日々記 観劇別館 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-06-04

『モーツァルト!』感想(2018.6.2 12:30開演)

キャスト:
ヴォルフガング・モーツァルト古川雄大 コンスタンツェ=平野綾 ナンネール=和音美桜 ヴァルトシュテッテン男爵夫人涼風真世 セシリア・ウェーバー阿知波悟美 アルコ伯爵=武岡淳一 エマヌエル・シカネーダー=遠山裕介 アントン・メスマー=戸井勝海 コロレド大司教山口祐一郎 レオポルト=市村正親 アマデ=小河原美空

これで帝劇見納めになりそうな『M!』の古川ヴォルフver.を観てまいりました。

ヴォルフとアマデ以外は初日と同キャストです。今回ついに香寿男爵夫人と新コンスのお2人を観ないまま終わりそうな気配が濃厚です。

古川ヴォルフは事前に予想していた以上に歌では善戦していると思いました。とは言え、まだ歌って表現することだけで手一杯で、歌っている間は歌にのみ精神が集中してしまっているという印象です。あと、1幕終盤や2幕クライマックスのキャスト全員のコーラスが入る場面では、ヴォルフの声があまり聴こえてこなかったりもします。

ただ、そのこなれていない、舞台の上でヴォルフとして生き切る為に必死で戦い続けている姿が、古川ヴォルフの子供っぽく純粋で未熟で刹那的な天才の役作りをかえって盛り立てているようにも見えました。アマデ(美空(あおい)ちゃん可愛い!)が才気溢れる子供の冷徹さの権化だとすれば、ヴォルフは子供の脆さと危うさの権化。ヴォルフもアマデもどちらも子供(^_^;)。

育三郎ヴォルフの場合は、逆に中の人が万事そつなくこなす大人な性格である印象がありますが、その分、成熟してはいるが自制心のなさと繊細さ、そして自身に真っ正直すぎるがゆえに思い描いた通りに生きられず、苦しみ続ける人物像を産み出すのに成功していたと思います。

個人的にはどちらかと言えば、古川ヴォルフの傷つきぶつかりながら懸命に一度きりの人生を生き切る人物像が好みではありますが、育三郎ヴォルフから感じられる、天才と言えども(天才であるが故に)逃れることのできない人生の苦味もまた捨てがたいです。

そしてコロレド猊下の一挙一動をつい追いかけてしまう立場としては、2人の対照的なヴォルフに向き合う時の猊下の色の違いがまた楽しかったりするのです。

例えば1幕終盤のヴォルフの猊下の館への乱入場面で、怒りに叫び暴れる古川ヴォルフに激昂しつつも、猊下、どこかはらはらとした表情で見守っているように見えました。育三郎ヴォルフに対してはあまりはらはらはしていなかったと思います。

ところで猊下大司教という位の高い権力者なので、大体いつも舞台上で庶民のヴォルフより高い位置に立って会話しています(ヴォルフの夢や幻想場面は除く)。アルコ伯爵男爵夫人(特に男爵夫人)は普通に降りてきて同じ目線の高さで話しているのに対し、猊下は向こうから話しかけられない限り口を利いてもいけない相手。以前の演出では1幕のおトイレ場面と2幕のレオポルト召喚場面では庶民と同じ高さにいた筈なのに、今回はおトイレはカット、召喚場面でも階段の上から話しかけています。ヴォルフはそんなものクソ喰らえ! 音楽家は貴族と同等だ! と初めから意識的にタメ口叩いて喧嘩腰を貫き通すわけです。

その猊下が2幕の「破滅への道」で、かなり不自然なシチュエーションとは言えヴォルフと同じ目線の高さで対話している! と、最初に見た時にはかなり衝撃でした。

以下はただの妄想なので読み流していただいても結構です。

いくらヴォルフが自分は貴族と対等だと主張してみても、猊下の方はヴォルフと対等だなんて一度も考えたことなどないのですが、ヴォルフが理不尽にも神様から素晴らしい才能を与えられた特別な存在であることは悔しくても認めざるを得ません。そして同時にその才能の赴くがままに走り続けたなら、そう遠くない日に宿主が破綻することにも気づいてしまっています。その危うさには多分、レオポルトやナンネールは関係が近すぎるが故に、愛憎関係が濃すぎるがために気づいていないのだと思います。男爵夫人はもしかしたら薄々感づいているのかも知れませんが、それ以上に善意と「自分が彼の才能を支援し引き上げたのだ」という自負の方が強いと思われます。

でも猊下、このままではヴォルフのきらめく宝石が危ない、護らねば! と気づき、せっかく彼のもとまで降りて説得したのに、大衆に喜ばれる芸術の値打ち評価しないばかりか、「自分の掌中の珠にして独り占めする」以外にアプローチの仕方、そして護り方をご存じないので結局振られてしまうのですね。

以前の演出では考えたこともなかったのですが、そのようなやり方でしか憎みつつ愛する者に接することのできない猊下から、レオポルトとはまた異なる「父親の哀しみ」のようなものが感じ取れて、猊下に憐れみの念を禁じ得ませんでした。古川ヴォルフの場合は特に危うさ加減が強いキャラクターなので余計にそう感じたのかも知れません。

……何だか今回、ミュージカルの感想なのに猊下とヴォルフの感想ばかりで申し訳ありません。

今回、涼風男爵夫人の高音の伸びの半端なさや、2幕序盤の「ここはウィーン」での全身が白くきらびやかに輝く美しさに圧倒されもしていました。

また、最初から最後までどこか疎外感から解放されないしんどさを全身から滲み出させる平野コンスの存在感、そして歌唱力の向上にも密かに感服したりもしていました。

なのにどうしても、
「神何故の猊下の歌い方、初日から変えているし、『おんがーくーのーまーじゅーつー』の声の出し方、何だか進化していませんか?」
と、一周回ってまた猊下に心が行き着いてしまうのは困ったものです。

そんな邪な見方しかできていない自分ですが、多分これで帝劇では『M!』は見納め。新しいコンス達も観たかったし、香寿男爵夫人も憲史郎くんアマデも観たかったよ……と、とても残念に思います。

2018-05-28

『モーツァルト!』帝劇初日感想(2018.5.26 17:45開演)

キャスト:
ヴォルフガング・モーツァルト山崎育三郎 コンスタンツェ=平野綾 ナンネール=和音美桜 ヴァルトシュテッテン男爵夫人涼風真世 セシリア・ウェーバー阿知波悟美 アルコ伯爵=武岡淳一 エマヌエル・シカネーダー=遠山裕介 アントン・メスマー=戸井勝海 コロレド大司教山口祐一郎 レオポルト=市村正親 アマデ=大河原爽介

井上芳雄くんがヴォルフ役を卒業してから初めての、新演出版と銘打っての『モーツァルト!』2018年公演の帝劇初日を観てきました。

「新曲あり」「一部場面のカットあり」以外の事前情報はあえて仕入れずに参戦。以下、変更点を中心にレポートします。例によりネタバレありですのでご注意ください。

メインのステージセットはピアノを模したものに変わっていました。『エリザベート』や『レディ・ベス』と同様に階段がたくさんあって高低差が激しく、客席に向けて真っ正面ではなく、盆回りで止まる時ちょっと角度をつけて奥行きを深く見せる感じのセットです。加えて背景などの映像をプロジェクター投影して見せる場面も増えていました。

人物動線やアクションもこまごまと変わっています。大階段や銀橋を活用した演出が大幅に増えた印象です。

例えばコロレド猊下は、元々高所からばばーん!とヴォルフ達庶民を見下ろしながら登場することが多かったので動線の変化は少ない方ですが、それでも馬車のシーンで以前より高い位置で揺られていたり、「神よ、何故許される」の立ち位置がこれまでのセンターから上手の階段の途中に変更されたりしていました。

また、コンスタンツェのソロ「ダンスはやめられない」ではコンスがステージセットを上下に忙しく移動しながら歌っていて、「大変だなあ」と思いながら聴いていました。

懸案の、新曲が増えたことでカットされた場面は、覚悟していたためか意外と多くはありませんでした。例えば市場でナンネールがアルコ伯爵にいじめられた後に市場のおばちゃん達がフォローする場面。猊下の馬車移動時のおトイレ場面。これらがカットされたために、ナンネールは市場でしょんぼりなままですし、馬車は馬に水を補給しても猊下はトイレには行けません。いや、別に猊下はトイレを我慢しているわけではないのでいいんですが。

もう少し細かい所では、プラター公園の場面の「並の男じゃない」のアレンジが少し変わり、時間も少し短くなっていたようです。ほかにも細部が変わっている可能性がありますが、DVDを復習しないと良く分かりません。

なお、内心「ここは削られるかも?」と覚悟していた猊下の「お取り込み中」シーンは残っていました。ただ、以前あった、壁の向こうの出来事をシルエットで匂わす演出が好きでしたので、それがないのは少し残念です*1

メインキャストにも変更がありました。ドクトル・メスマーとシカネーダー。

この演目におけるメスマー存在感なんて考えたこともなかったのですが、今回、プロローグの墓場から天才アマデの登場に一気になだれこむ時の戸井メスマーのコールの声が実に滑舌良く力強く響いておりまして。実は観客を物語世界に引き込む鬨の声を担う重要な存在だったのだと初めて認識しました。

逆にシカネーダー。ルックスも良く、歌も歌えてダンスも綺麗です。なのに、何かが足りない、と感じました。

シカネーダーの居酒屋でのソロ場面はヴォルフに
「芸術は特権階級が独占するものではなく、大衆のものであり観客のものである」
という思想を身をもって知らしめ、以後のヴォルフの芸術家としての生き方を決定づける極めて大事な場面です。なので、この場面におけるシカネーダーには、彼自身が最高のエンターテイナーであり、ショーを自在に操り盛り上げ、観客の熱狂を呼ぶ存在であってほしいとこれまでは当たり前のように期待してきたのですが……。どうもそのような観客の身勝手な期待に応えるのは2代目シカネーダーには早すぎたようです。いずれ時間の流れと新キャストの成長が解決してくれることを期待しています。

また、キャストの衣装も新調され、一部は細かいデザインが変更になっています。例えば猊下の2幕の黒い衣装の上着は、左右の身頃がアシンメトリーなデザインに変更されていました。左身頃に細かいプリーツが寄っていて、大きな十字架の意匠が施されているなかなかオシャレなデザインです。

大人ヴォルフの登場時の赤いコートや、猊下の赤いコートとマントは変わらず健在です。今回のパンフレットに載っている小池先生のメッセージによれば「赤いコート」はご自身の演出上どうしても外せないポイントのようです。おかげでこちらとしては猊下の初登場シーンの見事なマント捌きを引き続き堪能できてありがたい限りであります。

そして今回の新演出の最大の目玉である新曲「破滅への道」については、2幕の後半で披露されました。

歌詞の細かい内容については省きますが、猊下のヴォルフへの飽くなき執着と、誰かに支配される人生へのヴォルフの最終的な訣別を描いたデュエットナンバーです。これまで蓄積されてきたコロレド大司教人物像に微少な変化をもたらす1曲でもあります。

猊下とヴォルフはそれぞれが水と油のような存在で、決して歩み寄って相互に理解しあうことこそありません。しかし猊下は、ヴォルフという理不尽な天才の存在に激しく葛藤しつつ執着し愛しているがゆえに、ヴォルフの進む道の先に待ち受けるものを見通すことができてしまっています。恐らくはヴォルフの父レオポルトが血の繋がりに邪魔されて見ることができなかったものまでも。

これは自分の勝手な思いに過ぎませんが、今回の新曲を聴き、
「もしヴォルフの父親がレオポルトではなく猊下であったなら、ヴォルフにはまた違う運命があったのではないか?」
と埒もないことを考えてしまいました。猊下にはヴォルフの望むクリエイターとしての生き方は永久に理解できないとしても、少なくとも天才が背負った宿命の重さとそれがもたらす苦しみはそのまま受け入れて愛することができたのではないか、と。エピローグで合唱する時の猊下のお顔が殊の外寂しそうに見えたのは決して気のせいだけではない筈です。

まだまだ書きたいことはたくさんありますがそろそろまとめに入りますと、以上のように変更点への戸惑いや驚きはありましたが、初日(カテコでの小池先生のご挨拶によれば通算507回目の公演だったようです)のキャストはびっくりするほどレベルが高く申し分のない舞台を見せてくれていたと思います。

今回の公演は何故だか全然チケットが取れなくて、帝劇公演の手持ちの残りチケットは6月2日マチネのみ、後は名古屋大楽までお預けになる可能性が大、という状況です。何とかそれまでに香寿たつきさんの男爵夫人を見ておきたいのですが……。

おまけ。小池先生のカテコご挨拶によれば507回通し出演者は市村さん、山口さん、阿知波さんのお三方だそうです。市村さんはミュージカル界の人間国宝、山口さんはキング、ということでした。個人的には阿知波さんには「ビッグマム」などの称号を授与したいと勝手に思っております。

*1:シルエットが削られたのは、「星から降る金」の前のヴォルフの色事も同様ですね。

2018-04-15

『髑髏城の七人 極 修羅天魔』感想(2018.4.8 14:00開演)

キャスト:極楽太夫(雑賀のお蘭)=天海祐希 兵庫=福士誠治 夢三郎=竜星涼 沙霧=清水くるみ カンテツ=三宅弘城 狸穴二郎衛門=山本亨 ぜん三=梶原善 天魔王/織田信長=古田新太

友人からの誘いを受けて、IHIステージアラウンド東京にて、『髑髏城の七人 極(ごく) 修羅天魔』を観てまいりました。

最寄りの豊洲新市場も未だ完全オープンに至らず、とにかく何もない場所、と聞いていたので、月島駅のおむすび屋さんで軽く腹ごしらえしてから劇場入りしました*1

この劇場も初めてですが、実は髑髏城シリーズ自体初見なのです。

なので『修羅天魔』には他の髑髏城シリーズに登場するメインキャラクターが登場しなかったり、同じ名前でも人物設定が異なっているキャラクターが存在したりする、と聞いてはいても、元々の髑髏城シリーズの骨格ストーリーを知らず、「比べる楽しみ」という点では少し損をしているかも知れません。

もっとも『修羅天魔』もひとつの独立した演目として作られているので、バリエーションを知らなくても存分に面白く堪能することができました。

新感線の演目の含有要素として、ミュージカル、音楽劇、ストプレ、新喜劇、歌舞伎、そして剣劇などがあります。それらの多要素がぜいたくに盛り込まれたお芝居を、プロジェクションマッピングや回転客席でショーアップして見せてくれます。劇団☆新感線をあえてカテゴリ分けするならジャンルは? と今回少し考え込みましたが、やはり「新感線」というジャンルの演劇、あるいは「いのうえ歌舞伎」という歌舞伎であるとしか考えられません。

訳が分からないことを書いてしまいましたが、とにかく様々な要素の詰め合わせで、各要素の完成度が高く洗練されていて、しかも楽しいのです。

例えば敵役である髑髏党の幹部のひとり、宮毘羅の猛突(くびらのもうとつ)にハラシンさんこと原慎一郎さんがキャスティングされていて、何故? と思っていましたが、1幕中盤で納得しました。猛突、もうひとりの幹部で右近健一さん演じる迷企羅の妙声(めきらのみょうせい)と部下とともに歌う歌う。「普通の芝居の中で突然ミュージカルが始まる」というシチュエーション自体は笑いのネタとして良くありますが、ネタ場面でありまがらミュージカルとしての完成度が本気なのが新感線の恐ろしい所だと思います。

今回の『修羅天魔』は上演時間が3時間45分(うち休憩20分)という長丁場でしたが、観ていて全く時間の長さを感じない演目でした。

開演すると観客はデーモン閣下のロックな歌声に乗せられながら、360°回転する客席をぐるりと取り囲む関東荒野、弱者やマイノリティがありのまま弱みをさらけ出して生きていける無界の里、鉄砲鍛冶の工房、そして敵の本拠地髑髏城といった戦国ケレン味たっぷりの世界に取り込まれます。

回転客席と360°円周舞台の感想としては、「これ、大道具出しっ放しでいいんだ、凄い!」とまず思いました。また、「走馬灯のように過去を回想する」や「複数の場面を短時間で切り替える」といった映像的な演出をまさか舞台で見られるとは思いませんでした。たまに、客席が回っているのか、それとも幕に映る映像が回転しているのかが判然としない時はありましたが。この劇場、新感線以外の演目でも使いこなせるんだろうか? と少し心配ではあります。

物語の核になるのは謎に満ちた天魔王とクールビューティーなスナイパーお蘭との情の駆け引きですが、彼らの関係はかなりミステリアスに描かれていました。天魔王と家康、どちらの言葉が正しいのかによってお蘭と天魔王の関係性が全く変わってきて、しかしどちらに転んでも2人の戦いは避けられない運命として糸に手繰り寄せられ、最後の最後に直接対決でようやく真実が明らかに……! というクライマックスまで引っ張る展開はさすがです。

天魔王の自滅のきっかけとなった最後の行動については、正解ではないことを覚悟の上で示した天魔王自身の真情だったのか、あるいは本当に勘違いだったのかはよく分かりません。ただ少なくとも私は、前者であったと信じています。だからこそお蘭もああいう形できっぱりと決着をつけざるを得なかったのだろうと思うのです。

骨子のストーリーはシリアスで血生臭く悲哀溢れるこの演目の中で一服の清涼剤となっていたのが、沙霧とカンテツでした。

髑髏城潜入の鍵を握る、賢く純粋で可愛らしくて度胸もある沙霧は、舞台に現れるだけでその場を明るくしていました。カンテツが戦場の臭いとは違う沙霧の匂いをたどって注文品を届けるというエピソード象徴されるように、裏の世界に生きてきた他の登場人物とは全く異なる空気をまとった少女。清水くるみさん、はまり役だと思います。

そしてカンテツ。何と言ってもカンテツ。コメディーリリーフにして実は最大の危険人物のような気がします。最初出てきた時素で三宅さんとは気づきませんでした。ブラックな笑いをさらいつつ、与太郎的ボケで憎まれず、ここ一番では恐るべき実力(若干の怪我の功名もありますが)を発揮するという複雑なキャラクター。登場するたびに客席の爆笑を誘っていました。これもまた、三宅さんのはまり役であり当たり役の一つだと思います*2

他の登場人物も魅力的でした。

とりわけ、夢三郎の悪の華、それから意外にもマトリックスな大暴れを見せるぜん三に目が行きました。兵庫の純朴さ、二郎衛門の腹の中の見えなさ加減、あと二郎衛門の御庭番である清十郎の渋さとキレの良さ(川原正嗣さん好演!)も印象に残っています。

竜星涼さんの、愛に飢え父親を追い求め、父親のためなら手を血に汚すことも全く厭わない夢三郎は美しかったです。あと10年早ければ吉野圭吾さん辺りもイメージぴったりだったかも? と思いながら観ていました。

兵庫と夢三郎の関係はもっと掘り下げられていても良かったように思います。夢三郎は太夫に身をやつしている時から既に、徹頭徹尾自分自身(そして父親)のことしか見えていないのですが、兵庫からは無界の里の象徴のように扱われ憧れられていたわけで。その関係性が強ければ強いほど、裏切られ同胞を失った悲しみもまた深くなるのではないでしょうか。

久々の新感線演目、とても楽しかったです。

豊洲は自宅からは電車の乗り換えが多く、決して近いとは言えませんが、駅にも劇場にもバリアフリーな設備や配慮があるので、安心して出かけることができました。

今年は引き続き新感線がキャストを変えながら『メタルマクベス』のロングラン公演を行うそうです。秋頃に浦井健治くんが出演するとのことなので、願わくば観に行きたいところではありますが、さて、チケット取れるかなあ。

*1:豊洲駅周辺まで行けばもちろんたくさんお店がありますが、足の関係でなるべく歩きたくなかったので……。

*2:他の『髑髏城』でも同じ役を演じられていたようです。

2018-04-01

宝塚歌劇 花組東京宝塚劇場公演『ポーの一族』千秋楽 ライブ中継感想(2018.3.25 15:30上映)

キャスト:エドガー・ポーツネル=明日海りお シーラ・ポーツネル男爵夫人=仙名彩世 アラン・トワイライト=柚香光 大老ポー=一樹千尋 カスター先生=飛鳥裕 老ハンナ高翔みず希 レイチェル=花野じゅりあ フランク・ポーツネル男爵=瀬戸かずや ジャン・クリフォード=鳳月杏 バイク・ブラウン/バイク・ブラウン4世=水美舞斗 メリーベル=華優希

ぜひ一度観たいと願いながらもことごとくチケット抽選に外れ、観劇が叶わずにいた花組ポーの一族』。何とか流山おおたかの森のTOHOシネマでのライブ・ビューイング(LV)に滑り込むことができたので、観に行ってまいりました。ちなみに人生初のLVです。

脚本・演出小池先生。あまりにも名作過ぎる原作を、いじり壊したり、逆にアレンジを恐れて半端になっていたりはしないだろうか? とどきどきしながら上映(上演)に臨みました。

おお、LVって意外に映像が綺麗! というのが第一印象でした。無論生舞台の迫力や質感には及ばないまでも、オペラグラスを使わずに生徒さん方の表情を追えるのはありがたいです。

物語は原作の主に「メリーベルと銀のばら」及び「ポーの一族」の2編に準拠しつつ、他の編の要素も取り込み、舞台という表現形態や宝塚の約束事*1に合わせて、後半の主な舞台を人の行き来が多いホテルに変更するなど大胆にアレンジしている部分も多く、それでいて原作のイメージを壊さない、割合にバランスが取れた仕上がりであったと思います。

ポーツネル男爵の「エドガー、ガラスに映っていない!」やメリーベルの「時をこえて遠くへ行く?」、エドガーの「きみもおいでよ、ひとりではさみしすぎる」などの名台詞、名場面の数々もいい感じに散りばめられていました。

そしてなんと言っても、「青い、青い目」を持ち妖しい美しさを放つみりおさんエドガーを筆頭に、バンパネラ達(ポーの一族)の華麗なことと言ったら! あの麗しさ加減は宝塚ならであると思いました。華優希さんのメリーベルも実に可愛らしいです。

柚香光さんのアランは声が低く、原作を読んだ個人的イメージとしてはアランの声はもう少し高めなので、若干違和感がありましたが、眼差しに独特の猫系の色気が漂っていて、しばしばロックオンされておりました。

舞台化に当たってのストーリーのアレンジについては、前述のとおりイメージを損ねないよう配慮はされていますが、かなり大胆な変更もなされていました。

例えばエドガーがシーラと最初に出会った年齢が、原作では幼年期(20歳のシーラより10歳以上下)、舞台では一族に加わる直前(14歳ぐらい)と大きく異なっており、エドガーがシーラに対し、初恋未満の淡い慕情を抱く展開になっています。そのためか、ポーツネル男爵エドガーへの感情に、正統な血筋を持つが生意気な義理の子を持て余す気持ちに加え、どこかシーラを巡るライバル意識のような心情も加わっているように見えて面白かったです。

とは言え、シーラの婚礼とメリーベルを守るための離別、そしてエドガー一族に加えられ、ポーの村を去るまでの、原作の「メリーベルと銀のばら」では少なくとも5年以上にまたがっているエピソードがわずか数日間、下手したら2日間程度の出来事になっているのは、さすがに無理があるんじゃないかと突っ込みたいです。

なお、この時間経過の変更により、エドガーと離別した時のメリーベルもそれなりの年齢(11〜12歳ぐらい)になっているので、メリーベルがお空に放り投げられそうになることもありません。

ついでに「メリーベルと銀のばら」の後半のエヴァンズ家のオズワルドとユーシス兄弟のエピソードがかなり説明的に1場のみで片付けられたのもなかなか衝撃でした。あのエピソードはメリーベルの関係でスルーできない一方、クローズアップした場合ほぼ兄弟が主役になってしまうので、それを回避したかったのだろうとは思いますが、ちょっと駆け足すぎのように感じられました。

多分、この大胆なアレンジを許せない原作ファンも多いと思われますし、確かにこれはどうなのよ? と感じられる所もありましたが、まあ、舞台としての表現に作り替えるとこうなるんだろうな、と自分としては割と納得しています。

なお「大老ポー、消滅した!」「大老ポー、降霊術で召還された! バンパネラの魂は普通の人間とは違う場所に行く筈では? 何故?」というツッコミ所もありましたが、あれは自分的には、

大老ポー。あの爺さんレベルの妖魔なら『消滅したふり』とか『降霊されたふりして現れて、言いたいことだけ言って去る』とか難なくできるだろう」

という落とし所で一応納得しています。

歌部分の歌詞も「僕はバンパネラ」と歌うエドガーのソロなどは割とベタな感じでしたが、他は原作の台詞や世界観がうまく生かされていたという印象でした。

……これ以上書いていると延々とツッコミと妥協や納得を続けてしまうので止めますが、

「いやー、2.5次元舞台、しかも原作が古典的名作のものって、媒体変換の妙味が面白いけど、作る側も演じる側も、そして観る側も本当難しいね!」

というのが総括的な感想です。

でもこれは宝塚。どんな舞台であっても、最後にカップルがゴンドラ宙乗りして、三番手、二番手、そしてトップスターが華麗に舞い踊り、歌えば夢の世界は美しく締めくくられるのでした。

そして今回は千秋楽花組の組長さんが4名の退団者(専科の飛鳥裕さん、花組の生徒さん3名)からの宝塚愛たっぷりのメッセージを読み上げ、最後にご本人方から生ご挨拶がありました。宝塚に詳しくない自分も思わずほろり。

LVから一週間。やはり生の舞台で観たかった、という思いは無論ありますが、諸事情で現地に行けなかったファンのためにこうして高品質の映像と音で、比較的家に近い場所で見せてもらえるのはやはりありがたいです。

特に現在、体調が不安定かつ思わしくない日が続いている立場になると、こういうイベントは本当に嬉しいので、ぜひ宝塚新感線だけでなく、いずれ東宝ミュージカルも、とつい欲張りな願望を抱いております。東宝さん、ぜひ!(と、今度アンケートに書いてこよう)。

*1:生徒さん全員を出すために原作にはない登場人物がぞろぞろいる、男役スターにそれぞれ見せ場を設ける、など。

2018-03-12

『マディソン郡の橋』感想(2018.3.11マチネ)

キャスト:ロバート=山口祐一郎 フランチェスカ涼風真世 マリアン=彩乃かなみ マイケル=石川新太 キャロライン=島田彩 チャーリー=戸井勝海 マージ=伊東弘美 バド=石川禅 others=加賀谷一肇

都合3.75回目*1の『マディソン郡の橋』を観てまいりました。今のところ、今回がマイ楽になる予定です。

以下、ネタバレありの感想です。しかも、ほぼ主役カップルのことしか書いておりません。

東京公演も後半戦になりましたのでいい加減しつこいかも知れませんが、これから『橋』を観劇予定の方はご覧になってからお読みいただくことをお薦めします。

今回の座席は3列目下手ブロックという、あまりにもステージに近すぎる場所でした。そのせいで逆に度胸が座ってしまったのか、それともお友達と楽しく美味しいごはんをいただいてリラックスした上に腰痛の痛み止めが効きすぎたのか、妙に落ち着いてフラットな心持ちでキャスト9名の美しいハーモニーを、随所で物語に緩急をもたらす加賀谷さんのダンスを、そして運命の2人の愛の顛末と彩り豊かな歌声を、ひたすらに全身で受け止めるような観劇になりました。

1幕ラストで山口ロバートの手を取って階上の寝室に誘う瞬間、涼風フランチェスカの決意の眼差しに背筋がぞくっとしました。あれは、出会うべくして出会った宿命の恋人、ロバートに対する激しい思いから一歩も引かず、自分の心に従い、2人でどこまでも行こうという覚悟の眼差しであると解釈しています。

更に、2幕のフランチェスカがロバートの両肩に手を置き、ロバートがその手を長い手指で(文字通り繊細な指と手つきで!)そっと取って語り合う場面。互いにたくさん愛し愛されて、身体の奥底から満たされた思いを味わっている様子が伝わってきました。そしてメロディーにハーモニーにと入れ替わりながら強く共鳴し合う男女の歌声。充ち満ちる幸福感。

なのに。その相手が「聞いてほしい、フランチェスカ。行こう、一緒に!」と渾身の(歌い方もまさに渾身の熱情を込めて!)呼びかけをしてくれているのに。「あり得ない!」と、フランチェスカは口にしてしまうのです。かけがえのない家族と会うこともなくここを立ち去るなんて! と。

大昔、奇しくも山口さんが過去の恋愛に関するインタビューで「男はロマンチストで女は現実的」と語っていたことがあったけど、まさにその通りだね、と思いながら、2人の最後の夜の帳が下りていく舞台をじっと見つめておりました。

なお、頭のほんの片隅ではありますが、『エリザベート』で夫の皇帝に死を覚悟の最後通告を突きつけた涼風シシィを「エリザベート、行こうよ、2人で」と黄泉へと誘惑して「いやよ、逃げないわ!」と拒否される山口トートもちらりと連想してしまいました。当然シシィは間違っても「家族が大事」と言うとは思えませんが(^_^;)。

原作小説のフランチェスカには「2人なら一瞬で」どこまでも行ける筈のロバートと共に行かない理由として、ロバートを見送る時点で既に、家族に対する責任を放棄したくないから、というきっぱりとした答えがあって、リアリストな傾向がより強いと感じました。

しかしミュージカル版ではフランチェスカ、その辺りの心情に若干の迷いがあるようで、夫と息子マイケルの諍いを収めようとすることにより明確に「家族」であり「母」であることを選び取る一方で、夫にハグされた時に露骨に避けたり、街でロバートとすれ違った瞬間になお彼の胸に飛び込む自分を想像してしまったりと、激しく逡巡し揺れ動きます。この違いは脚本家が、逡巡した方が絵面としての見所やドラマとしての盛り上がりがあるためにそうしたのか、それとも小説のようにあの状況で毅然とする女性は受け入れられづらいと気後れしたのか、あるいはその両方なのかは良く分かりませんが、もう少し毅然としたフランチェスカでも良いのにね、と考えてしまう場面です。

その後のフランチェスカは心にロバートとの素敵な思い出を棲まわせ続けながらも、娘は近くに嫁ぎ、息子は反抗期のサポートの甲斐あってエリート医師に、ついでに夫は濡れ落ち葉にもならず最期まで家族思いのまま先立ってくれて、と割と普通に幸福になるわけですが。

今回、白髪になって死を前にしても静かに待ち続けたロバートが「色あせても浮かび上がるのはあの日のあなた」と歌うのを聴きながら、これほどに残酷な幸福はない、と思ってしまいました。

決して本人は後悔もせず、むしろ自分と来るより家族を選ぶ彼女だからこそ好きになったのであり、しかも孤独な暮らしの中で生涯運命の相手を待ち続け、愛を捧げ続けることができたことの幸福を自覚しており、自身を不幸だとは露ほども考えていないのですが、であるからこそフランチェスカの幸福と比べた時にロバートの幸福に痛ましさを覚えてしまいました。

ただ、波風なく穏やかに妻と相思相愛であったチャーリーや、知らぬが仏とは言え無骨な愛情で妻と子を包み続けたバドと同様、ロバートの送った生涯もまた一つの幸せの形であり、愛情の形であることには違いありません。

愛って何ですかねえ? とベタすぎることを考えながら、これで見納めなんて……と消え入りそうな気持ちで劇場を後にしつつ、隣の建物でしっかりお買い物をして『橋』仕様チケットケースを入手してから帰宅いたしました。しかしゲットしたは良いですが、なかなか使いどころに困るケースではあります(^_^)。

*1:1回分は4分の1遅参しましたので……。