The Da Vinci Code (Robert Langdon)

The Da Vinci Code (Robert Langdon)

The Da Vinci Code (Robert Langdon)

 昨日、読了。足掛け二日、実質一日に起こった出来事を描いた小説。サスペンスとして読めば、それなりに面白い。更に、映像化を最初から考えていたような作りで、ルーブルからパリ市街地、ベルサイユ近郊、ロンドン、最後はスコットランドとめぐるましい動きも面白い。従って、あくまでフィクションです、で終わっておけば、「面白かったね」ですむ。
 ところが最大の問題点は、どう考えても立証できない点を「真実」または「事実」として訴えているところ。けれど、逆に言えば、そんな内容だから大いに売れたのだろうけれども。でも、Harvard Universityの教授であるLangdonが、結構はったりを「歴史的事実」として語っている点が、「うそっ」と思える点。まあ、ハーバードの教授や女王から爵位をたまわった歴史学者ルーブル館長が支持している、というレトリックを用いて、いかにも信憑性があるかのように、語っているのも作者の作戦ではあるだろう。
 はったりは思い込みはたくさんあるだろうし、保守的な生き方、特にカトリックの現体制や「オバス・デイ」を批判している点はいただけない。言い過ぎ。ダ・ヴィンチについての理解は勝手にしてもらっても言いけれども、新約正典の問題、ニカイヤ会議、キリストの神性の問題に関しては、全くの事実無根の思い込み。このあたりについてはhttp://d.hatena.ne.jp/jyunrei/20060531が適切な指摘をしている。

 知恵の力と脆弱性(伝道の書6:10-7:14)

 これまでコヘレト(伝道者)は富とその限界について語ってきました。しかし、6:10より彼は目を知恵に転じ、その限界について論じはじめます。
I. 人の現実と疑問(6:10-12)
 まずコヘレトは6:10-12において、人間がどのような現実に生きているかを説明しています。
 人は絶対的な主権者である神の前では無力です。神によって「その名がつけられ」ており、「自分よりも力強い者」、すなわち神と「争うことはできない」存在です。つまり、人は様々な可能性をもっていますが、絶対的な主権者である神の決められたことを変える事はできません。
 次に、コヘレトは「だれが将来(口語訳では『その身の後に』)日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか」(6:12)と疑問を投げかけています。つまり、「だれが将来起こる事を告げることができますか」と問いかけているのです。答えは明らかです。誰一人として、将来起こることを告げることはできません。人は将来について全く無知です。
 しかし、コヘレトはこのような限界を提示するのと同時に、まさにそのような人間に「なんの儲け(口語訳では『益』)があろうか」(6:11)と問いかけています。いつまでも残る儲けを人は獲得する事ができるのでしょうか。いままでの議論の中で、コヘレトがだしてきた答えは「いつまでも残る儲けは存在しない」です。しかし、ここで再度、この問題についてコヘレトは取り組もうとしています。しかし、それだけではありません。コヘレトはもう一つの質問を投げかけています。「人にとってよいこと(しあわせ)とはいったいなにか」、そして、もしよいこと(しあわせ)があるとしたら、「それを告げることができるのは誰なのか」。「儲け」より控えめな「よいこと(しあわせ)」について考えるようにと、コヘレトは招いています。
 いつまでも残る儲けをえる事ができなかったとして、何かよいこと、しあわせがあるように求めるのがわたしたちの自然な願いです。実は7章以降でコヘレトは「儲け」と「よいこと(しあわせ)」があるのかどうか、という問題に取り組んでいきます。神の前で無力であり、将来を知ることができない限界をもつ人に儲けやしあわせはあるのでしょうか。
II. 知恵の力と脆弱性(7:1-12)
 しあわせについての議論を始めるにあたり、コヘレトは知恵について再考しています。知恵には力があるのでしょうか。逆に弱点(脆弱性)はないのでしょうか。
 知恵の言葉は人生について大切なことを告げています。名誉の大切さ、死の現実を知ることの大切さを忘れてはいけません(7:1)。宴会で現実逃避をすることをコヘレトは勧めてはいません。すべての人の終わりである死をしっかり見つめることが大切であるからこそ、「悲しみの家」、つまり喪中の家に行くことを勧めているのです(7:2)。そして、悲しみを笑いでごまかさず、しっかりと見つめることを勧めています(7:3)。まさに「事の終わりはその初めよりも良い」(7:8)からです。そして、死を見つめることの大切さをしっかり認識しているのが、知恵ある者です(7:4)。このようにして、人生を歩むことにおいて何が大切であるかを知っている知者の戒めの声を聞くことは祝福です(7:5)。しかし、知恵なき者の声は耳障りです(7:6)。
 死を見つめる事の重要さを知っている点において、知恵は確かに力です。しかし、知者も完璧ではありません。「しえたがは賢い人を愚かにし、まいないは人の心をそこなう」(7:7)とあるように、圧制とわいろによって、知者はその知恵を放棄してしまうこともあります。
 もちろん、コヘレトは愚かさをほめたたえてはいません。「気をせきたてて怒るな、怒りは愚かな者の胸に宿るからである」(7:9)と語るように、愚かさから怒りが生まれます。また、「昔は良かった」と口癖のようにいう人は愚かであるとも言っています。知者は回顧に浸ることなく、現実をしっかりと見据えるからです(7:10)。ですから、7;11に「それ(知恵)は日を見る者ども(生きている者たち)に儲け(口語訳では『益』)がある」と言っています。これは2:13で主張したことの繰り返しです。やはり、知恵には儲けを得る可能性は潜んでいるのです。
 しかし、コヘレトは自らの経験から、またさまざまな観察から、知恵は完璧ではないことを知っています。だから「知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ」(7:12新改訳)と言うのです。何となく、金銭に力があるように、知恵には力がある、と言っているように聞こえますが、これまでのコヘレトの議論を思い出すと、全く違ったニュアンスが浮かび上がっています。金銭は力があるようですが、それは完璧ではありません。むしろ、人を不幸にする大きな可能性を持っています。同じように、知恵にも限界がある事、つまり「知恵はよいものだが、せいぜい金銭の力程度のものだ」ということをコヘレトは訴えているのです。もちろん、「知恵はこれをもつ者に生命を保たせる」ほどの力はあります(7:12)。しかし、知恵も完璧ではありません。
 知恵を蓄えれば人生何とかなる、と思っている人が多くいるのかもしれません。コヘレトは知恵の力を否定しているわけではありません。そして、自らが知者であることを否定している訳でもないのです。しかし、知恵にも限界がある、そのことをもう一度わたしたちに訴えています。
III. 神のみ手のうちにある人間(7:13-14)
 それでは、知恵の持つこの限界はいったいどこから生まれてくるのでしょうか。コヘレトは死ぬことが「知恵を持つ者」、つまり知者の限界であると2章ですでに語りました。しかし、知恵そのものにも限界があります。
 全権者である神こそが知恵に限界を与える原因です。「神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか」(7:13)とあるように、人は神のなさるわざに対して全く無力です。それでは、神のわざとは何でしょうか。コヘレトはその例として、「順境の日」と「逆境の日」を挙げています(7:14)。何事も上手くいく順境の日があるでしょう。逆に、何をやっても上手くいかない逆境の日もあります。神はこのそれぞれの日をわたしたちにお与えになられます。順境の日と逆境の日が一日おきにやってくることがわかっておれば、わたしたちは将来を予測して、上手くやっていくできるでしょう。しかし、残念ながらそうではありません。「神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」(7:14)とあるように、神はわたしたちの予想を裏切るようなリズムで、順境の日と逆境の日をわたしたちに与えられます。そして、その結果、わたしたちは何が将来起こるのか、把握する事はできないのです。こう考えると、コヘレトが6:12において述べているように、知恵の限界の原因のひとつは人が将来を予測できない現実です。そして、全権者である神は、意図的に世界をそのように造られたのです。
 人の生涯もその知恵も、すべて神のみ手のうちにあります。そして、私たちの生涯には様々な限界が存在します。そのことに気がついた者は、無理やりに自分の力で将来を強引に切り開こうとするのではなく、自らの限界を理解して、神のみ手に委ねて進むべきではないでしょうか。