくいない匂い。これらは電子書籍には百年経っても出せないものであろう。
 急いで『わたしの名前は「本」』を入手しなければいけないが、ワシャが本が好きな理由の中に「匂い」は確実にあって、それは小学校の真新しい教科書を開いたときのあの匂いでもある。そして本に埋まった父親の書斎、煙草の匂いも混じっていたが、本の匂いにそれが混じると悪い匂いではなかった。今思えば懐かしい匂いなんだろう。そういった紙の本の記憶と後年の読書体験と混ざり合って、本のある場所を居心地のいい場所として認識するようになった。本屋、古本屋、図書館、家の書庫、これらはとても落ち着くのであった。

 電子書籍というのもありだと思うが、電子書籍は何万冊集めても「匂い」は出てこない。それにリアルな物量による圧迫感は皆無だ。今も背後からは江戸文献の背表紙がワシャを睨んでいる。この緊張は電子書籍では生まれないもので、この緊張が次の読書を誘う。
 ううむ、ミムラさんに負けないようにがんばって本を読むか……。今月の読書会の課題図書もまだ手つかずだしね。

※後日メモ:『わたしの名前は「本」』(フィルムアート社)を入手。「本」の一人称ですすむ本好きにはたまらない本である。
《わたしがパピルスでできていたとき わたしは植物でできていた。わたしが象牙で作られていたとき わたしは骨に似た成分でできていた。わたしが羊皮紙だったとき わたしは動物でできていた。そんなわたしは自然派と呼ばれてもいいかもしれない。》
そんな「わたし」に電子書籍がけげんな顔で言った。
「本ににおいなんてないでしょう」
それに対して「わたし」はこう答える。
「本ににおいがあるに決まっている。本に夢中になることを“本に鼻を突っ込む”というだろう」
また《アメリカの作家、レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』には、「本はナツメグとか異国のスパイスのにおいがすることをご存知かな?子どもの頃、本のにおいをかぐのが大好きでね」と、老教授フェーバーが主人公のモンターグに語る場面がある。》なんていう記述もあったりして。